第17話 大天使ネレマの『変な話』⑨

 真帆と憂梨那さんのふたりと出会って一日が経過した。

 この世界も夜は眠るらしい。理由を聞いたら、夢の中ではまたこことは違う楽しさがあるかららしい。

 よくわからなかったけど、ひとりで起きているのもなんか嫌だったから私も眠ることにした。

 そして朝になった今、ベッドの上で私がたぶんふたりより早く起きた。

 というのも、ふたりは私とは別の部屋のベッドで眠るらしく、私がいるここはお客さんが来たときに貸すための部屋だと教えてもらった。

 上体を起こして窓の方を向く。空が青い。快晴だった。

「空を飛んでいる人がいる……」

 女の人が長い髪の毛をなびかせながら軽快に飛び回っているのがここからでも確認できる。

 羽って本当に綺麗……。知里にも見せてあげたいな。

 そんなことを考えながら、窓から視線を切って扉の方を見た。

 扉に何かが掛けられている。それに私は見覚えがあった。

 昨日、憂梨那さんが私にオススメしてきたメイド服だ。

見なかったことにしよう。

扉に掛かっているメイド服から視線を外してまたベッドに横になって枕に頭を乗せる。

――クシャ。というような音が枕の下から聞こえて慌てて枕を退かす。

「なに、紙……?」

 手に取ったその紙にはでかでかと『乃瀬さんへ』と書かれていたから、恐る恐る読んでみる。

【乃瀬さんお願いします、メイド服を着てくれませんか。乃瀬さんは必ず似合うと思うんです。もし恥ずかしいという理由で着たくないと思っているんでしたら、先に真帆さんに着てもらうので恥ずかしい思いはさせないと思います。なのでどうかお願いします。わたしにも着てほしいとおっしゃるならもちろんわたしも着ますよ。乃瀬さんが昨日気になっていためいさんの元にも連れて行くと約束するので、メイド服を着てください。わたしは乃瀬さんが着てくれると信じています】と綴られていた。

