わたし、しょうじょ、とが


 ずいぶん水溜まりの多い夜だった。コンビニで買ったアイスコーヒーを片手に住宅地を歩くと、そこかしこに現れた水鏡が、白熱する街灯と夜空を映し出していた。きれいだな、と思って近づくと、水面の夜景は遠のいた。足元にあるのはただの真っ黒な水。希望を失った人間の瞳みたい。そんなものをしげしげと眺めても仕方がないので、後退して元の位置に戻る。すると再び、先ほどと寸分違わない夜景が現れた。なるほど。遠くから眺めなきゃいけないんだ。何事も。タージマハルも。


 暫くそうして不審者のように、一メートルほど離れた場所から地面を見下ろしていた。ストローに口をつけて、珈琲を啜った。よくよく観察してみると、水溜まりには光を帯びた無数の電線が映し出されている。わたしは顔をあげた。今まで意識しなかっただけで、この町は電線だらけだったのだ。

 

 よく電線を楽譜に見立てる人がいる。たしかに月でも架かっていれば譜面に見えるだろうが、あいにく今夜の空は濁った濃灰色だった。だから、繭か、もしくは蜘蛛の巣だな、と思った。この町の人間はあれに捕らえられている。わたしたちは蛾であった。どうだろう、自分以外の人間は蝶々かもしれなかった。だがわたしは蛾であった。蛾さんに失礼かもしれないが、蝶ではなかった。

 水底にいるかのような湿度だった。水溜まりたちの間を縫って、硬い地面の上を歩く。夜の翳りに佇む白い紫陽花の横を通り過ぎた。


 夕方の驟雨は駅前のエスカレーターを停止させた。傘を持たない若者たちが、駅の構内で途方に暮れていた。精々困ればいいとわたしは思った。動かないエスカレーターを下りながら、なにもかも止まればいい、とも思った。

 そんな幼稚な考えに囚われた自分に嫌気がさして、このまましゃがみ込んで、小さくなって、生まれてこなかったことにしたいな、と思った。けれどそんなことはおくびにも出さず駅周辺を歩いた。

 

 表情を取り繕うのは得意だった。息を吐くときに少しだけ瞼の力を抜くと、胸中がすっと澄み渡る。その瞬間を逃さず口角をあげる。するとだ。優しい気持ちになれる。

 

 殺して下さい誰か。


 明日には気が変わるかもしれないから、可能ならば今すぐに。


●○


 わたしの翅を毟ったのは誰だろう。夜の水溜まりの傍に横たわって蛾は考える。目の前には、海のように広い黒。白熱した街灯も、電線も、マンションのエントランスの明かりも、何も映らない深淵のような闇。

 ガラガラと、けたたましい音がして、氷が降ってきた。目を上げると、暗がりの中で少女がプラスチック製のカップを逆さまにして立っている。氷からは珈琲の匂いがした。


「きたない。しね。やくたたず。ごみのくせに。みにくいくせに。」


 少女がなにか発したけれど、蛾はなんにも聞き取れなかった。聞く必要もないと思った。少女の言葉は蛾である自分に向けてというよりかは、少女自身に向けて発しているように思われたからだ。だから蛾は、わたしの翅を毟ったのは誰だろうと、ただひたすら考えていたのだった。氷が散らばる海の中で。星も見えない、誰かの優しさもない、殺伐とした、ドブのように薄汚い空の下で。あまたの偽物の月光に煌々と照らされながら。


 結論が出る前に蛾は踏みつぶされてしまった。

 消えた少女の靴には鱗粉がついていた。


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