僕は海になる



 

 哀しみは海になる。


「     」


 言葉と融合した音はすなわち命令だった。鋏のような彼女の声は、いつも僕を切り裂いていく。


            」


 明瞭なその声が、言葉を失い、やがてただの音になる。鼓膜は震え続けている。鳩尾あたりが、ブランコみたいにキイキイと音を立てた。

 なんど砕けたって大丈夫だ。心は約一週間で修復するのを、僕は知ってる。だから今回も、流れに身を任せておけばいいんだ。僕は誰にも聞かれないように息を吐く。


 目を閉じる。暗闇の世界に逃げていると、水の音がした。視界を閉ざしていても、体の末端が水に触れているのが分かる。冷たかった。僕は瞼を上げて、足元を見る。そうして、さっき吐いた息を、回収するように飲みこんだ。

 僕の体は、透明なガラス容器みたいに透き通っていた。そして両足という容器には、水が溜まっていた。


 海だ、と直観した。

 僕は、海になるんだ。


 僕は、僕自身という空っぽの容器に潮が満ちるのを待った。水は冷たくて、心地よかった。こんなふうに冷たい生き物になりたいな、なんて考えていると、体の変化が訪れる。平衡感覚がない。気づけば、足裏の感覚もない。


 僕は立っているのだろうか。座っているのだろうか。そもそも、海は立っているのか。座っているのか。それとも横たわっているのだろうか。着実に海に侵蝕されるなか、僕には意識だけが残っている。なんなら、あの声は、未だ聞こえる。砕けたガラスみたいに、意味を失くして、ただの振動となって、僕の海を揺らしている。「自分の足で立ちなさい」という命令は、僕のなかに概念としてだけ残った。


 胸が痛む。僕のなかから生み出される嘘まみれの心理的な負荷が、息をさたまげていた。やがて体のなかから、もう一つ海の源が生じる。心臓だ。意識と共に残った、かつての強迫観念が、僕の胸に海を産む。四つの部屋に、青が満ちていく。


 痛い。苦しい。


 海になれ。藻屑みたいな僕は海になれ。


 ところで、白と青とはどちらがより透明に近いのだろう。



 ――海が喉を越え、鼻を越え、目を越え、頭まで満ちた。そのとたん、音が消失した。


 それでも尚、僕の呼吸は保たれている。



 海は、やがて外に矛先を向けた。足の小指から水が流れ出し、陸を侵す。外界の海は瞬く間にかさを増していった。僕は海の源になった。綺麗な景色も、使われなくなった電化製品や粗大ゴミも、ぜんぶ飲まれてゆく。静かに、それでいて急速に、海はせかいを飲み込んだ。同時に、今度は外側から、すっぽり僕を飲み込んだ。



 平衡感覚が戻ってくる。



 あたりを見渡す。絵の具を溶かしたような青い景色が広がっていて、僕は目を細めた。外に放り出されていた洗濯機も、物干し竿も、コンクリートも、樫の樹も、足元の草花も、水の世界で青色に染まり、蒼色として存在し、ゆうらりと揺れている。呼吸するたび、銀色の泡が水面に向かって立ち昇る。きれいだ。誰もいない世界。あたりまえか。ここは僕の心象世界だ。


 海の景色に見惚れていると、何の前触れもなく肩を突かれた。だれ。振り向くと、灰褐色のタコがいた。ぐにゃぐにゃの軟体動物が、僕に向かって一本の脚を伸ばしてくる。僕は右手の人差し指を彼に差し出した。するとタコの脚が、僕の人差し指に絡みつく。するすると、するするすると。タコが、生々しい触感を僕に与えながら、巻き付いてゆく。僕は茫洋とした心地でそれを眺めながら、僕の心に浮かび上がる声を言葉を口に出す。


「    」


 巻き付いてゆくタコの顔は、岩のように無表情だ。


「おまえさ、愛って知ってる?」


 タコは、やっぱり岩のように無表情。


 タコは、脚をもう一本、伸ばしてきた。

 今度は僕の首に巻きついてくる。

 一緒に死ぬ?


「…服の洗い方、知ってる?」


 自分とは違う。そう分かってしまうように。自分と同じものを嗅ぎつける。人間。生物。いやになる。

 死ねばいいのにって思わないかい

 思うだろ


「クリスマスプレゼントの用意の仕方、知ってる?」


 あの日から僕は盲目な子どものまま。

 そのまま、大人になったんだ。



 水中でタコの脚が僕の目尻に触れて初めて、自分が情けなく泣いていることに気づいた。だってここは海の中だから。泣いたってバレないよ。涙も海も同じじゃないか。


“好きな詩に出会ったよ。

 きっと君も気にいるだろう”


 タコがぐにゃりぐにゃりと蠢きながら、僕の喉をさする。


「おまえ、詩なんか好きなの」

 “うん”


 タコが詩の話をするなんてね。なんだかアンバランスで、僕は思わず吹き出してしまった。その拍子に、銀色の泡が舞う。すると、今まで岩のようだったタコが驚いた顔をして。秘密がバレた、とでもいうような、顔をして。次の瞬間、遥か頭上まで覆っていた海が、静謐と優しさを湛えていた海が、荒れた。水が側溝に流れていくように、海が消えてゆくのだ。水位が低くなっていくのだ。タコは、流されてしまった。流される前に、すこし笑んでいた気がした。

 

 やがて海は失くなった。足元は豪雨の翌日みたいに濡れていた。僕の体も、元に戻っている。

 僕は髪から塩水を滴らせて、周辺を見わたす。なにもかもが濡れて虹色の光を帯びるこの世界。小鳥が祝うように泣いている。そうか。僕が望んでいたのは、世界の涙だった。泣いてみろよ。悲しいことなんて、何も知らないくせに。全部、してもらって生きてきたくせに。側に誰かがいたくせに。正しく生きろなどと、のたまうな。


 声はぴたりと止んだ。濡れたての人工の青空を仰いで、涙の残響を探す。翡翠色の葉に滴る水に、鳥の濡れた羽に、使い物にならなくなった傘に。


 風がふいた。世界の水滴と微笑い合って、その柔らかい頭を撫でて、慈しんで、目を細めたまま、かせが消える。

 濡れた服を、干そうと思った。僕は深く息を吐きながら、ゆうらりゆらりと、濡れたコンクリートの上を歩き出す。言い訳が存在できないこの世界。言い訳はしないから、文字にさせて欲しいな。そうじゃないと、僕がだれかを海にしてしまう。…そうして僕たち、不完全になってきたんだね。


 一緒に透明になろう。なんどでも。泣けばいい。泣いたら海になる。海になったら、きみと僕は一つになる。きみが泣くとき、僕も泣く。だって僕たち、海だから。ずっと僕たち、一つだから。目を閉じれば、一つだから。


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