10
頭を抱えて肩を落とす男がひとり。陰鬱な表情でバーの片隅に鎮座する男といえば綿奈部の代名詞であったが、その日は違った。その男はやわらかく波打つ癖毛をガシガシと乱暴に掻き乱し、テーブルに突っ伏した。
バーはアイドリングタイムでその男以外に人は見当たらない。到着したばかりの綿奈部は椅子に腰をかける前にその男の異様な雰囲気に気づいてしまい、迂闊に声をかけることも出来ず、そのテーブルの傍に立ち尽くしていた。
バーカウンターの奥から口髭を蓄えた大柄な男が出てくる。豪胆そうな顔つきの男はその立派な眉を顰めて口を開いた。
「鬱陶しいぞ、恵吾!」
「あかーん! お金なーい……!」
大柄な男は落ち込んでいる男を睨みつけた後、不機嫌な表情のまま綿奈部の方を見た。
「綱吉、何にする、いつものか?」
「あー……それで。あと、カフェオレも出してやってくれ」
「こんなヤツに同情する必要は感じないがね。コーヒーとカフェオレ、了解」
バーの主人とのやり取りでやっと綿奈部の来店に気づいた男が勢いをつけて顔を持ち上げた。
「ツナ! 来とったんやったらなんで声かけへんねん!」
「いや……話しかけられるような雰囲気じゃないだろ、今のお前」
「いやいや、『どうしたんだ?』って話聞く場面やん!」
「面倒くさい……」
「ぐっ……とにかく座れや」
千葉は自分の座る向かい側に手を伸ばして、指先でテーブルの天板をコツコツと叩く。
ふたりは少年騒動以来の再会であった。連絡をとっていないわけではなかったがお互いがそれぞれの事後処理に追われており、ゆっくり会話をするタイミングもなかった。
綿奈部は建前上『少年警護の依頼』を引き受けていただけなので事後処理といえば襲撃を受けてボロボロになった愛車の修理(という名のボディ換装)をするというのがメインであった。刺客の死体処理などはすべて千葉が引き受けていたため、その後あの現場がどうなったのか、綿奈部の関知しないところであった。
千葉の指定通り、綿奈部は目の前の椅子を引き、そこへ腰を下ろす。それを見て、不貞腐れた表情で千葉が頬杖をついた。
「で、車の修理はなんとかなったん?」
「中身以外総取っ換えという具合だが、それを『なんとか』と言うならそうだろう。事前に貰っていた報酬、ほとんどパーだぞ。バカみたいに堅牢な装甲を全部取り換えたわけだからな……お前に換装料金を請求してやろうかと思ったくらいだ」
「……頼むからそれはせんといて、気持ちはわかるけど」
千葉は顔の前で手を合わせて目を強く瞑った。そもそも降って湧いてきたような報酬だったため綿奈部は元よりその金が自分のものだという認識は薄かった。むしろ請求すべきと思うのは、怪我の治療費とタクシー営業休止期間の賠償であった。しかし、労働意欲が極端にない綿奈部にとって車がない状況は休業の格好の理由となった上、怪我の治療費も知り合いの医者・真理愛が随分とサービスしてくれたためそこまで費用が掛からなかった。
「……迷惑料はどこかで払ってもらうからな」
「ごめんなさい……」
綿奈部は千葉のビジネスパートナーとして甘い顔をするわけにはいかないためそうは言うものの、建前でしかない。
テーブルの傍に大きな影が落ちたかと思えば、白いカップが二組そっと差し出された。マスターの大柄な見た目とは違い、その所作は丁寧なものだ。
「綱吉、ゆっくりしていけ。そんでお前はさっさと働け」
丁寧にカップを差し出したその手が流れるように千葉の頭を軽くはたく。千葉は大袈裟に痛がる素振りを見せて、再びテーブルに突っ伏した。
白いカップから立ち上る芳しい湯気を鼻から吸い込み、綿奈部はそっと真っ黒な液体を啜った。
「お前の方はどうだったんだ」
「散々やったわ」
千葉は天板に押し付けていた頭をゴロリと片側に傾けて、指先でカップの持ち手を弄ぶ。
「……最後のひとりだけやなくて俺が捕まえとった他のヤツも全員時限装置着けられてたみたいやわ。おかげで部屋はボコボコやし血まみれやし……」
