第九話 狙われた今上帝

 風が吹くあだし――その音は亡者の嘆きか哀しみか、それとも。

 男は岩の上に腰を下ろしながら、ゆっくりと閉じていた目を開けた。

「そう急くとも、まもなく終わりまする。父上」

 彼はずっとそのために生きてきた。

 男の一族を、自分の手を汚すことなく一掃した者たち。血の海に沈んだ彼らを、彼は一時も忘れてはいない。

 あの日から男は法衣を纏った。墓を建てられることなく、この地で晒されることになった父と邸の住人たち。貴族でありながら、最期は地の上でむくろにされる。

 法師の名は、延慶。

 彼には聞こえる。

 憎い、憎いと叫ぶ声が。

 法師となった自分に、訴えてくる。

 男の手には、碧く光る殺生石の欠片があった。

「取り戻しましょうぞ。再び我らの栄光を」

 もうすぐその時は来る。

 この国の主を、すいに喰わせてやろう。

「ふふ……あはは」

 男の笑い声が、吹きすさぶ風に乗った。

 


 帝や貴族たちが、宴を開く場として知られる神泉苑。

 しかし今は妖がほうこうし、人々が戦く恐怖の場と化している。

「役立たずが……っ」

 帝が座す御簾近くにいた関白・藤原頼房が呟く。それは龍神を鎮められなかったそう・法源へ向けたものなのか、それとも警護にあたる近衛たちへなのか。

「帝を護れ!!」

「左近衛中将……」

「我々はなんのためにここにいるのだ!?」

 冬真の声に右近衛府・左近衛府関係なく、弓に矢を番えた。

 しかし、妖の胴体は相当頑丈なのか、放った矢は跳ね返される。

「くそ……っ」

 冬真は妖をへいげいしたあと、帝のいる御簾を振り返った。

 帝は動く気配はない。

 ここにいれば危険なことはわかっている筈なのに、避難する様子もなく座している。

 こんな時に晴明あいつがいたら――。

 彼なら間違いなく、突進してくる妖を止めるだろう。

主上おかみ、ここは危険でございます!」

 頼房の声にも、帝は無反応だ。

 そしてようやく、帝が口を開いた。

「オン、マカビジャニヤ、ジャニヤノウビイブゥ、ソワカ」

「主上……?」

 頼房は帝が突然唱え始めた真言に怪訝そうだが、冬真にはもうわかった。

 途端に、半眼になる。

(お前のすることにはもう驚かなくなったが、これはやり過ぎだぞ?)

 その真言は続いた。

「ソン、サンマンダバサラダン、センダンマカロシャダ、カンマン!」

 風に御簾が捲られ、突進してくる妖が動きを止めた。

『オ前ハ誰ダ!?』

 妖の問いに、彼は答えた。

「――陰陽師・安倍晴明」

 