 必死過ぎる……。まずこの手紙を読んで感じたのがそれだった。

 メイド服を着ることに関して、恥ずかしいとかそういう感情は持っていない。

 あの時、メイド服は着るのが大変そうと思ったから、メイド服を選ばなかっただけ。結果たぶん着るので大変なのは浴衣のほうだったけど。

 そんな着るのに苦労した浴衣を脱いで、メイド服に着替えるなんて正直したくない。

 でも、手紙に書いてあった文には興味がそそられた。

 真帆のメイド服姿。そんなの見たいに決まっている。あの扉に掛かっているメイド服を着ている真帆を想像してみた。やっぱりかわいい。

 もちろん知里の可愛さには勝てないんだけど。知里に着てみてほしいな。

 ベッドから降りて扉に掛けられているメイド服とカチューシャを手に取ってベッドへ戻る。

「似合うの……かな?」

 ベッドの上に置いたメイド服と手に持ったままのカチューシャを見ながらそんなことをつぶやく。

 そんなつぶやきは誰の反応も得ることはなく、無へと溶けていった。

「カチューシャだけでも……付けてみよう…………かな……」

 誰もいないのはわかっていても、いざ付けようとすると恥ずかしくなってきて周囲を見回してしまう。

 メイド服を着るのは恥ずかしくないなんて嘘だったかもしれない。

 だってカチューシャを付けようとするだけで、こんなにも恥ずかしいと思ってしまっているから。

 誰もいないことをまた確認して、両手でカチューシャを持ち頭に付ける。

「どんな…………感じなのかな?」

 この部屋にはお風呂場にあるような鏡が無くて、カチューシャを付けた自分の姿を確認できない。

 鏡で見てみたいけど、お風呂場の鏡に行くまでに真帆か憂梨那さんに見られたら恥ずかしさのあまり部屋から出られなくなっちゃうかもしれない。

 鏡でカチューシャを付けた自分の姿を見てみたい見てみたいのに、そんなことを考えてしまって勇気が出ない。

 ベッドの周りをぐるぐると歩き回る。

 すると、気づかないうちに手が勝手にドアノブに触れていた。

「ふたりはまだ、寝てるよね……?」

 扉をほんの少しだけ開けて、隙間から誰もいないことを確認する。

「まだ寝てる……よね」

 音を立てないようにゆっくりと扉を開いて、急いでお風呂を目指す。

 お風呂場の扉を横にスライドして開け、急いで鏡のある浴室に入った。

「どうなんだろう……」

 鏡を見た私はつぶやいて、鏡に映る自分を凝視していた。

「――可愛いですよ!」

「ひゃーーー‼︎」

 突然背後から声がして、思わずどこから出たのかわからない奇声と身体が跳ね上がった。

「だ、大丈夫ですか⁉︎」

 身体を震わせながら後ろを振り返る。

「な、なんで、憂梨那さんがここに……、寝ていたんじゃ……?」

 なんで鏡を見てたのに、憂梨那さんの存在に気づけなかったの……。

「カチューシャを付けた可愛い子の気配を感じたので飛び起きたんですよ!」

 憂梨那さん、真帆と口調が似てきている気がする……。そういえばふたりは、姉妹なんだから似ているのは当たり前か。

 そんな今と全く関係ないことを現実逃避をするように考えていた。

「うっ……なんでそんな気配を感じ取っちゃうんですか」

「カチューシャを付けて部屋を出た乃瀬さんが悪いんですよ。――ところで乃瀬さん、そのカチューシャを付けているということはメイド服を着てくれると言うことですよね!」

「え? 着ないですよ?」

「な、なんでですか⁉︎ もしかして恥ずかしいからですか⁉︎ それなら手紙にも書いた通り、わたしと真帆さんもメイド服を着るので心配しないでください」

「私が着ることに対して恥ずかしいと思っているので、ふたりが着ても私の恥ずかしさは変わりませんよ。それになんでそんなにメイド服を着せたがるんですか」

「そんなの決まっているじゃないですか。可愛いと思ったからですよ」

「ドヤ顔しないでください。大体、私なんかがメイド服を着ても可愛くなんてないですよ。知里なら可愛いに決まってますけどね」

「知里さんという方も可愛いのかもしれないですけど、今は乃瀬さんのことを言ってるんですよ」

「わかってますよ。わかってる上で、話を変えようとしたんです」

「そんなにメイド服は嫌ですか?」

「嫌、というわけでは……。い、いや、嫌ですよ。あれを着てたら注目されちゃうじゃないですか⁉︎」

「大丈夫ですよ。天使の皆さんは、わたしが昨日着ていたバニーガールの服を着て出歩いても、全く何も言われたことがないので、多分興味がないんですよ」

「そんなわけ……?」

 ん? ちょっと待って。

「――憂梨那さんは、今着ているそのワンピースとバニーガール以外で、あとどんな服を着ているんですか?」

「? ……えーっとそうですね。メイド服に、チャイナドレス、クノ一の格好もしたことがありますし、他にも何十着と作って貰いましたよ」

「めいさんにですか?」

「そうですそうです。めいさんは本当に器用でして、お願いすると早いときは、二週間くらいで想像通りの洋服を作ってくれるんですよ。お金の代わりに頼みごとをされるんですけどね……」

 最後に小声でそんなことを言いながら、そっぽを向いて乾いた笑い声を上げる。

 だけど、その直後に見せた顔は、さっきの乾いた声とは裏腹に喜びに満ちていた……ように見えた。

「すごい人なんですね! あの、ちょっと聞きたいんですけど、手紙に書いてあっためいさんに会わせてくれるというのは本当ですか?」

 めいさんに会えば、私の服も作ってくれるかもしれない。

「本当ですよ。乃瀬さんがメイド服を着てくれるなら連れて行ってあげます」

「うっ」

 そういえば少し話が変わっていたけど、今はメイド服を着る着ないということを話しているんだった。

 でもよく考えてみれば、今日メイド服を着るだけでめいさんに服を作って貰えることになったら、もうメイド服を着なくてもよくなるのかな……。一日だけ……かぁ。

「し、仕方ありません。着たら連れて行ってくれるということなら着ますよ!」

 今日着るだけで、もう着ていることで注目されそうなこのメイド服を、これから着なくて済むようになるなら一日だけ我慢するのなんて簡単! な、はず…………。

「本当ですか! それなら今からわたしが着替えさせてあげます!」

 憂梨那さんはキラキラとした目で胸の前で手をパンと叩いてから、私を浴室から連れ出してメイド服が置かれている寝室へと連行した。



 視界の端に見える全身が映る鏡――憂梨那さんが使ってないのがあるからと、この部屋に持ってきてくれた――にメイド服姿の私が映っている。

 淡い桜色のワンピースの上に、フリルの沢山付いたエプロン、カチューシャを付けている。

「あの……、そんなにジロジロ見ないでください……。恥ずかしい、です」

「えっ、あ、……はい。見てませんよ〜」

 と言いながら、顔を手で覆った憂梨那さんだけど……。

「隠す気ないじゃないですか!」

 目を覆うその指は限界まで思いっきり広げられていて、人差し指と中指の間から憂梨那さんの目が私のことを見つめている。

「真っ暗で何も見えてませんよ〜」

「嘘つかないでください! ほら、こうしたら目が合うじゃないですか」

 少し屈んで、憂梨那さんの目線と私の目線を合わせて呆れたように言う。

「な、何のことですか……? どう見てもわたしたちの目線なんて合ってないですよ」

 そう言いながら憂梨那さんは私の後ろに回る。

 同じように私も身体を回転させて憂梨那さんとは目線を外さない。

「ふふっ」

 そんなことをしていたら、自然と笑いが込み上げてきた。

「何か面白かったですか」

「あ、いえ。憂梨那さんって服のことになったら、人が変わったようになるので面白いですね」

「そんなことないですよ。わたしはいつもこんな感じです。まぁ〜確かに可愛い女の子に可愛い服を着せるのは楽しいから少し変わってしまうのは認めますけどね」

「それで少しなんですか⁉︎」

 大袈裟に驚いてみせた。

 すると、

「えっ⁉︎ わたしってそんなに変わってますか⁉︎」

憂梨那さんが私以上に驚いた。

「最初に感じた印象が無くなるくらいには変わってますよ」

「それは少しとは言わないじゃないですか⁉︎ ち、ちなみに、最初のわたしの印象ってどんなだったんですか」

「最初ですか……」

 …………あれ、最初も何も憂梨那さんの印象ってどんなだったっけ?

