醜い僕らは清らかに踊る
「ねえ」。放課後の誰もいない三年二組の教室は、西日がさしていた。君は家に帰りたくないと駄々をこねて、机にノートを広げて、真っ白のページに鉛筆で絵を描いている。ほんとうのところ、僕は君に付き合う義理などないけれど、何となく、君を放っておけなくて。そんな心の成り行きによって、僕は先生に追い出されるまで、毎日こうして君のじごくに付き合っていた。
「なあに」
前髪が目にかかってうざったい。君の絵がはっきり見えない。けれど、おおよそは分かる。君は夜の絵を描いているらしくて、背景を黒く塗りつぶしている。僕は前髪が邪魔。視覚的には何ら問題ないけれど、僕の精神衛生上よろしくないな。会話にも、君の絵にも、集中できない。眼前をしつこく飛び交う小虫のようだ。
君はずっと手を動かしている。鉛筆の芯がちょうど良く削れているみたいで、君の指から、ムラなく夜がつくられていく。
「手、汚れてもいいの?」
「うん」
ほんとは嫌だろうな。手が汚れて嬉しいやつなんていない。
それと同時に、思う。心が汚れて嬉しいやつもいない。
「お母さんのカレシがね」
「うん」
「スカートの中をのぞいてくるの。夜眠っているときに。どうおもう?」
「どうおもうって。シンプルにクズだよ。お母さんには言ったの」
「次の日の朝に言ったよ。気のせいだって笑っていたよ。おじさんも、僕は眠っていたって言うの」
「おっさんの前で言ったの? アホだろ」
「そう。アホだから。」
君は笑った。空の容器にビー玉を落として左右に振ったみたいな、乾いていて、愛らしい笑い声だった。
チャイムが鳴った。もう生徒のいない校内に、チャイムは規則正しく怠けることなく決められた時間に鳴る。
一体何のためなのだろう。僕らを追い出すためだろうか。
新しい地獄を歓迎するように。
僕らは先生の足音が聞こえないか、息をひそめて耳を立てた。
このまま永遠に足音が聞こえなければいいのに。
「ねえ」と君がまた口を開いた。絵はなかなか完成しない。
「全て幻だったらどうしようとおもう日があるの」
「ふーん」
「怖くない? 感情も、出来事も、過去も、すべてよ」
「おれは怖くないけど」
足音がした、と思ったら、幻聴だった。意識しすぎていたみたいだ。
僕は君の鉛筆を取り上げた。すると君は一度だけ、目を瞬かせた。
夜空のような、綺麗な瞳だ。
ーーねえ誰も、汚れたくなどないよね。
けれど汚れるよ。人を愛したその時から。
「幻だったら好都合だ。君とずっとこうしていても、センセーに怒られても、宿題をやらなくても、構わないわけだ。」
「なるほど」
僕は君から奪い取った鉛筆を使って、ノートの端に文字を書く。
「大嫌いな奴を片っぱしからしばき倒して、毎日好きなものを食べて、好きな場所に行って、会いたい人に会いにいくんだ。」
「お母さんとか?」
「あのさ。」
そのとき先生の足音が聞こえた。廊下の端から、この教室に向かって近づいてくる。
今度ばかりは、幻聴じゃない。
「毎日こうして君に付き合ってるのはどうしてだと思う? おれは君が好きなんだよ」
廊下の外まで聞こえるように、少しだけ大きな声を出した。
目論見通りといったところだろうか。先生は足を止めた。
君は大きく目を見張ったあと、目尻を和らげてくすくすと笑った。
「どうして笑うの。真剣なのに。」
「優ちゃんちのマンションの横に、パン屋さんがあるでしょ? そこのおばさんが言ってたよ。大人になったら好きって言っちゃいけないんだって。誰かがシットして、かなしい思いをするから、好きって言っちゃ、いけないんだって。あなたはだから、お子さまよ」
急に大人ぶるから、今度は僕が笑ってしまった。
先生は、どこで立ち聞きしているのだろう。
大人の先生は、僕らの会話を聞いて、何をおもうんだろう。
「おれはかまわないよ。100人傷つけたって、1000人傷つけたって、かまわない。なんなら、100人ころしたって、1000人ころしたって、かまわない。おれは君が好きなんだ。それさえ君に伝われば、おれは後悔など一つもしない。」
「…そんな物騒なひと、わたしはいやよ」
そう言いながら、どうしてだか、君は顔をくしゃりと歪めると、泣き始めてしまった。
僕は人の泣き顔が嫌いだけれど、暮れゆく教室の中で、君の涙だけは、なんだか綺麗だなと思った。
僕のしずかな感動とはうらはらに、君は堕ちていくみたいに泣いていた。
抱きしめてあげていたらよかった、と思った。
机の中から取り出したノートを開くと、片隅に文字が書いてある。
僕の自筆で。きみがすきって書いてある。覚えている。昨日のことなんだもの。
君はタオルに首を引っ掛けて死んでしまった。
抱きしめてあげればよかった。
ぼくは感動なんかしていた冷たい自分を殺してしまいたい。
死ぬ覚悟をしていた君に、僕の突然の告白は辛かっただろうか。
窓際の君の席に座って夕焼けを眺める。綺麗だな、とおもうぼくを、おれは殺してしまいたい。
「愛ってなんだろ」
僕の愛は不完全だったのか。それとも、君の愛が不完全だったのだろうか。
空に炎がたちのぼる。愛がやけていく。灰になって夜がくる。君のいない夜がくる。
君が好きだ。ううん、やっぱり、僕の愛は不完全なんかじゃない。
命を棄てることを選んだ君を、この世のジゴクから解放された君の幸せを、僕はかなしい感情の下に感じている。
大好きだ。
この教室のやつらが全員死んだってかまわない。僕は君を愛している。
けれど伝えたいのに、君がいない。
夕焼けがきれいだ。
このまま身投げしたいほど、空が綺麗だ。
「惑わせてごめん」
救えなかったという意味において、君を殺したのは僕なのかもしれないね。
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