亡霊パン屋
「いらっしゃいませ……」
亡霊のファミリーが営むパン屋に一人の生者が紛れ込んだ。そこは昼間でも入店するのが憚られるほど鬱々とした雰囲気を纏っている店なのだが、のこのこやってくる人間がいるとは驚きである。どうやら男は随分と腹が減っているらしかった。あるいは些事を気にかけないおおらかな性格なのか。
「うん? なんか暗いですね」
「亡霊は暗いところが好きなんです。じめじめしたところもね」
「ははは」
ご冗談を……男はトングとトレーを手にすると陳列されたパンたちを見て口籠った。カビが生えていた。それに芳ばしい、小麦とバターの焼ける香りがしない。店内に満ちているのはパン屋には似つかわしくない鼻をつまみたくなるような耐えがたい腐臭である。
「失礼ですけど、迷い込んだネコ的ななにかが死んでませんか? なんか、その、臭いが……」
「ああ」店員はポンと手を打った。「うちのおばあちゃんでしょうな。昨夜、突然ね……いやはや、我々もビックリしましたよ。今奥で発酵させているところなんですけどね。臭いますかね」
「いや。全然……パンの匂いしか……」
男はべっとりと床にこびりついている血を認めて笑った。「はっはっは」どうやら腹を括るしかないようだった。
「町の小さなパン屋ですけどね。こう見えてうちは一流ホテルにも出入りしているんですよ。どのパンも好評なのですが、わけても人気なのはこれです」
なぜかモーニングを着ている店員が男にそろそろと忍びよると、ひとつのパンを指さしてみせた。
「フィンガーパン! この町のおじいちゃんたちの指が入ったパンです。食感が楽しいとか」
「なかなか、斬新というか、なるほどよさげですね。ですが、生憎わたしの好きなパンは砂糖がたっぷり入った……」
「菓子パンですか! ではこれですね。マリーの血潮パン。鉄分がとれて貧血の症状が改善されます」
「血の気は多いくらいです。ほかは?」
「前市長の一部を練り込んだ愛郷食パンはいかがでしょうか。ブルーチーズにも似た香りだと好評です。マーマーレードとよくあいますよ!」
「残念、マーマーレードはちょうど切らしているところで……そうだ、クロワッサンはありますか」
「クロワッサン! うちのクロワッサンは美味しいですよ。あらゆる人を死に至らしめます」
「これジム、お客さんが困ってるだろうが、」
「おばあちゃん!」
「ほどほどにしてやりなさい」
モーニングの店員はうさぎのような軽やかさで奥へと駆けていった。そこには死後硬直のため歩きづらそうな老婆が長髪の女に支えられて出てきたのだった。
「そうよあなた。あの人は生者よ……返してあげなくちゃ」
「生者か! どうりで反応がおかしいと。ところで母さん、無理をして大丈夫なのかい? いま発酵中なのに……」
「パパ! あそんで!」
「マリー! パパは今仕事中なんだ……そうだ彼に遊んでもらいなさい。彼はとっても暇そうだ」
「こんにちは」
男の背後で自動ドアが開きあたらしい客がやってきた。常連らしく、パン屋のファミリーと親しげに談笑している。そうしてパンチパーマをかけた客はフィンガーパンを二つ、マリーの血潮パンを一つ、鶏冠サンドイッチ(紫色の鶏冠を男は初めて見た)を一つ、無神経看護婦のハムサンドを一つ購入していった。
「無神経看護婦って、もしかして最近失踪したN病院の女性ですか? 新聞でも騒ぎになった」
「そうよ」
全身血を抜かれてもぴんぴんしているマリーが答えた。
「マリーね、手術のあとで何日もご飯が食べれなかったの。それなのにあの人はこう言ったのよ。食べないとねえ! よくなるものもよくならないのよ! って。だからマリーね、おじいちゃんに頼んであの女をハムにしてもらったのよ」
「そうっさ、このクロワッサンでね!!」
「イチコロよ! マリーもすぐ死んじゃったけどね」
亡霊たちの間からぬるりと姿を現した指のない老爺は、声を張り上げるやいなやマリーと抱き合って泣き出してしまった。男はさきほどから退店する機会をうかがっているのだが、みるみるうちにチャンスが失われていくのを感じている。ここで背中を向けたら薄情者のレッテルを貼られパンにされたあげく不名誉な商品名をつけられるに違いなかった。男は踏みとどまった。
「マリーは何回も大きな手術をしたのよ。それなのに……あの女ときたら……」
「マッ、マリー……それは大変だったね。きみは強くてりっぱな女の子だよ。しばらくは病院での出来事を思い出してつらいだろうけれど、いつかきっと人の痛みがわかる素敵なレディーになれる。……そうだ」
男はすがるような心地でカバンの中を漁った。そこには配色もデザインも申し分ない一つの小さな箱があった。駅の百貨店で購入したチョコレートである。10粒5000円だが、考え方を変えればたった5000円支払うだけでここから抜け出すことができるのだから安いものだ。
さて、微妙な沈黙が場を支配するなか、小箱を受け取ったマリーはとたんに泣き止み笑顔になった。男は青白い少女の顔をはじめて可愛いらしいと思った。
その場にいた全員が断末魔のような雄叫びをあげてよろこんだ。あまつさえモーニングは涙を流している。
好印象を植え付けたところで、仕事に戻らないといけないとか、もっともらしいことを言って、男はパン屋をあとにした。
店前の道路を呑気に自動車が走っている。空気が澄んでいてうまかった。二度と来てやるものかと心に誓いながら、男は道中の公衆トイレで一度胃の中のものを吐き出すと、ふらふらとした足取りで会社にもどった。
善行を積んだためか、おもいのほか仕事はよくはかどった。満員電車に揺られながら、男はマリーの顔を思い出して、すこしほほ笑んだのだった。
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