憂梨那さんは私の中で、恥ずかしい格好をする真帆のお姉さんという印象だった気がする。

うん、絶対そうだ。

「あ、やっぱり今と印象変わってませんよ」

初めてあった最初は、違かった気もするけど思い出せない。

「なんですか今の間は……」

「昨日のことを思い出していただけです」

「それだけであんなに間があったんですか!」

「……あの、なんかテンション高くないですか?」

「それはそうですよ。なにせ、乃瀬さんがメイド服を着てくれてるんですよ! 自然とテンションが上がっちゃいます」

「いや……だから、そんなに見ないでくださいよ……」

 そう言いながら三歩先にあるベッドに腰掛けた。

「――お姉、様〜。どこですか〜……?」

 すると、扉の向こうから真帆の涙声が聞こえてきて憂梨那さんが、

「真帆さん、ここですよ〜」

と呼びかけると真帆の声が聞こえなくなった。

 ガチャン、と部屋の扉が開かれる。

「お姉様見つけました〜」

 真帆は憂梨那さんが見つかって嬉しくなったのか、左手で目を擦って涙を拭った。

右手には真っ赤な毛のクマのぬいぐるみを持っている。

「見つかっちゃいました」

 扉の前まで行った憂梨那さんが真帆にそんなことを言って、自然な流れで抱き上げてから私の近くまで戻ってくる。

 かくれんぼでもしてたの。と言いたくなったけど、そんな雰囲気ではない気がして、心の中だけで言うことにした。

「お姉様。もうどこにも行かないでください……」

「大丈夫ですよ。もうあんな別れ方、わたしも経験したくないですから真帆さんに内緒でどこかに行くなんてことしないですよ」

「やくそく……ですよ」

 憂梨那さんの言葉に安心したのか真帆はまた眠りについた。

 ふたりにはどんな過去があったんだろう……? 聞きたくても聞けない領域のことだから想像するしかできない。

「真帆、私のことに気づかなかった……」

 何気なく口にしたその言葉を憂梨那さんが拾った。

「もしかして乃瀬さん、気づいてもらえなくていじけちゃったんですか」

 笑いながら私の隣に座って、まるで赤ちゃんをあやすように身体を左右に揺らし始める。

「そんなわけないじゃないですか」

 思ったより必死に否定してしまった。これじゃあ本当に気づいてもらえなくていじけてるみたいじゃん。

「必死すぎですよ」

 と、また笑われてしまった。

「憂梨那さんが変なことを言うからです」

「乃瀬さんがあんなことを言ったから聞いただけですよ」

 できれば聞こえなかったことにしてほしかったんですけど……。

「それで憂梨那さん。私はメイド服を着たんですから、約束通りちゃんとめいさんのところに連れて行ってくださいね」

「話を変えちゃうんですか? わたしはもう少しさっきのお話を続けたかったんですけどね。まあ、諦めましょう」

 そう言いながら身体を止める。

「もう行きたいですか? できれば真帆さんが起きるのを待ってから行きたいんですけど、ダメでしょうか?」

 私のことを見ながら首を傾げてそうお願いされる。

「わかりました。それなら私はリビングにいますね」

 言い終わって立ち上がった。

「何かするんですか?」

 真帆の頭を撫でながらそう聞かれたから、

「いえ、憂梨那さんの視線が怖くなってきたので避難するだけです」

冗談めかして、軽口でも叩くように言うと、憂梨那さんが真帆の髪を変わらず撫でながら、

「それは酷くないですか。まるでわたしが危ない人みたいじゃないですか。一応言っておきますが、乃瀬さんを襲うつもりなんて一切ありませんからね。ただ近くで見ていられるだけでわたしは満足できます」

冗談を返してきた。

「近くで見られ続けるのは落ち着かないんです。だから憂梨那さんは真帆が起きるまでここから出ないでくださいね」

「自分の部屋に戻ることもダメなんですか……?」

「それは……大丈夫です。とりあえず私のことを見つめないでください」

 と、言いながらもここは真帆と憂梨那さんの家で私は居させてもらっている立場なんだから、こんなことを言う資格は無いんだよね。

「う〜ん。……仕方ないですね、わかりました。真帆さんが起きるまで、わたしはリビングには入りませんね」

 何か考える素振りを見せてからニヤけていた。

 今日だけでいっぱい憂梨那さんの表情が見れているなぁ、なんて思いながら部屋から出る直前に一言言ってからリビングに向かった。


 ――約二時間が経った。

 特にすることもなく、ただ椅子に座ってボーッとしてるだけの時間だった。何かしようかな、と考えていたけど動く気になれず時間だけが過ぎていった。

 そうして天井を眺めていると、

「乃瀬、めいのところに行くなんて本気なの⁉︎」

突然リビングの扉が開かれて、開口一番そんなことを大声で言われて、

「きゃーーーー‼︎」

驚いて座っていた椅子から転げ落ちた。

「何やってるの?」

 驚かせてきた張本人が、私の目の前までやってきて見下ろしながら呆れ声で言ってくる。

「な、何にもやってない……」

 転げ落ちたことが恥ずかしくて、何事もなかったように椅子を直してそこに座ってからそう答える。

「すごい声がしましたけど、大丈夫ですか乃瀬さん」

 と、椅子に座った瞬間、リビングの扉の前に立っていた憂梨那さんにそう聞かれたから、

「大丈夫です……」と返した。

「それで乃瀬、めいのところに行くって聞いたけど本気なの? 正直、おすすめしないよ。あの人本当におかしいから」

「おかしいって、どんな風に……?」

 真剣な表情で言う真帆に、恐る恐る訊く。

「あの人、服を作ってくれる代わりに、その人が嫌って思ってることをしてくるヤバい人だよ。お姉様は洋服とかコスプレ衣装を作ってもらう代わりに、毎回、はずかしい格好をさせられてるし! それに必ず、毎日一回はその格好で外に出ろって!」

