第八話 異形の僧都・法源
晴明がその人物と出会ったのは、今から一年前になる。
――七条大路に幽鬼が出る。
そんな噂が、内裏でも囁かれるようになった。
かの一帯は風葬地である
冥府へ向かう
だが、怨念を抱く魂魄は鬼と化す。
「まったく、忙しないことだ」
五条橋を渡る前から、妖気が向こうから漂ってくる。
果たして、鬼や幽鬼は何人いるのだろう。
そもそも、晴明が動くきっかけとなったのは、噂だけではない。前の晩、ふらっとやって来た男が、
「
夜半にやってきた迷惑な訪問者を、晴明は胡乱に見据えた。
「おや、私を覚えていてくれたのかい?」
「あなたのように、
男の名は
とうの昔に彼岸に渡った男は、あちら側に行くと若返るのか、晴明ととかわらぬ青年である。ただ篁もある意味幽鬼になため、彼が視える人間は相当怖いに違いない。
晴明でさえ、最初にあったときは飛び退いたのだから。
しかも今は閻魔庁の官吏、獄卒の
「あのときは、冥府から逃げ出した魂を追っていたのだよ。彼らは冥府においてきた。なにしろ現世には見鬼の才をもつ者が増えた。驚かせては可哀想だろう?」
「あなた存在自体も、十分驚くと思いますが?」
半眼で篁にいえば、彼がにっと笑った。
「で、相談だが――」
「お断りします」
「まだなにも話していない」
「どうせ、逃げ出した魂探しを手伝え――というんでしょう」
「以前は手伝ってくれたではないか」
そう、手伝ってしまったのだ。
篁は陰陽師がどういうものかわかっていたのかいなかったのか、そんな依頼をしてきた。
「あのあとどうなったか知っていますか!?
当時から、安倍晴明の行くところ、妖あり――といわれ、結果、眠っていたモノを起こしてしまった。
大髑髏は風葬地に晒される無数の
「それは大変であったのぅ。それでだ」
「人の話……聞いてませんね? 篁さま」
再び半眼になる晴明である。
かくして晴明は、動かざるを得なくなった。
五条大路から七条へ、そこは六波羅と呼ばれる鳥辺野の入り口である。
こちらは此岸、向こうは彼岸――この世とあの世の境界の地は、彷徨うモノが漂っていた。そこに、その人物はいた。
袈裟衣に白い頭巾、僧であることは後ろ姿でわかったが、振り向いた瞬間、晴明の足は一歩後ろに下がった。
その顔は鬼だった。いや、鬼の面がその僧の顔を覆っていた。
彼の名は法源――、延暦寺の僧都だという。
実際の素顔は精悍な顔をしているのだが――。
「まさか、また貴公と組むことになるとは思っていなかったぞ」
一条・安倍清明邸――、頭巾も仮面も外した法源はそう言って
かの件で協力して幽鬼を冥界に送ったことで、二人は親しくなった。
小野篁も冥府へ戻り、あれから出てくることはない。
「本来なら、私がやらなければならないことですが」
神泉苑への行幸が決まったとき、帝は晴明に来いと言った。
龍神の怒りを静める役を、晴明ならばと期待したようだが、当の晴明は行く気はしなかった。しかしこれは、関白・頼房によって阻まれた。
これ以上、内裏に関わるな――というのだろう。
そんな時だ。玄武が謎の妖が潜んでいる場所を報せてきたのは。
「それで私か?」
法源は顔を上げ、ふっと笑う。
法源は白銀の髪を背に流し、頭部には小さな角がある。
その異形ゆえに、彼は頭部を隠す。
法源曰く――両親は普通の人間だったらしい。ただ、産まれた我が子の髪は白銀で角まである。人目に触れぬように育ててきたが、尋ねてきた僧に預けたという。
己はいったい何者か――、法源はいまやそんなことはどうでも良くなったと笑う。
あなたは強い――。
晴明は、今でも半妖であるこの身が疎ましく感じることがある。
ともすれば、闇に引きずられそうになるこの身が。
「延暦寺に祈祷を頼むことにしたと帝から聞き、あなたの顔が浮かんだのです」
「しかし、私ならまだよかったが、鬼を使いに寄越すことはないだろう。いくら鬼門守護の延暦寺とはいえ、鬼が目の前にいれば卒倒するぞ」
「他に使いとなる式がいなかったのですよ」
「して――、間違いないのだな? 晴明」
「ご迷惑ですか? 法源どの」
「迷惑ならば
法源はそう言って、
☆☆☆
帝の行幸となると、追従する者の数は凡そ千人近くになる。
陽明門近くに官舎を構える左近衛府にて、この男は朝から大きな欠伸をした。
「眠そうですね? 中将。昨夜はどこぞの姫の元にでも、おいでになりましたか?」
苦笑する左近衛少将・高倉融に、藤原冬真は「あ?」と間の抜けた返事をした。
冬真の家は藤原家から分かれた傍流の家系で、それでも父・有朋は右大臣の地位に就いている。藤原一門ではあるが、貴族の生活にはいまいち馴染めずにいる。
得に歌会だけは、苦手である。和歌を詠もうと思えば詠めないことはないが、じっとしていることだけでも嫌な男は、なにかにつけ誘いから逃げている。
ゆえに、和歌を人に贈るなどしたことはない。
周りの貴族子弟は、どこどこに家柄と容姿もいい姫がいると聞くや、せっせと和歌を贈り求婚を申し込むが、冬真は皆無だ。
あれから神隠しも起きず、都は平和だ。
こうも暇だと、不謹慎にも何か起きないかなと思ってしまう。
行幸にはもちろん、近衛府武官も付き従うが、相手は神泉苑に棲むという龍神。神隠しは龍神の仕業と、誰が最初に言い始めたのか。
晴明はきっぱりと、龍神ではないと言い切った。
となれば、神泉苑の行幸に何の意味があるのか。
祈祷を行うという比叡山からきた僧都をチラリと見たが、鬼の面をつけた怪しげな人物だった。かえって龍神を刺激するのでないか――そう晴明に言うと、彼はこう言った。
「法源どのに任せておけば心配はない」
どうやら知己の仲のようだ。
あの晴明が断言するのだ。間違いないだろう。
かくして――。
「主上、これより鎮めの儀、行いまする」
帝が座す御簾に向かい、法源が頭を垂れる。
池の前には護摩壇が設置され、火の粉が舞う。
「ノウマクサラバタタ、ギャテイビャク サラバ、ボッケイビャクサラバタラソカカ」
法源の真言に、池の中央が盛り上がり始めた。
「りゅ、龍神じゃ!」
――まったく。
戦く廷臣たちを一瞥し、冬真は帝がいる御簾前で構えた。
現れたそれは、冬真が想像していた龍神とは姿は違っていた。確かに長い胴体に鱗があったが、色は黒く、虎のような頭がついていた。
「法源どの! 早う、龍神を鎮められよ!」
半ば腰が引いた廷臣の一人が吼えた。
「龍神? これは龍神ではござらん」
「な、なに……」
鎮めることを放棄した法源に、冬真は唇を噛んだ。
(あのクソ坊主……!)
妖から、帝を守らねばならない。腰の剣に手を運んだとき、その声は意外な場所からした。
「油断するなよ、冬真」
唖然とする冬真だが、妖はまっすぐ向かってくる。
――狙いは帝か!
睥睨する冬真の耳に、聞き慣れた声が触れる。
「――オン」
阿鼻叫喚の廷臣たちには、その声は聞こえていないようだ。もちろん、突進してくる妖にも。そしてそれは、目と鼻の先まで迫っていた。
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