夜空のみずうみ


 少女の黒い瞳をのぞいてみよう。そこには誰も見たことの光景が映っている。闇のなかに横たわる広大なみずうみと、水上を舞う翅の生えた幼い踊り子たち。蛍のように漂うあまたの光の虫。寝巻きのワンピース姿のまま、素足で柔らかい草を踏む少女は、ひとつ、目を瞬かせた。このような光景を見たことがなかったから。うつつを抜かす少女の隣で、ふふっと微笑みの音が漏れる。「ここは夜空のいちばん端っこにあるみずうみなんだよ」。少女を案内した三歳のおとこのこは、背中に生えた翅を開いたり閉じたりしながらその場にかがんだ。少女のワンピースの裾は、草についた夜露で濡れている。空気には冷気が溶けていて、風が吹くと寒かった。少女がなにか羽織ってくればよかったと後悔するくらい。


「…おつきさまはどこ?」

「ここは月のひかりも届かないばしょにあるんだよ」


 三歳のおとこのこが、かがんだ体勢のまま、少女の顔の横までふわりと浮いて、笑った。常軌を逸した笑いかたをする少年の翅が、絶えず緩やかに動いている。その翅脈の透けた向こう側にも、踊り子がいる。みずうみは海のように広かった。



 少女の鼓膜を震わせる音楽を聞いてみよう。「にさい」「さんさい」「ごさい」。夜空の歌声は彗星のようだ。オーオーと、唸るような声も聞こえるし、星のまたたく音と、涙がきらめく音もする。木琴の音が跳ねて、暗く透明な水の中へと消えていく。みずうみのほとりをフラフラと虚ろな眼差しで徘徊する人たちが、時折とぼん、と身投げする。湖底には、白い水死体が折り重なって、水のうごきに合わせて揺れているという。かろうじて息をしている人たちの口から生まれた気泡が、こぷ、こぷ、と水面に昇っては消えてゆく。踊りを見たいのか、音楽を聞きたいのか、生者に触れたいのか、白いかんばせが頻繁に浮上する。踊り子たちの真ん中で踊る少年が、足許の水死体たちと時折り冷たい微笑みを交わしている。


「おにいちゃんがこのみずうみを守っているの」


 三歳のおとこのこは、少年を見詰める少女に向かって、誇らしげにそういうと、踊りの輪へと戻っていった。おにいちゃんと呼ばれた少年はそれを笑って迎え入れた。少女は幼児の姿を見守っていたけれど、やがて他の子どもたちと見分けがつかなくなってしまった。


 みずうみの中を覗いてみよう。生命をうしなった水死体は、ふかいみずの底から浮かび上がっては、踊り子たちの足を掴んで水中に誘う。踊り子は笑いながらその腕の中へ飛びこんでゆく。みずに溶け損なった音が、ミラーボールのように煌めきながら沈んでいくのを、みずうみの白き住人が見守る。呼吸ができずにもがきはじめる踊り子たちは、それを水中で眺めながら、苦しさを忘れる。



 集団から取り残された少女はひとり、夜空のみずうみに意識をゆだねた。月のひかりを散らしたような光の虫が、綿毛のように舞っていて、あちこちの影を揺らす。明滅する優しい光に合わせて、踊り子たちの声が聞こえた。「好きな人からもらった花束を捨てられたの」「あんなママいらない」「おにいちゃんがいてくれるから」「大人はみんな水の底へ行きたがるね」「お顔が暗くなるほど足をとられやすくなるの?」踊り子たちは変わるがわる少年の元へやってくる。少年は緩やかに口角を上げるだけで返事をしない。子どもたちも、返答を求めているわけではないみたいで、思い思いに話しかけてはすぐに少年から離れてしまう。そんな光景を、少女は無数の雨垂れを眺めるように見ていた。目線に気づいたのか、遠くの少年と目があった。この子がみずうみなんだ。少女はそう思った。瞳を離さなかった少年が夜の予感のように笑うと、夜空の歌声の響きが、ひときわ大きくなった気がした。銀色の流れ星がたくさん降ってくる。花火が開くように明るくなったみずうみで、とぼん、とぼん、と身投げする大人たち。「こんなにも生きてきたのに」みなぞこの水死体たちが、両手を広げて新しい仲間を歓迎した。コポコポコポと、連なる水泡の音が立ち昇る。無邪気な踊り子たちは、おにいちゃんと呼ばれる少年と、戯れるように声を立てて笑いあう。その足許で、湖面が揺れて波紋が広がる。雨のように連綿と。少女の息が浅くなってきた。流れ星の合間に聞いた音に慄然としたのだ。夜空の歌声だと思っていた轟きは、水死体や大人たちの悲鳴だった。


 「つかれたら水の底に行けばいいんだよ」「おねえちゃんもおいで」踊り子たちが、入れ替わり立ち替わり、少女の元へやって来ては踊りに誘う。「楽しいよ」「きれいだよ」「やさしいよ」少女の目線の先では、水死体が蝋のように白い手を水面から出して、跳ねる木琴の音をつかもうとしている。それをやんわりと少年が制した。扇子のようにゆっくりはためく踊り子たちの翡翠色の翅に光の虫がとまる。光の虫が増えると、暗いみずうみの中が蒼く透けて見えた。水面に映るのは湖上の光景、その向こうにはたくさんの蠢く水死体。耐えきれなくなった少女は絶叫していた。夜露で濡れた草の上に座り込んで耳をふさぐ。誰も見向きもしないなか、しばらく止んでいた流れ星が降り始める。少年はおなじ顔をして微笑んでいる。大人が慟哭しながら身投げする。星のまたたく音がする。涙のきらめく音がする。どんどんと音楽のボリュームが大きくなって、夜ごとみずうみが裂ける気がした。酷使された踊り子たちの手足がついにもげていく。足許で跳ねた水飛沫と血が混ざり合う。少女の目の前まで飛んできた指が、目の前の草叢に落ちた。幸福そうに切り裂かれてゆく子どもたち。少女は絶叫し続けている。やがて少女の叫びに呼応するかのように、光の虫たちが集まってきた。少女は声が枯れてきたことにも気がつかないで、光の虫に埋め尽くされてゆく。幼い面影をすっぽり隠してしまった光の虫が、眩いばかりの一つの光源になる。そこへみずうみの少年が歩み寄ると、光のなかに手を差し入れ、少女の髪を撫でた。そうして、何かを尋ねている。「うそつきだね。」アイスクリームだと歓ぶ水死体たち。少年は光の向こうに少女を見たのだろうか。「きみは踊れないね」「翅も生えないね」「出来損いだ」かつて踊り子だった血痕と肉片が舞っている。


 少女を取り囲んでいた光がゆっくり収斂すると、夜空のみずうみは依然暗くなった。水面には、千切れた翅の残骸や、血まみれになった手足、生命を終えた子どもたちが浮かんでいる。少女はもういない。音楽はやんだ。水死体たちの呻き声が夜に溶ける。夜空の上空にとおった微風が、いつまでも少年の髪を揺らしていた。


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