「へ、へ〜。ちなみにそれってどんな格好をさせられてるの?」

「うん? 今だと――」

 真帆が言いかけたところで、いつの間にか隣にいた憂梨那さんが真帆の口を押さえて、何か耳打ちをした。

「え……? ダメなんですか。でもさっきお姉様、着替えてくるって言ってたし、あれを着るんじゃないんですか」

 憂梨那さんが真帆の耳から離れたタイミングで真帆がそう憂梨那さんに聞いていた。

「真帆さんはどうしたらいいと思いますか」

 真帆の聞いたことに答えないで、憂梨那さんはどうしようみたいな感じで真帆に訊いた。

「……あの方のところに行くんですから、着て行った方がいいとは思いますけど、あたしは夜に少しだけ着て外へ行く方がいいと思います」

 そんなことを聞かれた真帆は少し考えてから、自分の意見を憂梨那さんに伝えた。

「そうですよね〜。さすがにわたしも思っていました。シーズン中ならまだしも冬の季節にビキニを着ろ、なんてめいさん酷いですよね」

 とてもそんなことを思っているようには思えないほど嬉しそうな憂梨那さんの声。

「ホントですよ! なに冬にビキニを着けて外を出歩けなんて! 風邪をひかないことをいいことに変態的なことをあたしのお姉様にさせないで欲しいです」

 それとは裏腹に真帆は、本当に怒っているような声でそんなことを言う。

「……あの、もしかして私もめいさんに服を作って貰うとしたら、そういうことをさせられるんですか」

 不安になって聞いていた。

「乃瀬は、初めてだからたぶん大丈夫だと思うけど、弱点を見せると終わるよ。まあ、あたしはめいの興味がお姉様から他の人に変わってくれるのは嬉しいけど」

「それはわたしが困りますよ」

 私が反応するよりも早く、憂梨那さんがそんなことを言った。

「こまる……?」

「あっ、そうですよね。お姉様――Mですもん……」

 そこまで言ったところで、憂梨那さんが慌てて真帆の口を押さえた。

「M……ってなんですか?」

「ごめんなさい、お姉様。口が滑ってしまいま、した。ごめんなさい……ごめんなさ、い」

 涙声で真帆は憂梨那さんに謝り始める。

「あ〜〜。いえ、大丈夫ですよ真帆さん。わたしも隠し通せると思ってなかったので言ってくれて助かりました」

 真帆の言葉を聞いて、憂梨那さんは慌ててそんなことを言った。

 それでMってなに? それが何かも知らないのに、私はこんな現場を見せられている。

「本当ですか……、怒ってないですか?」

「最初から怒ってなんていませんよ」

「良かったです……」

 真帆は憂梨那さんのお腹にそっと抱きついた。

「あ、あの……乃瀬さん……。今の話、聞かなかったことにしてもらっても……いいですか」

 震えた声で、突然そんなことを言われる。

 だから、そのMってなんなんですか!

