蓋を閉め忘れた宇宙


 路地裏のゴミ箱の蓋をぱかりと開いたら、中には宇宙があった。わたしは、数秒立ち止まって、今まさに捨てようとしていた右手のゴミ袋を、どうするべきかと悩んだ。薄汚れた水色のバケツの中では、信じられないほど綺麗な星が瞬いている。今ここにゴミを捨てたら、不法投棄になるのだろうか。わたしの脳裏で、宇宙環境衛生課の職員が喋る。銀河の環境が汚染されます! 一人一人の心掛けが大事なのです。どうか、ゴミはゴミ箱へ。宇宙と繋がっていないゴミ箱へ。


 せっかくだから、この中に入ってみようとわたしは考えた。中は何やら深そうだけれど、身投げは不法投棄にならないのかと言われそうだけれど、いいのだ。わたしがそうしたいのだから。赤信号は皆んなで渡れば怖くないし、宇宙への身投げは一人+ゴミなら倫理に反しても怖くない。うだうだと考えた末に、わたしは右手にゴミを提げたまま、目を閉じて、息を吸って、バケツの底へえいと身を投げた。


 あっ、と思った。


「蓋を閉め忘れた」


 目を開いた。花が咲いていた。新月の真夜中のように暗い闇の中で、色とりどりの小さな花が発光しながらゆっくり開いているのを見た。わたしは靴を脱いで、靴下も脱いだ。地面は草原らしく、草の感触があった。くすぐったい。

 かがんで足元の花に手を伸ばすと、水に触れた。墨汁のように黒い湖に、今さっき触れた透明な雫が落ちていく。降下しているわたしも、足元から湖面に入った。


 ざぼん、と音がして、水の中で音が遠のいた。無音の世界。わたしは、右手に持っていたゴミ袋を手放した。それはゆっくり離れていった。動きづらいから、ズボンも脱いでしまった。


(探そう)


 あの雫はどこへいったのだろう。浮遊したまま泳ぎ出したとき、指先が光に触れた。わたしは、Tシャツ一枚で光の中に立っていた。髪も服も乾いていた。上もなく下もなく、右も左もない。海よりも豊かで、空よりも果てしない。柔らかくて、あたたかく、眩しさを感じさせない、純度の高い光。


 やがてひかりが彼方からやってきた。いま宇宙の中心は、わたしなのだと知った。深呼吸すると、あっという間に、ひかりが収斂して、わたしも一緒に小さくなって、ぽろん、と落ちた。ピアノの高音が零れるような。わたしは、まあるい頬を伝って、誰かの瞳から離れていく。水膜の向こうで、少女の母親らしき女性の声がした。すると再びぽろん、ぽろん、と音がして、わたしは勢いよく、あごから離れた。あ。


「落ちる」


 今度こそ。


 

「神さまと会ったの」


 花子が笑った。それで、その宇宙旅行からどう帰ってきたの? と尋ねると、意識が戻ったときには、自分の部屋にいたという。


「昨日行ったら、路地裏のゴミ箱は、普通のバケツに戻っていたの。ねえ夢だったのかなあ」

「夢じゃなかったら精神科行こうね」

「やだよう。病院より宇宙旅行の方が好き。結婚したらさ、ハネムーンはもう決まりだね」


 空に飛行機が飛んでいった。空港が近場にあるから、機体が大きく見える。尚且つうるさい。全ての音を、そいつが攫っていく。音のかき消えた世界の中で、花子が口を動かしながら笑った。僕も笑った。惚れた人の笑顔は嬉しい。ただ飛行機が通り過ぎると共に、心の底になにかざらざらしたものだけが残った。


「ごめん聞こえなかった」

「ん?」


 日差しに君の笑顔が透けていく。なんだか遠いな。違うレイヤーの住人みたい。重なり合って、こんなふうに一つの絵になっているのに、ほんとはそれぞれ、違う世界に住んでいるんだ。ああ


「雲が白いなあ」



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