なすりつけあい


 てのひらに泥がついた。君は少し顔を顰めると、僕の服に、自分の泥をなすりつけた。僕のレモン色のシャツがよごれた。君は屈託なく、それでいて意地悪そうに片眉をあげ、笑って、走り出す。残された僕は、自分の両手を眺めてみる。てのひらに、纏わりつく、どろ。汚ないとも、みじめだとも、思わなかったけれど、花のように可憐なあの子が、こちらを見向きもせず、さざめく笑い声の中へ消えてゆくのを見届けたとき、君に汚されたレモン色のシャツの実態に気づいたとき。ああ僕って、とってもみじめだと思った。


 からだの内側から、ななめに、ずれていく、感覚。もう慣れてしまった、痛みの感覚。


 手を洗われ、洋服は洗濯され、体は漂白された子どもたちが、世界の愛に包まれて、戯れ合うのを遠目から眺めている。なぜ。どうして僕だけが。


 犬がいた。突如現れたのではない。最初からずっとそこにいた犬。吠えもしない、騒ぎもしない、ただそこにいた、犬。その白い獣を見たときに、僕の中で、静電気のように閃く衝動があった。手のひらぶん抱えた泥を、僕はガードレールのそばにいた白い犬になすりつけた。その白い毛は温かくて、肌の内側には命が宿っていた。

 

 僕は必死で、なすりつけた。我に返ると、白い犬の顔が傍にあった。すべて見通しているかのような、神さまみたいな、あるいは純粋な子どものような顔つきで、僕を静かに見つめている。その円な眼差しに非難の色がなかったから、ただ水晶玉みたいに透明だったから、僕はとたんに自分を壊したくなって、謝りたくて、その白い犬の首に、縋るように抱きつき、わあわあ泣いた。白い犬は、くうんとも鳴かなかった。だから僕は、弱いのは僕だけなのだと。非難されるべきは僕だけなのだと。君にも触れるべきではないのだと。漫然と、それでいてはっきりと、そう思った。向かいの山肌がオレンジ色に染まっていって、このまま僕はこうしていたら、きっと夜になっちゃうから。夜になったら、もう帰れないから。


 「なにを望む」と、白い犬がようやく口を開いてくれたので、僕はもう存在したくないから、食べてほしいと言った。白い犬はしんけんな顔で頷くと、僕の喉元に齧り付いて、僕をぱくぱく食べてしまった。「帰らなくていいのか」と犬が聞く。なにをいまさら。帰れるわけがないよ。だれも僕を漂白してくれないし。答えようとして、もう口がないことに気づいた僕は、それが白い犬の独り言であることを知った。


「なにをのぞむ」

「死ねばいいのにって言ってみて」


 山肌がさわさわと笑いはじめた。軽やかな声で、しねばいいのに、と山がわらった。透明な風もわらった。きらめく小川も笑った。僕はようやく、これで本当に死ねる、と安堵して、目蓋を閉じた。


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