「今のって、憂梨那さんがMとか何とかってことですよね。そのさっきから言ってるMとかってなんなんですか?」

「えっ⁉︎ 乃瀬さんもしかして知らないんですか! 良かった〜〜〜」

 安堵の表情を浮かべる。

 それに対して、私の心は沸々と苛立ちが込み上げてきた。

 でも、なんとか知里のことを思い浮かべて、苛立つ心を静めようと努力する。

「良かった、んですか……」

 私はよくないんですけどね。

 落ち着いたとはいえ、やっぱり知りたいという気持ちだけは、完全に静めることができなかった。

「はい! 良かったんです。――それなら乃瀬さん、めいさんの所へ行きましょうか」



 玄関から一歩出て、真帆と憂梨那さんが来るのを待つ。

 ここは、アパートというところで二階だから階段を使って下に降りなければいけない。

その階段のある場所がわからない私は、中でまだ着替えているふたりを待っている。

 Mって本当に何なんだろう。

憂梨那さんの感じからして教えてくれる可能性は低い気がする。

 それに、憂梨那さんに聞いてダメなら、真帆に聞いても結果は同じだと思ったから真帆にも聞くことはしていない。

「お姉様、いつもは喜んで出て行くのに、なんで今日は恥ずかしいんですか。さっきまではうれしそうだったのに」

 真帆の声が開け放たれた玄関のドアから聞こえてくる。

「ま、待ってください〜……」

 そんな声が小さく聞こえてきて、夜にふたりが寝ていた部屋の扉が開いて最初に中から、真帆が後ろ向きで出てくる。

 服装は、昨日も着ていた服と同じワンピースで、唯一違うとすれば白色になって、所どころに今私が着ているメイド服と同じようなフリルが付いているくらい。

「もしかして、乃瀬に見られるのが恥ずかしいんですか」

 私の名前が出てきて驚く。けど真帆の言った言葉の意味を理解した瞬間、ある一点を凝視することになった。

 私に見られるのが恥ずかしい服、それはどんな服なんだろう、って思いながら瞬き一つしない。

「そ、そうです……」

 真帆の言葉に返す憂梨那さんの声は、微かに聞こえる程度だったけど耳も澄ましていたおかげで、なんとか聞き取ることができた。

「大丈夫ですよ。乃瀬だってメイド服を着ているんですから恥ずかしいのはお互い様だと思います」

「それは違いますよ! 乃瀬さんの着ているメイド服は、肌が全然出てないじゃないですか⁉︎ それに比べてわたしのこれは、ビキニですよビキニ。ほぼ下着じゃないですか」

「お姉様はそれで一昨日も夜誰もいないところに出掛けてましたよね?」

「そうですけど〜。わたし水着だけは見られるのがどうしても苦手で〜」

「なら今はビキニやめて、違うの着て出掛けましょ。それで、夜にビキニを着て――」

「それはダメなんですっ!」

「なんでですか?」

「…………き、昨日、真帆さんが寝た後にこれを着て歩いてたんです…………。そしたら、めいさんと会ってしまったんです」

「お姉様ひとりであたしが寝た後に、どこか行ってたんですか⁉︎」

「え、そこなんですか。てっきり真帆さんはわたしがめいさんと会ったことに反応すると思ってたんですけど……」

「あっ、そうですよ! なんであんな方と夜に会ってるんですか!」

「それですそれです。その反応を待ってました!」

 嬉しそうな声。

「――遅い」

 そんな声を聞いていた私は、そうつぶやいてから痺れを切らして一旦玄関の中に入る。

そして、真帆の後ろに音も無く立つと部屋の中を見る。

 まず目につくのは後ろから見た真帆の頭、その次は手首を掴まれて猫背のようになっている憂梨那さん。

 その後に、部屋中が桜色で統一されているのに気がついた。

どこを見ても桜色しかなくて、ベッドの色までもが桜色なせいで、なぜか目が少し痛くなる。

 これは、どちらかがこの桜色を好きなことは誰が見ても明らかで、これは完全に私の予想になるけど、桜色を好きなのは憂梨那さんだと思う。

 だって、今私が着ているこの桜色のメイド服を持ってきたのも憂梨那さんで、その憂梨那さんの着ているビキニも桜色なんだから。

「――眠れなくて出掛けた先でばったり会ってしまったんですよ。そして、今日めいさんのお店に行くかもしれません、と伝えたら『なら、その格好で来ないと口を聞かない』と言われてしまったので今日は着ていかないといけないんです」

「そうなんですか? でもなんで今日、あの方の所なんて行くんですか? なにか用事なんてありましたっけ?」

 真帆が掴んでいた憂梨那さんの手首を離した。

「それが、乃瀬さんが寝ている間に、お部屋に忍び込んで枕の下に【めいさんの元に連れて行くのでメイド服を着てください】と書いた紙を入れてしまって、それを読んだ乃瀬さんがめいさんの所に連れて行ってくれるなら着てくれるということで、交渉が成立してしまったんです」

 あれ……そういえば、真帆と憂梨那さんもメイド服を着るからって書いてあったのに着てないじゃん。

 めいさんのところに行けばもうメイド服を着なくて済む、ということばっかりに考えがいっちゃってたけど…………、まぁ、いいや、メイド服は今日しか着ないんだし、それにこの感じだと注目は私じゃなく、憂梨那さんにいくだろうし。

 でもちょっと待って……、その注目される憂梨那さんと一緒に歩いてたら同じな気が……。

 …………よし、そういうのは考えないようにしよう。

「それで乃瀬は、あの方の所に行く代わりにメイド服を着てたんですね。――それでそのメイド服を着ている乃瀬は、あたしの後ろで何してるの」

 真帆は私のことに気づいていたようだった。

 でも今回は別に驚きはない。憂梨那さんの格好や、部屋の中に興味が向いていて、特に驚きの感情が湧いてこなかったから。

「気づいてたんだ」

 私はいつも通りの声で言う。

「え…………?」

 逆に憂梨那さんは、状況が理解できていないようだった。

 私の前にいる真帆から、なにか怖いものでも見るかのようにゆっくりと視線を上げてやっと私の存在に気づく。

「――ど、どうですか! 乃瀬さん‼︎」

 状況が理解できたのか、次の瞬間、吹っ切れたようにそう言って胸を張り、着ているそのビキニを堂々と見せてくる。

「…………」

 これには私も驚いた……というか困惑した。

 なんて言えばいいのかわからない。

可愛いと言えばいいのか、似合っていると言えばいいのか、誰か正解を教えてほしい。真帆なら知ってるかな?

 何も言えないでいると、憂梨那さんの顔が赤みを帯びてきて、目には涙が少しずつ浮かんできた。

「い、いいと思います、よ……?」

 困惑の中、なんとかその言葉だけを絞り出して言うと、憂梨那さんは恥ずかしさが一気にピークに達したのか、ビキニを隠すように真帆のことを抱き上げて、距離を取られた。

「お、お姉様の盾になれちゃった……」

 本人は口を手で覆って声を殺しながら言ったつもりなのかもしれないけど、完全に私の耳にまで届く声量で言っていた。

「真帆さんは、武器にもなりますか?」

 その言葉を聞いてなのか、意味のわからないことを言い始めた。

「お姉様の為ならなります! 何をすればいいですか? 乃瀬を撃退するくらい簡単にやり遂げてみせます!」

 声色が真剣そのものだった。

「私、撃退されるの……?」

 心配になる。でも身体の大きさ的に私の方が強そう、とかそんなことを思っていた。

「なんて冗談ですよ。もう見られちゃったからには気にしないようにします。――思ったより、変な反応をされなくて良かった……」

 そう言うと、憂梨那さんは抱き抱えていた真帆を下ろした。

 ん? 最後に何か言ってた?

