5

 無事に食事を終えて、綿奈部と少年は車でみなみ劇場まで移動をする。劇場は古びてぼやけた印象の建物で、みなみ劇場と書かれた看板が掲示されているが赤いインクで印刷されていただろう部分が風化し、白い袋文字になっていた。眩しい日差しに照らされているはずなのにどことなく暗い印象を受ける。路地裏に設置された非常階段が錆びてボロボロになっているのが正面から確認することができた。しかし、古くて脆そうな外観とは対照的に玄関は綺麗に清掃されていた。

「相変わらずボロいなあ……」

「来たことがあるのか?」

「まあ、はい」

 玄関へ入り、一層暗い印象のロビーを進む。空調が効いており、ひんやりとした空気がふたりを包み込んだ。ロビー奥のチケット売り場は自動化が進んでおらず、売り場担当の男性スタッフがカウンターの奥へ座っていた。明らかに年老いている男性はメガネのブリッジを押し上げて、古いパソコンをいじりながら静かな声で「いらっしゃいませ」と声をかけてくる。

「大人ひとりと子供ひとりで」

「二千八百円です」

 男性がパソコンに繋がれた機器をカウンターに置く。

「こちらへ決済をお願いします」

 綿奈部が左手首のデバイスをその機器の上へかざすと、控えめな決済完了音がロビーへ響いた。

「お飲み物などもこちらで受け付けていますが、何か飲まれますか?」

「俺、コーラで!」

 斜め後ろで少年がはしゃぐ。綿奈部はカウンターに置かれたメニュー表を確認して指を二本掲げた。

「コーラふたつ。ラージサイズで」

 男性はカウンター内の棚から大きな紙コップをふたつ取り出すと、壁に設置されたドリンクサーバーに紙コップを置きコーラを注ぐ。

「千円です」

「なあなあ、綿奈部さん。ポップコーンは?」

「さっきメシ食ったところだろうが」

 再び控えめな決済完了音が鳴る。決済の間にふたつの紙コップと入場券二枚がカウンターへ置かれた。

「どうぞ、お楽しみください」


 劇場の入り口には入場券の挿入口があり、そこへ入場券を差し込むと入り口のドアがゆっくりと重たげに開いた。この映画館は指定席ではないため、入場券を入り口で回収している様子だった。少年も綿奈部に続いて入場券を差し込み、劇場内へ歩みを進める。スロープの行き先はスクリーンの目の前であった。場内を見渡すと、映画好きの中でも特に物好きな人間が何人か既に座席に座っていた。綿奈部は少年を背に隠すように場内の階段を登り、後方の座席へ移動する。

 少年を先に座らせると、綿奈部は再び毒物検知デバイスを取り出し、紙コップと中身を検査する。

 すると少年がヒソヒソと綿奈部に声をかけてきた。

「今度は毒見、いらないですよ」

「なんで」

「おじさんと間接キスなんてお断りです」

「おじさん! テメエ……死んでもいいのか?」

「死んだ方がマシってことですやん」

 ニヤリと笑う少年の姿に千葉の表情が重なる。本当にそっくりな笑顔だ。

 幸い検知器には毒物が検出されることもなく、念のため綿奈部は自分の分のコーラに先に口をつけた。

「多分大丈夫だけどな。お前のその態度、いつか足元を掬われるぞ?」

「ご忠告ありがとうございます」

 少年は紙コップに挿されたストローを咥えると美味しそうに中身を吸い上げる。少年の好物なのかもしれない。

 ――そういえば千葉もコーラが好きだったな。

 少年をじっくり見れば見るほど千葉にそっくりだった。少年特有の未熟さがあるが、千葉を幼くすればこうなるだろうという予想図がそのまま目の前に現れたかのような姿である。

