わたしのコントラバス
わたしたちの口から出る言葉はすべて音楽になった。わたしたちの町に会話というものはなく、また互いを呼び合うための名もない。ただ音の旋律のみでコミュニケーションを図りあう。おはようの旋律、こんにちはの旋律、おやすみの旋律。住人たちには、それぞれ生まれ持った音色があって、生ある限りじぶんの持つ音色がどのように奏でたら美しく聞こえるか、より魅力的に聞こえるかについて工夫を凝らす。楽器に種類があるように、人にもそういった内に秘めたる楽器という媒体があった。わたしたちは、わたしたちの魂や心の形と深くむすびついたオリジナルの楽器を弾く。そうして人と人とが結ばれていく。やがて、好きな音やメロディを奏でる人に好意を抱く。互いを友とする。恋人とする。何かを共に成し遂げるパートナーとする。
わたしたちには名前というものがなかった。ただ、その人を特定する旋律だけがあった。だからわたしたちは相手を呼ぶときに、その一節を口で奏でた。呼ばれたひとは振り向いて、そうして微笑み、また返事の旋律を奏でる。トロロン、ポロロン。
その人は、コントラバスのように低い音を奏でる男性だった。彼はその低い音色を奏でながら、きみの旋律は小鳥のうたのようだとよく言ったものだった。まるで落ち着きがなくて、いつまでも子どもみたいだと。彼は笑った。目尻の皺が深く刻まれたその影に、彼の音が溶けていく。わたしも笑った。頭上の木では、雨あがりを歓ぶちいさな鳥が、愛らしく羽ばたいた。雨の音が濾されていく。紗が地を擦るようなさやかな音だけをわたしの記憶に残して、そうしてあなたは消えてしまった。
あなたは死んだのかもしれないし、ちがう町へ移ってしまったのかもしれない。あまりの絶望に際して、わたしの記憶はあやふやだった。ただ、ひとつはっきりと分かること。それはこの樹の下に、あなたはもういないのだということ。木漏れ日がさすわたしたちの心の隠れ家。みどりの光が降り注ぐ家。ここに二人が揃うことはない。わたしがみるのはあなたの幻。さようなら。また会う日まで。
あの日からわたしは自分の楽器をなくしてしまったように思う。口から出る音は悉くでたらめになってしまって、わたしがどれだけ想いを紡ごうとも、歌をうたおうとも、まるで調律のなされていないピアノを弾くようで。奏でれば奏でるほど、紡ぎたいものからは遠のいていって。わたしは身も心も頭もぐちゃぐちゃになった。わたしはあなただけでなく、自分自身でさえも失ってしまったのだった。
あなたへの喪失がようやくすこし癒えたとき、はじめてわたしはわたしの楽器を探すだろう。ほこりにまみれているかもしれない。丁寧に払って、布巾で乾拭きをして、糸を張り替えて、チューニングをして、初めて音に触れたときのような新鮮な心地で、わたしはふたたび想いを奏でるだろう。そのときになってようやく、わたしは口にしたかった旋律をあなたに残すことができるのだ。
――さようなら。また会う日まで。
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