「お姉様! あたしもお姉様と同じ水着着たいです!」

「それはダメです。真帆さんにはスクール水着のようなお腹が隠されている水着以外認めません」

「は〜い」

 ダメ、と言われたのに真帆は嬉しそうにそんなことを言うから、何でそんなに嬉しそうなのかなって思って考えてみたけど、思いつかなかった。

「さ、めいさんの所に行きますよ」

 その言葉に、私の思考する頭は中断させられた。

「乃瀬、早く行くよ」

 私の前を真帆が通り過ぎて行く。

憂梨那さんは私の前まで来ると手を握ってきて、そのまま玄関まで歩き始めた。

「そのメイド服、着てみてどうですか?」

「どう……と言われても、今日しか着ないから――」

「えっ⁉︎ きょ、今日しか着ないってなんでですか⁉︎」

 玄関まであと一歩のところで、そう言ったら憂梨那さんは足を止めて、身体を回転させ私と向き合う。

「恥ずかしい……からです」

正面で顔を見られたくなくて、憂梨那さんの横を通り抜けながらそう言って真帆のいるところまで行く。

 そして、手を繋いでいるから憂梨那さんも私の少し後ろを着いてくる。

「あ!︎ 乃瀬ずるい‼︎」

 玄関で屈んでいた真帆が立ち上がり私の手を見ると、たちまちそんなことを言った。

 別に繋ぎたくて繋いでるわけじゃないからね? 勝手に繋がれたんだから。

 と、言おうとしたら――。

「お姉様! あたしとも繋いでください!」

 声を上げる間もなく、憂梨那さんのもう片方の手に飛びつく。

「飛びつくなら、訊く意味ありませんよ」

 笑いながら、真帆とも手を繋ぎ始めて、玄関を出ることになった。

 それ以上憂梨那さんはメイド服に関して何も言ってこなかったから、この話は終わったと考えることにした。

 ――そうして、不本意ながらも私も憂梨那さんと手を繋ぎながらアパートを出て、めいさんの所へ向かい始めた。



「やっほー憂梨那ちゃーん!」

 上の方から突然声がして、憂梨那さんが握っていた私の手を離して急いで後ろに隠れる。

 憂梨那さんのことを呼んだ女の人が羽をバサバサと動かしながら降りてくる。

「こ、こんにちは、春さん」

 私の肩から顔だけを覗かせて挨拶をした。

「なんで隠れるの?」

 単純な疑問を投げかけられていた。

「そんな気分……だから、ですかね」

 憂梨那さんの苦し紛れな言い訳を訊きながら春さんは、なぜか私のことをじっと見つめてくる。

「あ、あの……どうかしたんですか…………?」

 無言で見つめられることに居心地の悪さを感じて話しかけた。

 そう私が話しかけると、春さんはその場にしゃがみ込む。

「ううん! どうもしないよ、ただメイドがいるって見てただけだから気にしないで。そんなことより、君新しい子だよね。名前なんていうの?」

 気にしないで、ってスカートの裾を持ち上げられて言われても無理なんですけど。気になりますよ。

「あ、えっと私は乃瀬です。緋喜那ひきな乃瀬です……」

「おー! 乃瀬ちゃんかー! これからよろしくね! ちなみにあたしは日芹ひせり春だよ!」

「よろしくおねがいします……春さん。それで……あの、なんでスカートの中に頭を入れてるんですか」

「スカートの中に興味があるからだよ!」

「そ、そうですか……でも」

 恥ずかしいのでやめてください……と言おうとした瞬間、

「春さん、乃瀬さんをいじるのはそこまでにしてあげてください」

ずっと私の後ろで言い訳の言葉を呟き続けていた憂梨那さんが、いつの間にか春さんの背後に立ってスカートの中から春さんを引っ張り出して助けてくれた。

ちなみに真帆は、気づいたら憂梨那さんの腕に抱きついていて、それに夢中になって全然言葉を話さない。

 真帆はどれだけ憂梨那さんのことが好きなんだろう。

「憂梨那ちゃんが、乃瀬ちゃんの後ろで言い訳みたいなことをぶつぶつ言ってるから暇でスカートの中に入っていたんだから、悪いのは全部憂梨那ちゃんだよ」

 私のスカートから顔を出した春さんがそんなことを言うと、

「そうですね。でもそれとこれとは――」

憂梨那さんは冷静な声でそう返す。だけど、春さんはそんな言葉に興味は無いと言うように遮り、

「真帆ちゃんもそう思うよね」

憂梨那さんの腕に抱きついている真帆の頬に触れてお互いの目を合わせて話しかけた。

「邪魔しないで春。あたしは今、お姉様の腕に抱きつくので忙しいんだから話しかけないで」

「つっめた〜い」

 なぜか冷たくされるのが嬉しいというような反応をした。

 真帆は春さんのそんな反応を無視して、また憂梨那さんの腕に抱きついた。

「お姉様、早くめいの所に行きましょ! 春を相手にしていると日が暮れちゃいますよ」

「三人でめいちゃんの所に行くの? もしかして服を作ってもらうとか? いいないいな、あたしも行きたい!」

「ダメ。春がいたらうるさいでしょ」

「え〜、真帆ちゃんのケチ〜。あたしも三十秒くらいなら静かにできるよ」

 三十秒くらい……春さんってけっこうお喋りなんだ。

「ダメって言ったらダメなの」

 真帆が少し声を荒げる。

「乃瀬ちゃんはいいよね?」

 うるうるした目で見つめられる。

 どうやらターゲットを私に変えたようだ。

「えっと……、真帆がダメって言ってるから……」

「乃瀬ちゃん! 考えなしに人の言葉に賛成するのは馬鹿のすることだよ。よく考えて、それは乃瀬ちゃんの意見なの⁉︎」

「違い……ますけど」

「乃瀬さんが困ってるじゃないですか。もうわかりました、春さんも一緒にめいさんの所に行きましょう」

 呆れたように憂梨那さんに言われた春さんは喜んだ。

 そうして私たちは、四人になってめいさんの所まで歩いて行く。

「そういえばなんで憂梨那ちゃんはそんな格好してるの? もしかして趣味?」

 そう聞かれた瞬間、憂梨那さんの歩く足が止まった。

「まあいいとは思うよ。でも遠くから見ると下着で歩き回ってるようにしか見えないから気をつけたほうがいいよ」

「ち、違うんです……! これはめいさんがこの格好で来ないと口を聞かないと言うので仕方なく昼間に着ることになったんです。本当なら夜にこっそり出かけてるんです」

「大丈夫だよ、人、いや天使にも大胆になりたい時くらいあるのは知ってるから隠さなくていいんだよ」

 足を止めて憂梨那さんの方を振り返ってそう言う春さんの目は哀れなものでも見るような目だった。

「だから違うんです! ね、真帆さん」

 腕に抱きついている真帆に同意を求める。

「そうですよ。お姉様をそんな変態みたいに言わないで! 変態はこんな場所でこんな格好をさせためいに言ってよ」

「えー、着く頃にはもうなんて言おうとしたか忘れちゃってるよ〜。もうめんどくさいし飛んでいこうよ! そうすればすぐに着くんだしさ」

 ニコニコの笑顔でそう言う春さんに、私は真逆の顔になっていた。

 羽は出せても、飛べるかは試したことがないからだ。

「乃瀬さんは、天使になったばっかりで上手に飛べるか試したことがないので、歩いてめいさんの所に向かっているんですよ。だから飛んでいくのは……」

 私の顔で察してくれたのか、憂梨那さんが助け舟を出してくれる。

「ならこういうのはどお、あたしが乃瀬ちゃんをお姫様抱っこして飛べば、乃瀬ちゃんが自分で飛ぶ必要ないし、ふたりはそれぞれ飛べるんだからそれでめいちゃんの所に行こうよ」

