山酔い
君は自分の声の色を知らないだろう。何故なら声も含めた自分の姿というのは客観視できないものだから。きみの金色の声で紡がれた物語は、夜、目を開けたまま見る異国の夢のようにワクワクしたものだった。
死んだ蝶へ捧ぐ
わたしがいるのは、ホテルから少し離れたログハウスだ。夜はふけ、窓の外には深淵のような闇が広がっている。ここは山の中のリゾート地で、今夜は一人旅行に来ていた。
夜風が吹いて、カタカタと窓が揺れる。不気味だ。わたしは目を閉じて、ツキノワグマがこのログハウスのすぐ側に立っているという想像をする。この妄想は非現実的なものではない。何故ならわたしはここへ来る途中で、ツキノワグマに出会っていたから。
都会の夜と比べて、山の夜はやかましい。一歩外へ出ると、山が震えるくらいの大音量で、虫が鳴いている。たまに獣の咆哮がする。わたしは名前も知らないささやかな虫と共に、コンビニで買った赤ワインを飲んでいる。ここはブドウが名産らしくて、ワインが美味い。
ふと視界の端に煌めく何かを認めて、わた顔をあげた。目線の先では、金色の光を放つ無数の蝶が、夜の窓辺で舞っている。彼が来た。
ちょっと待っててね、と虫に告げると腰をあげて窓辺へゆき、重たいガラス窓を開ける。
すると途端に、闇夜に染まった風と共に、無数の蝶がログハウスの中へなだれ込んできた。蝶がすべて室内に入ると、わたしはツキノワグマが潜んでいないか慎重に確認して、窓を閉める。
ちょうど、壁時計が23時を告げる。振り返ると、ローテーブルの側に、金色の髪をもった青年が座っていた。
コンビニで買った紙コップをもう一つ用意して、テーブルにつく。ワインを注ぐと青年の前に置いた。金色の蝶の青年は、暫くカップの中身に目を落としたままだった。藍色の睫毛はぴくりとも動かない。目は、ちょうどログハウスの外に広がる山の夜のように、虚ろだった。
「君は傷つけられたことがある?」
青年はそう尋ねた。目を落として。
その目線の先に、虫が止まっていた。さっきわたしとお話ししていた虫だ。
青年は、手を動かした。わたしは黙って、それを見ている。
ええ。あるとも。
虫を殺したか細い青年の手が、窓みたいに震えている。
わたしは答えるのを躊躇ってしまった。
わたしの傷を全て足しても、彼の傷の一つにだって満たないかもしれないという考えが、わたしを閉口させるに至った。わたしの痛みは、彼にとって十分じゃないかもしれない。
もしそうだった場合はどうすればいいのだろう。青年の質問に対して肯定を示した場合、わたしは嘘をついたことにならないだろうか。
「ないよ」壁時計の秒針の音が虚空を刻む。わたしはテーブルに置いてあったティッシュを一枚取って、青年に差し出した。「傷つけたことがあるだけだよ」
青年はティッシュを受け取ったけれど、虫の死骸を拭き取らない。
夜が湿る。青年が蝶にかえろうとしている。毛先がひらひらと、揺れ始めた。頭痛がするような蛍光灯の下で、その金色がより一層光りを放ち、明滅する。時間が迫っているね。急いで考えてみよう。傷つけられた痛みと傷つけた痛み、より尾を引くのはどちらだろう。カッターナイフの刃先を飲み込みたくなるのはどちらだろう。ねえ、これでわたしたち、平等だと思わない?
「…時間かも」
青年が呟いた。金色の糸のようにか細い音色で。
「ワインは?」
「飲んだよ。さっき殺した虫が飲んだ」
「まだたくさん残ってる」
「クマにあげる」
「そう」
山が酔う。きっと。山には臓器がないのだもの。酔ってくれるよ。酔ってしまえよ。うんざりだ。
わたしは立ち上がって窓を開けた。すると、ログハウス中の空気が夜の山に吸い込まれてゆく。それと同時に、夥しい金色の蝶々が、風の濁流に乗って、外へ追い出される。詩って、もういちど。片方の翅を失った蝶が、蛍光灯から降ってくる。わたしは左手の人差し指を水平に伸ばす。蝶が降り立って、小刻みに震えて、くすぐったいな、と指先を曲げたら、蝶は割れてしまった。金粉になった蝶が、音のない歌をうたう。
この歌を、わたしは何と名づけよう。静かになったログハウスの中で。頭痛がするうよな蛍光灯の下で。涙で金粉を溶いて、傷つけられた痛みと、傷つけた痛み、について考える。そうしてこの曲名は、不条理だとひとりごちた。
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