Scorpio


 太陽が沈んだ空は果てなく暗い。思い出すのは、街灯がひとつもない田舎の、あの闇の深さ。少年は、つと目を上げて、視界の先になんらかの境目がないかを探してみた。地上にいたときの癖である。が、それらしきものは見当たらない。空の上なのだから、当然である。上下にも左右にも境目がない、膨張するばかりの宇宙で、少年は時々、途方に暮れる。ぼくらはいつまでここにいるのだろう、と。

 そんな少年のそばには、背の低い少女の影があった。妹である。ふたりの兄妹は、サソリ座の上に腰掛けていた。どこからか吹いてくる、涼しい微風を頬に受けながら、青い光の上にお尻を並べて。兄は、星の瞬きよりも小さな声で、遠くの国の話を少女に聞かせている。とおくの国、たとえばオリオン座の話などを。兄の話は、母の受け売りであったが、妹はしずかに耳を傾けていた。理解しているのか否か、少年にはわからない。


 やがてその話が尽きたころ、少年は立ち上がった。妹の手を取り、そのちいさな体を引き上げる。顔を見合わせ、笑うふたりは、次の星に向かうため、青く発光する線の上を歩み始めた。ごく僅かな歩幅から足を踏み外さないように気をつけながら、サーカスの綱渡りでもするように。


 先頭をゆく少年は、理科の教科書で見た星座表を思い出している。さっきは、蠍のひたいにいた。次に、ぼくらが向かう星は何だったか、と。その名前を思い出したときには、ふたりはさそり座σ星についていた。兄妹は手を繋いで、遠くに光る赤い星の耀きをみる。「しんぞう」と呟いた妹の双眸に、航空障害灯のような赤い光が入り込む。兄は無言で顎を引いて、ここらで少し座ろうか、と妹を促した。ふたりは冷たい星の上へと座った。長い旅路であった。星団を眺めながら歩けたとはいえ、足が疲れていた。


 足、振ったら少しは楽になるかな? 兄は両足をぶるぶると振ってみせた。妹も、喜んでそれに倣った。そうして宇宙をかき混ぜるふたりは、ゆっくりと明るくなる周辺に気が付かない。初めに気づいたのは、妹であった。お兄ちゃん、宇宙があかるい。と、思えば足下から、ゆっくりと月が流れてくるではないか。兄は、妹を見やる。少女は、寝巻きのワンピースの裾から髪の毛の先に至るまで、ふわりと虹色の光を帯びていた。少年は次に、自らの体を見下ろした。同じく月光に侵されている。不意に、深海魚みたいだ、と少年は思う。

 ふたりは、月を掬うという遊びを思いついたが、いそいそとポイを用意する少年の傍らで、妹の表情は心なしか冴えない。どうしたのかと兄が尋ねれば、妹はおずおずと瞳を上げた。


「ねえ、ほんとに、誰にも見つからない?」

「大丈夫だよ。宇宙は、広いんだから」


 一蹴すると、安堵したのか、兄の屁理屈に丸め込まれてしまったのか、少女は手渡されたポイを構えた。月光と雲で出来ているらしい。

 少女はまだ幼児の頃から、真剣になると、上唇をとがらせる癖があった。その癖が、いままさに現れていた。認めた兄が笑う。愛おしいと思ったのだろうか。

 ふたりはポイを構えて、皓々と煌る月を掬い続けた。しかしポイは、ひとたび月光に触れると、網がほどけるように破れてしまう。破れた片鱗は宙に流れて、次第に雲のまがいものとなった。夢中で遊びを繰り返すうちに、あたりには雲海が出来ていた。


「雲破れっていうんだよ」


 兄は、自分が知る限りの悪いことを全て妹に教えてきた。生まれてから、これまでずっと。そうして、妹は死んだ。目の前で落下する少女をみて、兄はそのまま飛び降りた。死んだのち、気づけばふたりは此処にいた。霊体なのだろうか、少年は、たまに少女の手を握ってみる。あたたかい。少年の生前の記憶は、少しずつ薄れていた。少女の方は、どうなのだろう、少年はたまにそう思うけれども、面と向かって訊ねたことはない。


