兄と弟



 夕方になると唄をうたう。食前に、暮れゆく空と町なみを映す、窓のそばで。ただぼくらは、じょうずに旋律を紡げるようになりたくて、ただそれだけのために、練習をした。練習の時、ぼくはほとんどずっと、弟の、唇の動きをみつめている。一方で弟は、まるで音の高低を空中に見出すかのように、視線を一点にさだめている。まぶただけは、薄く開いたり、閉じたりしながら。そうしてひと息つくと、決まってこう言う。「たかい音は出るんだけど、下がる音がむつかしくて」ぼくが用意したテーブルの料理は、もうとっくに冷めている。夏も、春も、冬も、秋も。


 おそくなった夕飯を終えて、お風呂のお湯を沸かすあいだ、弟は窓のそばで、食後のレッスン。「夜の窓ガラスは、ひとつの大きな瞳のようだ」弟が言う、「おにいちゃんの目にも、ちょうどこんなふうに、ぼくが映っていた」窓ガラスに映る、ちいさな自分の姿を見つめながら。


 二人分の食器を洗って、温かいお風呂に入って、体を洗ってやって、すこし長めの本を読んで、灯りを消す。薄い闇がおりてくる。ベッドのそばにある窓から、夜風が入りこんできて、ぼくらの肌を撫ぜる。ぼくは思わずまどろむ。涼しくて、気持ちがいい。やさしい。


「夜は、しずかだね」


 弟が、呟いた。


「そうだね」


 きっと神さまが、鍵盤のふたをお閉めになるんだ。

 だから、夜はしずかなんだ。


 弟はそのあと、眠ってしまった。生き物が眠りにおちる瞬間というのは不思議だ。その瞬間は、どれだけ目を凝らしてもとらえられない。ただ、気づいたら目の前には、とびらがある。夢の世界へと至るとびら。とびらの向こうからは、音楽が漏れ出していて、ぼくらはなんとなく察する、とびらの向こうには、夢の世界が広がっている。10.9.8.7、引き返そうか、どうしようか、6.5.4.3.2.1、迷っている間に、扉はひらかれる。その頃には、すっかり意識を手放している。


 弟の寝息はとても綺麗で、ぴったりと、夜の音程に合っていた。何ヶ月練習しても出ない声が、眠ったときには、あまりにもすんなりと出ているようだった。窓のすき間から流れてくる音が、まるで磁石みたいに、弟の寝息に吸い寄せられていって、太さを増してひとつになる。弟が夜と仲良しになると、ぼくはひとりきりになる。夜のなかにぽつんと残される。たったひとつの、決して和を乱さない音に、押し込められた気分になる。



 夜はどこまで深くなるのだろう。右に窓、左に弟。あたりは闇。ここは、何も聞こえない。目が慣れてくる。前方は闇。闇の向こうにも闇。何も見えない。ただ暗い。ぼくは、朝が来てほしいと心から思う。朝靄の中、かみさまが鍵盤のふたを開ける、その横顔を見たなら、その最初の音を聞いたなら、ぼくはきっと、もう少しだけ生きられる。生きてみようと思える。たとえ幸福が、列車のように過ぎ去るばかりでも。たとえ夜が、永遠に終わらなくとも。たとえぼくだけがひとり、世界と逆行しようとも。


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