「一応聞いておくが、お前の部屋ってわけじゃないよな」
「冗談言わんといてくれ。そうやったとしたらもっと落ち込んどるわ……一定時間活動反応がないと消されるって仕組み。ナノマシンデバイス関係の情報漏洩を防ぐためやと思うんやけど、首とデバイスのどっちも爆発しとったわ」
「危ねえな……爆発に巻き込まれるところだったかもしれないってことかよ」
「間一髪、ツナが先にデバイス破壊しといてくれたから怪我せんで済んだってことやなあ……」
俺はその前に敵に怪我を負わされたが、と口から出かけるものの寸前でコーヒーと一緒に飲み込む。
「クリーナーに死体処理と原状回復頼んだら、それはもうえらい金額になってもうて……ツナにも報酬前払いしたし。ひっさびさに素寒貧寸前やわ」
「御愁傷様」
「とりあえずヤツらが掴んどった俺の情報を握り潰すことには成功したから、それだけでも良しとするしかないかなあ……他に収穫はなかったけど。独断行動するヤツがおるわりには、尻尾出してこーへんの……末端が知り得る情報なんかほとんどないって話。ほんまびっくりするくらい徹底しとるわ、敵さんも」
千葉は椅子に踏ん反り返りながらカフェオレのカップに口をつける。おどけた口調で話しているが、その目つきは険しく、店内の影を睨みつけていた。
「……迷惑かけたな」
そこまでの落ち込み具合は半ば芝居掛かって扱いが面倒くさいと感じるようなものだったが、その一言は心の底から発せられた重みがあった。影を睨む目つきも気迫がなく、疲れているという表現が適当だった。
「……気にするな」
ふたりの間に沈黙が流れる。カップとソーサーの触れ合う甲高い音がやけに耳につく。綿奈部は千葉にかける言葉が見当たらず、コーヒーを味わうことに終始していた。
そこへバーの扉が開閉したことを知らせるベルの音が響き渡る。その音に釣られてふたりがゆっくりと扉の方へ振り返るとオリーブ色のコートを身に纏った男がひとり、微笑みを浮かべて立っていた。
「おや、おふたりともお揃いで。お久しぶりですね」
深みのある低く響く特徴的な声。男は紳士然といった振る舞いでゆっくりと手を挙げる。
「山田くん!」
「おー、山田。久しぶり、になるのか?」
ふたりの不安定な働き方に加えて、山田と呼ばれた男も出張が多い人間だった。そのため、どのタイミングで再会できたとしても、三者共久しぶりに会ったような懐かしい気分になる。
今日はメンツが揃いそうだからTRPGでもすることになるかもな、と綿奈部がぼんやり思っていると、山田の口からとんでもない言葉が飛び出した。
「あれ……綿奈部さん、今日はお子さんは連れていないのですか?」
「……は?」
「この前、カツ丼屋で見かけましたよ。お子さん連れでしたよね。あんなに大きなお子さんがいらっしゃるなら言ってくださればよかったのに」
「いや、あれは」
お守りを任されたんだ。そのように言葉を続けようとするが、テーブルの向かいから千葉が飛び出し、目を爛々に輝かせて山田に歩み寄る。
「そうそうそう! びっくりやんなあ、ほんま。俺にさえ教えてくれてへんかったん、薄情すぎるで!」
「それはひどい話ですね。何か事情でもあるのかもしれませんから……」
「それなら余計に俺たちに子供の話をしといてくれたら良いと思わへん? 俺たち信用されてへんのかも……」
「おい、待て。俺の話を聞け、お前ら」
千葉の口調が『いつも』の調子を取り戻す。少し安心したような、何かもっと言葉を掛けてやれたのではないだろうかと、綿奈部は複雑な心境に陥る。
――俺が今できることは、『いつも』通りに振る舞う千葉に『いつも』通りに接することしかない。
そして綿奈部は、誤解に誤解を招いている頓珍漢な会話に大訂正を入れるべく、その後ろ暗い心の内をひとまずは直視しないことに決めたのだった。
<終>
狭間を覗く AZUMA Tomo @tomo_azuma
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