金魚は冥界を泳ぐ


 その金魚が生涯において認識できた色はオレンジのみだった。蒼色めいた闇のなかで、おのれの眼前を幾度も横切るオレンジ。あるいは奥の方でかすかに揺らめくオレンジ。水面に垂らされた血のように、ぱあっと華やかに色づいては、蒼に馴染み消えてゆく。距離が近いものほど鮮明に、遠のくほど不鮮明に。

 金魚は美しいものを知らない。心を持たない。彼らはただ、無感動に眺めるのみである。鮮やかな、目の冴えるような色彩が、生じたり消えたりするさまを、つぶらな眼差しで眺め続けるのみである。


 居心地、という概念を金魚は知らない。他の池で泳いだことがないからだ。ただ闇の中で、コポコポと、母の心音のように心地よい音を聞いている。それは何処からともなく、生まれ続けている。水という闇が途切れないように、この心音もまた途切れることがない。始まりもなく終わりもない。オレンジの映像も。振動を伴うこの音が、金魚の仄暗い幻を助長させていた。



 あるとき金魚は、おのれの頭上をゆくオレンジを見た。それは、これまで見てきたオレンジとは明らかに違うものであった。「死」の気配である。花は開いたまま、ゆったり闇のおもてを流れている。オレンジに残った生命は激烈で、果汁が降ってくるんじゃないかと金魚は思う。

 また金魚は、おのれを横切るオレンジに白点を見出すこともあった。その際も金魚は、ぼんやりとした「死」の気配を感じとるのだった。


 金魚はうっすら気づき始める。


 この閉ざされた闇の中に、不穏なものが入り混じっていること。

 目を凝らせばすぐそこに、あるかもしれないということ。


 コポコポ、コポ。闇の音がする。

 コポコポコポ。花ひらく。消失する。


 視界の端をオレンジが掠める。金魚はふとした出来心で、それを追ってみることにした。闇のなかを縫って、ひらりひらりと先をゆくオレンジの命。

 コポコポ、コポ。音が立体的に聞こえる。やがて体が闇に溶けてゆく心地がした。距離が縮まっているようには見えない。からだに纏わりつく水、瞬くオレンジ。何処かへ誘うな、闇の音。

 これに辿り着いたとき、俺はいったい何を見るのだろう、と金魚は思った。


 はたと気づくと、先をゆくオレンジを見失っていた。ふかい夢に囚われるところであった。金魚は途方に暮れる。あるいは救われたのかもしれない。金魚の眼前に広がるのは、やはり見知った蒼い闇である。コポコポ、コポ。ゆうらり。オレンジは、奥の方で瞬いている。俺があれを追いかけたのは、幻だったかもしれない。そう考えてしまうほど、此処には時間というものがない。悪夢のような幻想を振り払うように、くるりと身を翻したとき、金魚は頭上に流れるオレンジを見つけた。


 命だ。果汁のような命がオレンジから放出され、不気味なほどゆっくりと闇に溶けいっている。それを目撃したとき、――金魚はふわり、とおのれのオレンジを浮かせた。取り憑かれたように。尾びれをはためかせ、胸びれをはためかせ、血のようなオレンジに向かって、游ぐ。そうして、下からツン、とそれを持ち上げ、口先で死に触れたとき、――金魚は見た。薄れた闇の向こう、一枚の水の膜を隔てたそこに、人の面がある。金魚が初めて目にしたのは、“瞳”であった。暗く、生気のないもの。此処ではないどこかへ、繋がる道のようなもの。


(八十五億四千万回目)


 コポコポ、コポ。

 

 命の音。闇の音。恵みの音。音と音の狭間で、金魚はたしかに、その人間の発言を聞いた。不穏な響きであった。金魚はわずかに動揺した直後、自らの視界が半回転したことに気づく。元に戻ろうとヒレを動かすも、あの心地よい闇の中に帰ることができない。腹だ、と金魚は思う。腹に違和感を覚える。なにか、腹に何か。金魚は半身だけ闇に浸っていた。片目で故郷の闇をのぞく。もう片方の目は、人の顔を見ていた。まだ幼さが残る顔立ちだ。その顔が、転覆した金魚を覗きながら、なにやら幸福そうな余韻を残し、消えてゆく。


 待てばいいのだ。この闇のなか、身動き一つ取れず、おのれの命が尽きるのを。生きているものを目の当たりにしながら、おのれの命が消えてしまうのを、じいっと、待ち続けるといい。


 コポコポ、コポ。

 転覆したまま過ごす金魚は、かつて自分が悠々と泳いでいた世界を眺めている。もう片方の視力は、失った。一体どれほどの月日が流れているのか、金魚には分からない。


 ある日のこと。金魚は相変わらず闇に身を浸し、生々しいオレンジを眺めていた。空気に触れた鱗は乾き、ヒレは溶け始めていた。俺は終わりは、いつだろう。もう何度考えたことか。分からないほど、月日が経っていたのかもしれないし、死に冒されていたのかもしれなかった。


 やがて金魚はふと、腹に重心が戻ってくるのを感じた。空気に晒された鱗の痛みが引いてゆく。そうして、くるりと身を翻す。ぽちゃん、と音がした。


 金魚は、闇の中を游いでゆく。


 ああ、懐かしい。ぱあ、と、花ひらくオレンジ。まるでビデオに閉じ込められたかのような世界。金魚は血痕の間を縫う。優しい闇。なあんだ俺、生きていたかのか。金魚は思う。オレンジとすれ違うときの、あの艶かしさに、ぞっとする。はたして金魚は生を得たのだろうか。それとも。


 コポコポと、闇の音がする。

 ぽちゃん、と水が揺れる。

 人の嗤う、気配がする。


 不透明な、蒼色めいた闇の中。何度も花ひらくオレンジの幻を、金魚は気が触れるまで眺め続けている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る