ネオンがふってきた


 深夜の二時の街中には人気ひとけがない。駅舎から垂直に伸びた四車線の車道の上で、わたしは棒立ちのままネオンを見る。夜には、光が溢れる。駅舎の外壁に取り付けられたランプ、ホテルの看板のLED、青と白のコンビニの明かり。点滅する信号機、両端に立ち並ぶ暗い窓のビル。白い街灯に透ける街路樹の葉は、造り物めいた緑色で、夜の両脇でさわさわ揺れていた。


 駅から遠のくほど漆黒が濃くなる。わたしは、ネオンと夜の境目あたりに身を置いている。夜空に星はない。この人工的な星のせい。月と、高層ビルの赤いランプは背後にあって、ここからは見えなかった。


 風が吹く。しかし街中は静寂だ。わたしは、顔の横に垂れた髪を耳裏にかけて、無音の信号機を仰ぐ。首が痛くなるくらい、長い間ぼうっとした。エラー。エラー。赤、黒、赤、黒。信号機も眠っている。


 日中、街に繰り出す人間は、夜なると建物の中へ仕舞われる。街に君臨する神さまが、ひとりひとり、人間をつまんで、ぽいっと入口へ放るのだ。人間は、違和感すら覚えずそのまま自宅へ帰ってゆく。収納完了、神さまが笑う。


 なんのエラーか、わたしはこんな真夜中に、街中に出てきてしまった。神さま、ここに整備しなくちゃならない人間がいるようです。何を隠そう、わたしです。ある時はキャッシュカードを銀行に忘れ、挙句の果てには免許証を無くしてしまったわたしです。整備して下さい。


 エラーの信号機を仰ぐ。するとその背後、つまり真っ暗な夜空から、ふるふると星が降ってきた。……ネオンだ。赤、黄、緑、青、紫、色んな光が、ガラスの破片のように煌めきながら、重たい夜の中を降りてくる。わたしは目を細めた。消毒液を塗られた傷口のように、胸が傷む。遠くで、かすかに赤子の泣き声がする。口を開けば、ガラスを呑み込んでしまいそうだと思った。つめたい夜が出入りする、わたしの口と舌先。色とりどりの硝子片は絶えず降ってくるのに、積もらない。試しに手を伸ばしてみようか、と考えて、やめた。


 真っ直ぐ降りてくる色彩の中で、人の形をしたものがあった。輪郭が白く光り、他のガラス片と一緒に降りてくる。“それ”がアスファルトの地面に降り立つと、夜の駅を背後に微笑む。


 “整備完了”


 それは、ガラス片のように色とりどりに笑った。


 ふと見上げた信号機が黄色になっていた。その後に、赤になった。夜空の闇が急速に薄れ、水色に移り変わり、澄み渡った。


 仰ぐのをやめると、そこかしこに人の気配が溢れていた。夜とは違い、街にはレモン色の空気が充ちている。建物の影で日差しを避ける人。道路の両側の歩道には、よそ行きの身形をした人間が歩いている。


 昼になっていた。


 カッコー。カッコー。と音が聞こえた。棒立ちのわたしを無視して、人が横断歩道を渡ってゆく。いつの間にか、移動している。車道には、煙を吐き出しながら停車している車たち。このままじゃ轢かれるかも。我に返ったわたしは、向かいの歩道へ駆け出した。背後では、月ではなく、車が音を立てて走り出す。


 “整備完了”


 あの言葉が反芻されて、わたしは、はっと動きを止めた。さっきまで、夜だったはずなのに。当たり前のように、突然現れた昼に馴染んでしまう。そんな自分に、悪寒が走った。


 

 振り返って、車道を眺める。自動車、トラック、バス、郵便車、色んな車が行き合う。移り変わる日常の景色を瞳に映す。

 やがて信号が変わって、車が停まり、歩行者が移動する。何度もそれを見届けた。


 カッコー。カッコー。自動車の走行音。稀にクラクション。女性の話しごえ。通話しながら歩く男性。


 “整備完了”


 さて、買い物へ行かなきゃ。石鹸は小さくなったし、歯ブラシも替え頃、みりんも買わなくちゃね。


 一歩踏み出したとき、ことり、と音がして振り返る。ジッポーでも落としたかと思ったが、そこにはコンクリートと野花があるだけだった。

 黄色い野花が風に吹かれ、微かに震えている。無くした免許証を探す眼差しから、懸命さを引いて。


 ねえわたしたち、とても大切な何かを忘れている気がするの。


 風が吹く。人が行き交う。当たり前の日常を当たり前に送る人達の中で、わたしはよく立ち止まってしまう。ねえ、本当のことってどこにある?


 今も昔も、鼓膜の奥で、ずっと赤子が泣いている。


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