☆☆☆


「――今……なんと申した?」

 内裏・清涼殿――、今上きんじようは我が耳を疑った。

 即位して十数年、もはや大概のことは驚かなくなったが、安倍晴明には驚かされる。

「神泉苑には行くなと申すか?」

 御簾の前には、その安倍晴明が座している。

 拝謁を乞うてきたとき、晴明は誰も周りに近づけぬことも要求してきた。

 関白・頼房や他の廷臣たちには聞かれたくないという。

 用心深い頼房をどう納得させればいいのか――帝である自分は、晴明にとっては動ける人間はなんでも使え、のようなものらしい。

 だが相手が晴明だと、怒りが湧かないのは不思議である。

 今上はしばらく一人になりたいゆえ、誰も来させるなと頼房にいい、信を置く者に晴明をこっそりと参内させた。

 安倍晴明は半妖の陰陽師――と、周りは彼をそう呼ぶ。妖の血を引き、夜は人を狩っているのだという者もいた。どれも今上に伝えてくるのは悪い話ばかり。

 だが賀茂忠行に聞けば、安倍晴明は決してそんな男ではないという。

 妖の血を引いているかも知れないが、人に害をなす男でないと。

 国の危機を救いたいと思うのは今上と同じ、一度だけ信じてみませんかという忠行の言葉に今上は晴明に国の命運を託した。

 王都を恐怖に沈めようとしていた妖を、彼は見事に祓った。

 それだけではない。これまでも何度も妖からこの王都を護った。

 その晴明が、神泉苑に行くなという。

「はい。此度の件、龍神が起こしていることではございませぬ」

 御簾の中からは彼の表情はわからないが、力強い声である。

「しかし、晴明。龍神の姿を見たと申しておるものがいる。しかも一人ではない」

「はっきりとご覧になったのでしょうか? 主上」

 問うたつもりが問い返され、今上は言葉に詰まった。

「それは……」

「主上、これは罠にございます。妖の狙いは主上の御身」

「なんと――」

「ゆえに、神泉苑へはおいでにならぬよう」

 晴明の言葉だが、それでも今上は食い下がった。

「いいや……、行幸は決定している。取りやめにはできぬ」

「取りやめではございません。行幸は行います」

「どういう意味だ……?」

 今上は胡乱に目を眇めた。

「向こうが罠を仕掛けてくるなら、こちらも罠を仕掛けます。ただし――このことは主上のお心の中に留めておかれますよう」

 意外なその策に、虚を突かれた今上だったが、揺るがない彼の自信に賭けてみようと思った。

「――その妖、退けられるのか? 晴明」

「追い返すことは可能かと」

「……わかった。そなたのことを信じよう」



 ――まったく、たいした男よ。

 いつになく人が減った内裏――、塗籠ぬりごめの中で今上は笑った。

 残っている廷臣たちは、行幸した帝が、塗籠に隠れているとは思っていないだろう。

問題は、全てを知った関白・頼房が晴明に対して、烈火のごとく激昂しないか心配である。あの男のことだ。いつのように受け流すだろうが。

 


「……これはいったい、どういうことか!? 安倍晴明!!」

 関白・藤原頼房は怒っていた。

 当然だ。御簾の中にいるのは帝だと思っていたのだから。しかし、今それを説明している場合ではない。

「ついに、正体を現したな」

 晴明の前には、頼房と同じように信じられぬといった風の妖がいる。龍のような巨体に虎のような頭、これまで何人も喰らってきたのだろう。肥えた躯は大きくうねり、血走った眼が晴明を貫く。

『オノレ……っ。謀ッタナ!! 安倍晴明』

「龍神の名を騙るとどうなるか、思い知るがいい」

『ホザケっ!!』

 再び動き始めた妖に、冬真が叫んだ。

「晴明、くるぞ!!」

「わかっている」

 晴明は狩衣から呪符を引き抜くと、呪を唱える。

しきがみしようかん! 十二天将・青龍、我に応えよ!!」

 これは賭けだ。

 果たして青龍が応えるか否か。

りんぴようとうしやかいじんれつざいぜん!」

 宙に五芒星を描き九字を切る。

 五芒星はカッと碧く閃光し、呪符がその中央に収まる。

『遅いっ』

 顕現した青龍は相変わらず不機嫌だ。どうやら出番を待っていたらしいが、やはりこの天将は扱いづらいと晴明は思う。

「よくも我の名を語ったな? 妖の分際で、神の名を騙り穢すとは」

 本物の龍神を前に、妖が怯む。

 神泉苑の池に潜る妖を青龍が追った。

 それからしばらくしても、妖が出てくることはなかった。

「やった……のか?」

 冬真が晴明に問いかける。

 彼らには、青龍は視えない。妖が勝手に怖じ気づいて池に逃げた――としか見えていないだろう。

「さぁな……。だが、もうこの池にはあんなばけものは棲まなくなるだろう」

 あの妖がどうなったのか、追っていった青龍しか知らない。

 問題は――。

 憤慨する頼房の視線とかち合って、晴明は天を仰ぐ。

 明日は内裏に呼び出されて、怒鳴られることだろう。

「一時はどうなるかと思ったぞ? 晴明」

 法源まで晴明に話しかけてくると、頼房の怒気がまた上がった気がする。

 帝まで巻き込んだ晴明の大芝居は、こうして決着した。

 帝を亡きものにしようとしたもくろみは、回避されたのである。



「おのれ……、安倍晴明」

 化野の地で、延慶は唇を噛んだ。

 石の上には、傷ついた一羽の鴉。

 神泉苑の様子を探らせに飛ばした彼の式は、十二天将・青龍の波動を受けたらしい。

 ――だが、まだ終わっておらぬ。

延慶は、ついっと口の端をつり上げたのだった。

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