 その不思議な光景に綿奈部が少年を見つめ続けていると、少年がぎゅうっと眉根を引き寄せて綿奈部を睨みつけた。

「そんなに見つめて……小児性愛はどうかと思いますけど?」

「……誰がペドフィリアだって?」

「俺、別に年上の人好みちゃうし、しかも女の子が好きやし」

「俺だって胸とケツのでかい女の方が好みだわ! このクソガキが!」

「うわ、安直……脂肪の塊やん、そんなん」

「うるせえ! 良さのわからねえガキは黙ってろ」

「うるさいのは綿奈部さんですよ、しー、しー」

 少年が慌てた様子で人差し指を唇の前に立てて静かにするようにジェスチャーをする。周りを見れば数少ない観客の何人かが不思議そうな目で綿奈部のことを見ていた。それを認識した途端に恥ずかしさで顔に熱が上るのを感じる。綿奈部は少年の隣の席へドカリと乱暴に腰を下ろした。

「テメエが余計なこと言うせいだぞ……」

「だって綿奈部さんがこんなに冗談にノってくれるとは思わんかったから……」

 人差し指を立てたまま、少年はくすくす笑っていた。柔らかい曲線のツヤりとした頬に人懐こい笑顔が浮かんでいる。ムカつくのに憎みきれないこの感覚は、長年綿奈部があの男の隣で感じてきたものと同じであった。


 上映された映画はなんだかまどろっこしいような哲学的なような、綿奈部にとっては退屈なものであった。画面の見栄えはとにかく美しく洗練されていたが、内容は少し理解し難い。理解できないから退屈なのか、それともストーリーが本当に退屈なのか判断しかねる物だった。壮大な物語であれば綿奈部も嫌いではなかったが、淡々と流れていく男の日常の中で見出す哲学というものは映画映えしないのでは、と感じる。

 隣に座る少年は静かに画面を見つめ続けていた。場面が転換するたびに、大きな丸い目がきらりとスクリーンの光を反射する。純粋で無垢な輝き。己がどこかへ置き忘れてきたものを少年の中に見出し、郷愁に似た感情に襲われる。

 ――余計なことを考えるな。ガキのお守りをしているだけにすぎない。

 静かにコーラを飲み、綿奈部は少年の座席とは反対側のアームレストに頬杖をつく。

 あくびを噛み殺しながら時間が過ぎ去るのをじっと待っていた。


 二時間に及ぶ上映が終了し、ロビーに戻ってきたふたりは体を伸ばして凝り固まった体をほぐしていた。

「なんか……ちょっと難しい映画やったなあ」

 目を擦りながら少年がポツリと零す。やはり少年にとってもこの映画は難解なようだった。

「しかもすげえ長かったしな」

「内容の割に長かったですね」

「綺麗な映画ではあった」

「たしかに」

 中身が空になった紙コップをゴミ箱に捨て、少年が綿奈部を振り返った。絶望的なまでの無表情である。

「どうした」

「……お花摘みにいきたいです」

「あの量を飲みきったならそりゃあそうか。ならトイレの前で待っててやるから行ってこい」

「すぐに戻ります」

 ロビーのわきに掲げられたトイレの標識に向かって少年が駆け出す。綿奈部はそのあとを大股で追いかけ、トイレの入り口に着くと腕を組み壁に背を向ける形で少年が戻ってくるのを待つ。

 映画館の玄関口からは特に新規の客が入ってくるわけでもなく、ロビーには受付の男性が弾くキーボードの音のみが反響していた。

 小用を足すだけならとっくに済んでいるはずの時間が経過し、綿奈部は背筋にじわっと気持ちの悪い汗をかいていた。ロビーは涼しいはずなのに、嫌な予感に対する緊張感で体温が上がっている。綿奈部が痺れを切らしてトイレの中へ駆け込もうとした瞬間、左腕のデバイスから警報音が発せられた。さっとデバイスの画面を確認し、トイレを覗き込むと、壁の上に設置されている窓が開け放されているのが確認できた。少年くらいの体格であればちょうど通り抜けられるほどの空間である。

「あんのガキィ……」

 綿奈部は頭蓋に収納されている血管が切れかかるのを感じ取り、不安と少々の怒りによって声を震わせていた。

 デバイスの画面には劇場から少しずつ遠ざかる信号が赤い点となって表示されていた。

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