8

「おいおいおいおい! 何してくれとんねん!」

 威勢の良い関西弁が人気のない道に響き渡ったかと思えば、同時に聞こえる肉のぶつかる鈍い音。気づけば左腕の圧力が消えていた。

 聞き覚えのあるその声に遠のいていた意識が一瞬にして呼び戻される。

「最後のひとり、やあっと見つけたぞ! 観念しろ!」

 何が起こっているのか確認しようとするものの、頭部を蹴られた際にコンタクトレンズがどこかへ飛んでいったのか、視界が靄掛かって人の形が確認できる程度の視力に落ちてしまった。

 シルエットだけでも、関西弁の男が黒い影に殴る蹴るの暴行を加えているのは確認できる。

 ――コイツ、タイミング良すぎるだろ……いや、もっと早く来いよ。

 綿奈部は口には出さずに文句を言う。この場はとにかくなんとかなりそうだ。痛みを堪えながら起こしていた上半身から力を抜き、大の字になって空を見上げる。ぼんやりとした視界でも空のグラデーションの美しさを感じ取ることができた。夕日の橙色が支配する天の端には、夜の気配を運んでくる群青色が徐々に侵食しつつある。

 そんな空の美しさを堪能したい綿奈部ではあったが、足元の方ではなおも肉のぶつかる音とパキッと何かが折れる不穏な音が鳴り続けている。

「オラァ! 自分のデバイス置いてけや!」

「BGMが暴行音じゃなきゃ、良い景色なのになあ……ヤクザこわ……」


「来るの遅くなってすまん。ていうかなんでツナがこんなとこにおんねん。あの子は?」

「……車の中だ」

 綿奈部は関西弁の男――千葉恵吾の介助を受けて立ち上がった。下半身に大きなダメージを受けていないことが幸いし、歩行には問題がなさそうだった。頭部の怪我による出血が原因で垂れてくる血液が鬱陶しい上に、頭は未だにクラクラと覚醒しないが、なんとか運転席まで近づき鍵を解錠する。

「後部座席にいるはずだ」

「そっか、ありがと」

 その言葉を聞いた千葉は後部座席のドアを開く。綿奈部も運転席のドアを開け、ドアポケットに用意していた非常時用のメガネを取り出した。メガネのおかげで視界が良好になる。綿奈部が後部座席の様子を確認すると、少年が膝を抱えて座っているのが見えた。

「おい、大丈夫か?」

 千葉が車の外でしゃがみ込み、少年の様子を窺う。少年は体を震わせながら顔を少しだけ上げ、その大きな瞳に千葉の姿を映し出した。

「こわい……」

「せやな、怖かったな。ごめんな……とりあえず出てこい。君も、自分自身の目で安全を確認したらいい」

 茶色の大きな目はもう涙を溜めてはいなかったものの、丸い頬や顔を埋めていた腕は泣き濡れていた。少年は千葉の提案に小さくうなずくと、開いているドアに向かって体をずらしていく。千葉は己の手よりも幾分小さな手を握り、少年の姿勢を支えた。

 綿奈部が車両の前方に目をやれば、黒ずくめの刺客が両手両足を縛られ、意識を失ったまま路上に転がされているのが確認できた。目出し帽は取り払われ、殴打で腫れ上がった顔が露わになっている。綿奈部は刺客に少しだけ同情を覚えた。頭部以外も尋常じゃないダメージを受けているだろうことが想像できたからだ。

 少年に目線を合わせるためにしゃがんだままの千葉が刺客を指差す。少年に語りかける千葉の声は優しくて柔らかいものだった。

「アイツで始末せなあかんかったやつは最後。ほんでもってこれが例のモノやね」

 千葉はスラックスのポケットからバンド状の物体を取り出すと少年の目の前に掲げた。綿奈部から見ればなんの変哲もないナノマシンデバイスであったが、ふたりにとっては重要なものであるらしい。

「……アイツが持ってたん?」

「最終的にはそうやった。何人かに分散しとって、どいつが持っとるかわからんかったから、手こずったわ」

「そっか……」

「どうやらコイツの操作ができるのはあそこで寝とるヤツだけやったみたいや。それはそれとして、他のヤツらにも顔見られてもうたからついでに始末つけてきたんやけどね」

「殺したってこと?」

 少年の問いは『殺してしまったのか』というものではない。『当然殺したのだろう』という念押しをしているような怒りと不安がこもった口調だ。綿奈部は心の内の動揺を自覚する。己よりも何歳も年下の幼い少年が誰かの死を願っているような光景は人生の内でそう何回も遭遇するものではない。