 ……! 悪くない提案だった。私だって空の上からの景色を見てみたい。

「いいんですか?」

 少し前のめりに聞いていた。

「いいよいいよ。乃瀬ちゃんがいいって言ってるんだからふたりともいいよね?」

 真帆と憂梨那さんの方を向いてそう聞くと、

「乃瀬さんがそれでいいならわたしは問題ありませんよ」

「お姉様がそれでいいならあたしもいい」

ふたりはそう言った。

「よっし、じゃあ決まりだね! ちょっと待っててね乃瀬ちゃん」

 そう言うと春さんはその場で羽を出した。綺麗な真っ白な羽。昨日お風呂場で見た真帆とそっくりの羽だった。

そして羽が出ている状態で近づいてきて抱き上げられた。

「あたしの首に腕を回してちゃんと掴まっててね」

「は、はい……!」

「真帆さんにもお姫様抱っこしてあげましょうか?」

 私たちのことを見ていた憂梨那さんが、冗談半分でなのかそう言うと真帆は、顔をとてもキラキラさせた。

「え! してくれるんですか⁉︎」

「いいですよ。――じゃあいきますよ」

 そう言って、憂梨那さんはさっきの春さんみたいに真帆のことを抱き上げた。

 ふたりは見つめ合っている。

「そこのカップルさんお熱いね〜」

 ふたりを見た春さんが茶化す。

 だけど、ふたり……というか真帆は意にも介さずその言葉を無視していた。

「どっちでもいいから反応してよ〜。ねえ、乃瀬ちゃん」

 そんなこと言われても……。真帆と憂梨那さんは、なんかふたりで楽しそうに話し始めて、聞いてすらないし……。

「……そう、ですね」

 何がそうなのか、わからないけどとりあえず同意してしまった。

「反応薄いね、メイドのお姫様」

 自分で言いながら笑っていた。どう面白かったんだろう?

 あっ、そういえば春さんは私がメイド服を着ていてもなんの反応も示さなかった。やっぱり憂梨那さんのビキニの方が存在感があるおかげなのかな? だとしたら憂梨那さんに感謝をしたい。

……メイド服を着せてきたのも憂梨那さんだけど。

「そこのカップルさん、そろそろめいちゃんの所行こうよ」

「もう……! 今いい雰囲気なんだから邪魔しないで!」

 私をお姫様抱っこしたまま春さんが、そう声をかけて近づいたら真帆が怒った。

「こわ〜い。でも可愛いからもっと怒って〜」

 そんな真帆の怒りなど、意にも介さない春さんが笑顔でちょっかいを出し始める。

「うざい」

 そう一言言って、真帆は憂梨那さんの首をギューっと強く抱きしめた。

 その一部始終をただ黙って見ていた私と憂梨那さんは一瞬だけ目が合ってお互い顔が綻んだ。

「よし! 憂梨那ちゃん、めいちゃんの所まで競争しよっ!」

 よし……?

「乃瀬さんがいるんですから、のんびり飛んで行きましょうよ」

「憂梨那ちゃんはわかってないな〜。早く行くのがいいに決まってるじゃん! ね、そうだよね乃瀬ちゃん」

 え……えっ。

「乃瀬さんが戸惑ってますよ」

「戸惑ってなんかないよ。だから早く行こ!」

 春さんはそう言った瞬間、空に向かって飛び立った。

 突然のことで呆然となった。

「目を開けてごらん乃瀬ちゃん。ほらこんなに綺麗だよ」

 そう言われて、落ちないように腕を春さんの首に強く巻きつけて、ゆっくりと目を開ける。

「わぁああ」

 無意識のうちにそんな声が漏れていた。

 見る場所それぞれが、色々な色の屋根があって、空から見るのはこんなにも綺麗なんだと思わせる。

 それに周りを見てみると飛んでいる人が何人もいる。

「空からの景色はどお? あたしはこの景色が大好きなんだ」

「はい……! 綺麗です」

 その景色は私のことを一瞬で魅力してしまった。

 首を動かして色々な場所を見る。真下には家、遠くを見ると山がある。

「春さん、突然行かないでくださいよ」

「お姉様お姉様! このまま、乃瀬のことは春に任せてふたりでどこか行きませんか」

 お姫様抱っこをした憂梨那さんが私たちの近くまで飛んできた。

「それいいね! 乃瀬ちゃんのことは任せてふたりでどこか行って来なよ」

「春もたまにはいい事言うじゃん!」

 なんか勝手に話が進んでいる気がするのは私の気のせい……?