 妹は、雲破れの話を聞くなり、へえそうなんだね、と無邪気に相槌を打った。ふたりは力を合わせたものの、ついに月を手に入れることは出来なかった。波のように引いていく月光と、零し続けた月を見失ったふたりは、眼下になにか怖いものを見た。なくしたばかりの月を、神さまが水を掬うように両手に受けては、二人のもとへ上がってくるのだ。兄妹は、口を閉ざした。そんな兄の隣に、神さまが腰掛けた。


「弁解は?」

 なにに対して?と

 少年は心のなかで問う。

 あれかな。これかな。それともそれかな。

 いま思いつく限りの罪の数を、指を折って数えてみる。

「ありません」

「よろしい」

 弁解も弁明もできない。

 少女は、兄の側にいる。


 神さまが、捕らえた魚を逃すような仕草で、月を夜空に戻した。バケツに張られた水の中へ、金色の絵の具をぽとんと落とすように、美しい神さまの手から離れた月は、柔らかな光を取り戻して、音もなく夜空の底へ沈んでいった。兄妹はそれを見送る。風が吹いて、二人の細い毛先がひらりと揺れた。運命、と聞こえた気がして、兄は顔をあげる。神さまはもういなかった。


「お兄ちゃん」


 振り返った兄は、神妙な顔つきで、眼下を見つめる妹の横顔を見た。兄は、その目線の先の光景を見た気がした。妹は、まだ憶えているのだ。それも、自分よりもはっきりと。「どうして誰も、気が狂わないのだろう?」目線には、上限がない。不思議だな、と兄は思った。妹の問いを軽視していたわけではない。少年はそんなこと、もうずっとむかしに考えていて、子どもなりには、結論を導き出していた。


「熱いものをさわったことがない子どもに、火傷のいたみを説明できるかい」

「――熱いもの?」

「そうだよ。ぼくらのいた世界は、火傷のこわさを知らない子どもたちが作った世界なんだ」


 そう言って兄は微笑んだが、なぜ、今のタイミングでその笑みが現れたのか、妹はてんで分からなかったことだろう。

 風は微かに吹いている。

 少年は微笑んだまま表情を変えない。言葉はたしかに続いていたが、それを口に出す必要はなかった。


 さあ、傷つけ合おう。見殺しにしよう。誹り合おう。自分の知らない痛みなら、ちっとも怖くないはずだ。罪などという教戒めいた言葉も、この世界にはもう必要ない。やさしさなどという嘘も要らない。すべての人間が得意なことを、ただ誇るだけでいい。

 さあ神さま、こんなぼくらをどう思う?


 兄は妹の細い手を引いた。体勢を崩した少女を難なく星座の下へと突き落とす。指先が離れて、少女は落ちていった。目を見開いたまま。

 

 ほどなくして、少年の手からは、少女の肌の温かさや、柔らかさが消えた。

 月を掬って雲破れ、月を救えずひと破れ、即興のうたを歌いながら、ただの「少年」になった子どもは、また立ち上がって星座の上を歩いていく。ゆっくりでいい。目的を遂行しよう。さそりの心臓を越えて、毒針の先まで進もう。天の川を越えて、星座の果てにたどり着いたなら、もう温もりも、残り香も、何も要らない。ブラックホールの誘い風が、憶い出を失った少年を導いてくれることだろう。



⭐︎



 夏の宵である。望遠鏡を覗いていた少年は、レンズに映ったさそり座から何かがきらりと落ちていくのを見た。

 幾度となくきらめいたあと、それは空に飲み込まれるように消えてしまった。

 少年は、望遠鏡から目を離して、肉眼で空を見上げる。

 ああ僕らはとっても小さいな。

 少年はふとそう考えて、ふたたび望遠鏡を覗きこんだ。


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