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 デバイスの情報では、少年がそこまで遠い場所に移動していないことが確認できていたため、綿奈部は急いで劇場を後にする。ルート案内を指向性のアナウンスとスマートコンタクトレンズによるルート表示に切り替えて、駆け出して行った。

『次の角を左です』

 機械音声は女性の声をしており、普段であれば心地の良いであろう音声が、その時ばかりは綿奈部の焦りを加速させた。綿奈部が街を駆けている間にも少年は少しずつ移動をしているようだった。しかし、大人の全速力と子供の歩みの速度では圧倒的に差があり、綿奈部はふたりの距離を徐々に狭めることに成功する。

 映画を鑑賞している間に太陽は随分と傾き、街は橙色の光に包まれていた。街行く人は必死で走る綿奈部などまったく気に留める様子はない。夕日に照らされた男の長い影がどこへ行こうとお構いなしだ。

 ――危険な街では無関心でいることが大切だ。何も知らないことが身を守ることがある。だから厄介そうな物事からは目を逸らして、知らないふりを決め込む。力のない者の処世術だ。子供はどこへ行ったと誰かに聞いたとしても、誰も答えなどしないだろう。

 ――だから俺は、自分で答えを掴み取れる力を得たんだ。

 綿奈部は誰に頼らなくても少年の位置を把握できている。この技術こそ、彼が生きていく中で追い求めた力だった。


 とうとう追いついたかと思えば、少年はひとり、歩道の縁に腰を掛けて膝を抱えていた。大きな麦わら帽子の影が少年の肩まで覆っており、どんな表情をしているのか読み取れない。

 全力で走り続けた綿奈部は自分の気管が破れて血液を吐き出すかと思うほど疲労していた。ぐったりと歩道へ座り込み、肩で呼吸を繰り返す。

「ハッ、ハアッ……お前っ、はあ……クソ、苦しッ……んなとこ座ってたら危ねえぞ……」

 ひとまず少年の安全を確認できたため、大いに安堵した綿奈部は少年を怒鳴りつける気にもなれなかった。人通りも車通りも少ないものの、少年の座り込みが危険な行為であることには変わりない。綿奈部は息も絶え絶えに注意する。

「……なんで俺の居場所わかったん? もしかして麦わら帽子?」

 少年の言葉は綿奈部へ問いかけるものであったが、ひとりごとのようにぽつりと呟かれた。人懐っこくてお調子者といった口調で話していた少年とは別人のような寂しい響きであった。

「ハアッ……はぁ、正解……麦わら帽子に発信機仕込んでおいた」

「……発信機を仕掛けるにしても帽子って……心許ないんちゃいます? すぐに脱げてまうし」

「言われてみればそうだな……でも見つけられたんだ。結果オーライだろ」

「車で来たらそんな疲れへんかったでしょうに」

「うるせー……すぐに追いつけると思ったんだよ」

 両腕を後ろに突き、空を仰ぎ見る。僅かに残った水色と夕日の橙色が混じり合ったキャンパスに電線の黒い糸が幾重も行き交っていた。

 目の端で少年の姿を確認すると、膝を抱えたまま車道の向こうを見つめているのがその後ろ姿からもわかった。道の反対側には空き地が広がっている。銀色のフェンスで四方を覆われている。住宅四軒分はあるだろう広大な空き地で、その裏にはなだらかな斜面の林が広がっていた。

「……こんなところに何の用があるんだ?」

「……いや、ほんまに空き地なんやなあって……確認しにきただけ」

「はあ?」

「あとは、せやな……」

 少年が縁石の上に立ち上がって空き地よりも僅かに上を指差した。

「犯人は事件現場に戻るってのが真実なのか、確かめにきた」


 少年の指先を辿っていくと鬱蒼と生い茂った木々の間の影に行き着く。眩しい夕日とのコントラストに、その影の中に潜むものが何かを判別することができないが、少年の異様な気配に綿奈部も立ち上がり、その腕を掴んだ。

「おい、帰るぞ」

「嫌や。俺は逃げへん」

 少年の細い手首を掴んだまま、綿奈部はスマートコンタクトレンズを操作して林の中に目を凝らす。少年の指差した場所に熱源を検知する。人肌ほどの温度だ。サーモグラフィーが示すのはその熱源が人型であるという事実だ。

 ――人間が潜んでいる。敵か。

「逃げるとか逃げないとかじゃない。俺はお前の命を保証するのが仕事だ」

「向こうは俺の情報が欲しいらしいけどな、俺かてアイツらの情報が欲しい。直接確認するのが一番やろ」

 怒りか恐怖か。少年の全身が震え、産毛が逆立ち、鳥肌が立っている。まずい。コイツは完璧に頭に血が上っているぞ。

 少年を抱えて逃げるのが現実的だが、戦闘員がメインの仕事ではない綿奈部にとっては文字通り荷が重すぎる。少年が自ら走ってくれるのがもっとも生存率の高い作戦だが、望みは薄い。綿奈部は急いで左腕のデバイスを操作する。

 ――間に合え、間に合え!

 強い風が林の枝を擦れ合わせ、ざああ、という音が空き地に響くと同時に大人ひとり分の影が飛び出してきた。真っ黒な装束で目出し帽で顔を覆い、手には自動拳銃を握っていた。その影は身軽にフェンスをよじ登り、空き地を突き進んでくる。本格的にまずい。

 少年の息を飲む音が聞こえてきた。真っ黒な不審者と対峙する気なのか、少年は縁石の上から一歩車道へ踏み出している。

「待て待て待て!」

 綿奈部は慌てて少年の腕を引く。少年の情報が欲しいなら殺しはしないはずだが、それなら余計に俺の命が危ない。しかも俺が死に、少年が相手の手に渡れば、情報が渡ったも同然の事態になるだろう。

「お前ひとりで何ができる? 拷問されるのが関の山だぞ」

「俺には知らなきゃいけないことが!」

 その瞬間、再び強い風が空き地に吹き荒れ、麦わら帽子が飛ばされていった。少年は大きな目に今にも溢れそうな涙を溜めている。穏やかな笑みを湛えていた頬に、今は怒りが迸っていた。少年を突き動かすものが何なのか綿奈部にはさっぱり見当がつかないが、危機的状況であることは違いなかった。

 いよいよ不審者が道路側のフェンスをよじ登り、歩道へと降り立つ。その人物は手に携えていた拳銃をゆっくり持ち上げ、綿奈部に照準を定める。刺客の右手人差し指が引き金を引くのを綿奈部はじっと見つめていた。

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