「めいさんに会った後、乃瀬さんには他にも色々と案内もしようとしてたのでそれだと計画が台無しになってしまうのでダメです」

 きっぱりと真帆の提案を断ると、真帆がしゅん……とした。

 だけど、ひとり引き下がらない人がいた。春さんだ。

「えー、じゃあめいちゃんの所にはあたしが乃瀬ちゃんを案内してあげるから、その後憂梨那ちゃんと真帆ちゃんで乃瀬ちゃんのことを案内すればいいんじゃない? それにあたしも乃瀬ちゃんと話くらいしたいんだから。どお、乃瀬ちゃん嫌かな?」

 そう聞かれても、どう答えればいいんだろう。

「皆がそれでいいならいいですよ」

 流れに任せることにした。

「乃瀬さん、いいんですか? 別に断ってもいいんですよ?」

 憂梨那さんは心配してくれる。

「大丈夫です。めいさんと別れたら案内お願いします」

「わかりました。では春さん、ちゃんとめいさんの所に乃瀬さんを連れて行ってあげてくださいね」

「わかってるよ、憂梨那ちゃんは心配性だなぁ」

「やった〜! じゃあ決まりですね。お姉様どこ行きますか?」

 真帆の温度差が酷い。それ程までに真帆にとって憂梨那さんは特別なんだろうけれど。

「とりあえず帰って着替えてもいいですか?」

「はい! 着替えが終わったら一緒にどこに行くか考えましょうね」

 そう言う会話を最後にしてから憂梨那さんは真帆をお姫様抱っこしたまま飛び去っていった。

「それなら乃瀬ちゃん、あたしたちも行こうか」

 ふたりが見えなくなってから話しかけられる。

「どこにあるのかわかるんですか?」

「あったりまえじゃん! あの山の中だよ」

 と身体を回転させたことで、春さんの後ろにあった山が正面になった。

「なか……なんですか?」

「そう山の中なんだよ。めいちゃんは引きこもりだからね」

「ひきこもり……」

 まるで私のよう……。なんて思ったけど、めいさんに失礼だなと思って訂正する。何に訂正するのかは決まっていないけれど。直接会ったらわかるかな?

「それじゃあ行くよー!」

 言うと同時に動き始めた。

 風は特に生まれない。ここには本当に空気が無いことを思い知る。

 春さんの飛ぶ速度は、早い、経験したことないほどに早かった。

 特に話す時間などなく、あっという間に山が目の前に現れた。

「――よし! 着いたよ。確かね、山に入って少し歩くと開けた場所が出てくるから、そこにめいちゃんのお店が建ってるんだよ」

 地面に降ろしてもらって、山の中に入っていく春さんの少し後ろを着いていく。

「どんな感じのお店なんですか?」

「木でできたお店だよ。もう着くはずなんだけど」

 と言ってそこから約二分くらい歩くと本当に木でできたお店が現れた。

「あれあれ! おーい! めいちゃーん」

 指を差してめいさんの名前を叫びながら走り出した。

 私も走って着いていく。

 山の中に建つお店とも距離が近くなって来たとき、お店の後ろからひとりの影が出てきた。

「憂梨那が来たのかと思ったら春か、憂梨那はどうしたの?」

 この人がめいさんかな?

 私と同じくらいの身長で、翡翠ひすい色の髪に瞳、それに綺麗な肌を持った女の子だなぁ、と一眼見た瞬間に感じた。

「憂梨那ちゃんは、今頃真帆ちゃんと一緒にデートでも楽しんでるんじゃないかな」

「そうか、それで春と……その子だれ?」

 めいさんが私の存在に気づいた。

「初めまして、緋喜那乃瀬です」

「のせ……のせ、どっかで聞いた名前だな……どこだっけなぁ」

「どこかで聞いたことがあるなら、憂梨那ちゃんからじゃないの?」

「あー、そうだそうだ、憂梨那が夜中にビキニ姿で出歩いてて遭遇したんだった。それにしてもよく約束を守って毎日ビキニを着て出歩けるよな。もうそろそろ新しいのに変えてあげてもいい気もするけど次はどんな服にしようか。――それでその乃瀬はわたしに何か用か?」

 途中から思案していためいさんが突然そう言った。

「あ、あの……お願いがあって来たんです」

「お願い? わたしは服とかちょっとした雑貨くらいしか作れないよ」

 雑貨ってなんだろう。

 って、そうじゃなくて私が作って欲しいのは服なんだから。

「その、私の服を作ってもらいたくて……」

「別に作ることはできるが、それなりの対価が必要だけど大丈夫か?」

「対価……どんな物でも支払います。なので、作ってくれませんか」

「どんな物でも……、ふ〜ん、どんな物でもか」

 めいさんは私の身体を下から上へと視線を走らせる。まるで私のことを品定めでもするかのように。

「いいよ、ならサイズとか色々測りたいから中に入って。それにしても、そのメイド服似合ってるな」

 自分では似合ってない気がしてるけど、その言葉を否定はしなかった。

「今日だけ着ることになったんです」

「今日だけ……それはなんでだ?」

 お店の中に入ろうとしためいさんの足が止まった。

「憂梨那さんがめいさんに会わせてあげるから、メイド服を着て欲しいと言われたので、今日だけメイド服を着て、めいさんに服を作ってもらえるようにお願いできればこれからメイド服を着なくていいと思ったからです」

 ありのままを正直に話すと、それを聞いためいさんの口角が上がった。

「それだと、わたしが服を作ることを断れば、乃瀬はメイド服をこれからずっと着るのか?」

「それはきっとないと思いたいです」

「よし決まった」

「おー! なになに何が決まったの?」

 私とめいさんが話している間に、いつの間にか木しかない山の中に行っていた春さんが戻って来てそう聞いた。

「わたしが乃瀬に服を作る条件は――」

 ゴクっと喉を鳴らして、条件がどんなものなのか聞き逃さないように耳を澄ました。

「服が完成するまで、乃瀬はそのメイド服しか着てはダメ! 服を作る条件はこれ以外ない」

「え………………⁉︎」

 言葉を理解してからの数分間、私の身体の時間が止まっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る