節子



 校内では生暖かい風が吹いている。


 昨年は暖冬であった。凍てつくような、身を切るようなあのまことに冬らしき日々はほぼ訪れず、わたしたちは季節を感じぬままに四月を迎えた。そうして突如訪れた春のうららかさにあてられて、わたしたちはふわりとした、不穏なめまいをおぼえる。春は、悪気もなく人の心身を蝕む。否、春に悪意があるかどうかについて、わたしたちは知るすべを持たない。たとえるなら、妖艶な女のようである。決して善良ではないが、悪い人間でもなさそうだ、というような。ただ得体のしれない笑みを浮かべる、どこの職場にでもいる女。


「せつこちゃん」


 満開とはいかないまでも、七分咲きくらいには華やいだ桜の木の下で、整然と制服を着たせつこが立っていた。


「先生、おはようございます」

「ええ、おはよう。桜がきれいねえ」

 

 せつこは眉の位置で綺麗に切りそろえた前髪を微塵も揺らすことなく、わたしと会話をした。饒舌な子ではなかったが、陰気な子でもない。礼儀正しいが、適度に砕けている。ちょうどいい感じの中学生で、昨年度はわたしの生徒だった。そして、引き続き今年もなのだが、それについてはまだ告知しない。このあとの始業式までわたしたち教員は、それがたとえ些細なものであったとしても秘密を守らなければならないのだ。


「去年は学級委員長をしてくれてありがとうね。今年もわたしのクラスにせつこちゃんがいてくれたら助かるのになあ」

「でも先生、もう知ってるんでしょ?」

「まあね」

「ねえ先生、この桜が満開になったら、去年のクラスで花見しましょうよ」


 空に枝葉を広げる桜を見上げ、せつこが言った。その言葉をうけて、わたしは喜び半分、面倒だという気持ちが半分、「それはとっても楽しそうじゃない」と無難に返事をした。表情は変わらなかったけれども、せつこの前髪が少しゆれた。切りそろえられた黒い前髪の奥で、少しだけ目の奥が訝しげにひかる。この少女は、そういうものに敏感だ。心の伴わないたわいのない言葉。きれいごと。お世辞。


「先生、先生をするのはたのしい?」

「ええたのしいわよ」


 そうしてせつこは初めて笑った。まるで桜の花がふわりと開くような、少女らしい笑みだった。

 「どうやらそれはほんとうみたい」と。





 せつこは昨年に引き続き、今年も学級委員長に推薦された。1クラスは20名あまりだけれど、反対の生徒はいなくって(もちろん、興味がなかったり面倒だったりする子がほとんどだけれど)少女は決められた路線を走る電車のように結果を享受した。せつこが学級委員長だと助かるというのは、お世辞でもなんでもなくまことの話で、わたしとしても少女が学級委員長になってくれることについては心より賛成であった。なぜか。


「フラグだったんですね」

「え?」

「始業式の前に桜の木の下で先生、今年もわたしが先生のクラスにいたらいいのにって言ったでしょ」

「あー」


 そうだよ。まるで物語の伏線が回収された気分でしょ。そう返そうとしたところで、職員室の入り口についてしまったので、せつことは別れた。がやがやとした室内に入って、後ろ手に扉を閉めようとしたとき、「前川って本条と仲いいのな」と軽口をたたく男子生徒の声が聞こえた。前川とはせつこの名字であり、本条というのはわたしのことである。そして揶揄する男子生徒はおそらく皆川くんだろう。サッカー部に所属する、はきはきとした少年だ。


 椅子の引く音や話し声、書類を揃えてたたく音、校内の生徒の声、いろんな音が入り混じって職員室はいつも騒がしい。わたしは狭い通路をぬって自分のデスクにたどり着くと、デスクの右端に置いたペットボトルのコーヒーの蓋をあけて飲んだ。椅子に座ると、隣人の鍵山先生に染み付いたタバコの匂いが燻った。さいあくだ、と内心息をつく。わたしはタバコの匂いが苦手なのだ。もう一口コーヒーをのんで、鼻についた匂いをかき消したあと、プリントの作成にとりかかろうとデスクの引き出しをあけて白紙のノートをひらく。パソコンで作れば早いけれど、わたしはこういうのは全て手書き派だ。


 「鍵山先生、本条先生、」――目を落としたところで、背後の女教師が立ち上がって声をかけられる。桜の匂いがした。きっと香水かなにかだろう。鍵山先生とわたしはほとんど同時に振りかえる。そこには、笹山先生が、手にお菓子をもって立っていた。


「これよかったら食べてください。」

「ああ、どうも――あ、月餅。横浜にいきました?」鍵山先生が無邪気な声をあげる。

「そうなんです。友人と行ってきたんです」

「へえ、楽しい春休みでしたね。わたしもレンガの情緒に浸りたいなあ。あ、ありがとうございます」


 わたしと鍵山先生は月餅を一つずつ頂くとちょこん、と頭をあげた。その拍子に、鍵山先生と目が合う。そしてまた、ちょこん、とお辞儀する。「わたし月餅たべたことないからとってもたのしみです。どんな味がするんだろ~」言い終わって目をあげると、笹山先生は微笑んで「お口にあったらうれしいなあ」といった。一瞬、時の流れがゆるやかになるのをかんじた。その赤い唇を、くすみピンク色のアイシャドウを、巻かれた髪の毛を、目の当たりにしてわたしは既視感をおぼえた。


 気が付くとわたしは白紙のノートにむかっていた。結局、既視感の正体を掴めぬままチャイムが鳴った。さきほどより一層騒がしくなった気配にきづいて、わたしも席をたつ。授業にいかなければ。チョークは持ったっけ?


 結局上の空で授業を終えると、とぼとぼと廊下を歩き職員室をめざす。隣を生徒が走って通り過ぎる。あ、走らないって叱るの忘れた、などとぼんやりしながら、歩を進めていると、職員室の向かいに植えられたあの桜の木が右手にあらわれた。ふと、始業式の日にせつこと会話したことを思い出す。湿気をふくんだ生暖かい風が吹いて、わたしの耳の横の毛を揺らした。あの日、せつこと話す前に、わたしはたしか何かを考えていたような気がする。そこまで思い出して、わたしはようやく、笹山先生から覚えた既視感の正体をつかむ。ああ、あの女だ。職場によくいる女。悪女ではない、しかし決して善良でもない、華やかな女。あいつがわたしたちを苦しめる春なのだ、と。


 あの時せつこに声をかけたのは、そんな陰鬱な春のおもみを、せつこがたたずんでいる、ただそれだけで、切り裂いてくれたからだ。


 せつこがわたしのクラスにいたらうれしいよ。なぜ? 特にとりえのない少女ではあるけれど、眉の位置で前髪を切りそろえているのはせつこだけだ。制服にアイロンをかけ、スカートの折り目を正しくして、制服をもっとも誠実に着こなしているのはせつこだけだ。




※パソコンを整理していたら出てきたので載せようと思います。季節外れでごめんなさい。春のはじまりは苦手です。


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