「……どうやろうね」

 千葉は力なく微笑んで答えをはぐらかした。

 敵が生きていても死んでいても、幼い少年に聞かせるような内容ではない。相手が抵抗できる状態でないことだけわかっていれば、安全が確保されていることと同義である。

 少年の手を、千葉の大きな手が改めて握り直す。少年は体をびくりと震わせて千葉の目を見た。千葉の顔から一切の表情が掻き消えて、何を考えているのかわからない。綿奈部はその顔を見てゾッとする。ふらつく体を支えるためにドアに手をかけていたが、その手に俄かに力がこもった。

「ところで、ここに来るって言い出したのはもしかして君自身か?」

「……そう、です」

「ここに近づくなって約束、覚えとらんかったんか」

「覚えてた、けど……」

「君だけの力ではどうしようもできへんって話もしたよな」

「してた……でも、俺は……」

「相手の情報を掴みたかったからここに来た、って言いたいんか」

 静かな口調であったが圧迫感がある。その威圧感に綿奈部は息苦しさを覚えた。少年も同様に、何も言えずに押し黙る。合わせた視線を逸らすこともできず、少年の顔には恐怖が貼り付いていた。

 しばらくの沈黙の後、千葉は少年と合わせていた目を伏せ、がっくりと項垂れた。そして「はあああ……」と溜め息を漏らす。

「――ごめん、大人げなかったな。君は、俺やから。君の行動予測は立ってたはずやのに、対応策考えへんかった俺が悪いわ。そら君も、少しでも自分でなんとかしたいって思ってたよな。ごめんな」

 普段のおどけた口調とは違い、弱々しく情けない話し方だった。

 千葉の態度が一変して緊張の糸が切れたのか、少年の目から大粒の涙が次々に溢れ出していた。しかし声は上げない。肩を震わせ、歯を食い縛って、千葉の手を力強く握り返している。力を込めすぎて、少年の指先に血が通わず、真っ白になっていた。

「ごめん、ごめんな。俺が俺のことをわかってやれてなかったな」

 千葉は再び少年の顔を見上げる。痛々しい少年の泣き顔に千葉の顔も辛そうに歪んでいた。千葉は手に持っていたデバイスを地面へ置き、その手で少年の頭を撫でた。

「でもな、心配すんな。大人の俺は、真相を知るためにいろんなことしてきた。ちょっとやそっとじゃ負けへんように体もめっちゃ鍛えたしな。君が追い求めているものは必ず俺が掴む。やから――」

 綿奈部には、千葉が歪んだままの顔で笑顔を作ろうと苦心しているのがわかった。

「やから、もうゆっくり休んだらええよ」

 少年は泣いていたが、はっきりと目を見開いて千葉を見つめていた。

 綿奈部にはふたりの会話の真意が読み取れなかったが、少年との別れが訪れていることは察することができた。

 ――信じがたいが、少年は本当に『千葉恵吾』だったわけだ。同一人物のような、とかそんなレベルではない。同一人物なのだ。

 千葉は路上に置いたデバイスを持ち上げ、「ツナ」と呼びかけると綿奈部に投げてよこした。綿奈部は完全に蚊帳の外だと思って油断していたため、デバイスを受け止め損ねそうになった。

「うわっ! いきなりなんだよ」

「それ、破壊してくれ」

「は?」

「外部からの破壊とナノマシンで干渉させての内部破壊を同時にするのは得意やろ」

「……お前だって、そんなことできるだろ」

「いいから!」

 千葉は泣き続ける少年から目が離せないようだった。

「……本当に、やるぞ」

 綿奈部が少年をチラリと見ると、それに気づいた少年が綿奈部に視線を返す。涙でぐちゃぐちゃの顔。誰がこの少年にこんな表情をさせているのだろうか。綿奈部はどんよりと暗い気持ちに支配される。

 少年が綿奈部に向かってコクリとうなずくと、千葉は握っていた手を引き寄せて胸の中へ抱き留めた。

「大丈夫やから。君の願いは俺が――」

 綿奈部のデバイスが紫色の光を放ち、ネイルガンを顕現させる。綿奈部は手に持っていたデバイスを地面へ落とすと同時に素早くトリガーを引いた。バンド状のデバイスを紫色に発光する釘が何本も貫き、着弾した順にデバイスの中へ光が溶け込んでいく。デバイスを外から破壊すると同時にナノマシンがデバイス内に侵入し、その機構を破壊していく。

 紫色の光とは別にデバイスが眩く白い光と煙を放つと、少年の体が白く強く発光した。

「――俺が、遂げてみせる」

 少年であった白い光は無数の光の粒へ変化し、やがて空中へ溶けて消えていった。

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