水中に咲く、その大輪

SAIKAWA

1.水中に咲く、その大輪

ブラジル人と日本人をシェイクしたような酷い暑さの中、真中悠一は目を覚ました。

悠一の住んでいるボロアパートは、玄関の鍵ですら職務放棄をしているため施錠された試しは無い。従って熱帯夜の安眠を約束してくれる冷房も勿論存在しない。


(いい加減書き始めないと愛想を尽かされるかな……)溜め息をつきながら仕事道具のパソコンを起動する。


悠一は小説を書く事によって生計を立てていた。ただし、担当から新作を急かされて既に半年が経過している。勿論売れていればこんなボロアパートに住む必要が無いので、頭に『売れない』という修飾語がかかる。


中途半端に覚醒した寝起きの頭を叩き起こすため、インスタントコーヒーを淹れる。悠一が小説家になって15年欠かさず行ってきたルーティーンの1つだった。もっとも売れていないのだから実績の無いルーティーンではあるが。


安物のコーヒーをすすりながら涼しさを求めて窓を開ける。玄関と同様に鍵が閉まらない窓も、開ける時にはひと手間省けて便利なものだなと感心しながら外へと視線を向けた。そこには浴衣を着た可愛らしい女の子達が、はしゃぎながら歩いている姿があった。


「祭り……今日だったか……それにしても昼前から元気だな」一人で過ごす時間が増えると、相対的に独り言の回数は増えていく。それらをテーマにした論文を昔読んだが内容は忘れてしまった。どうやら独り言と同時に物忘れも増えているようだ。


悠一も子供の頃は友人と祭りに毎年行っていたが、その友人達も今では何をしているのか分からない。考えてみると大人になってからは失ったものばかりだった。


このままでは何も思い浮かばずに終わってしまう事に危機感を覚え、気分転換に祭り会場へ脚を運んでみようと考えた。


本来なら騒がしい場所が苦手であった悠一であったが、このまま何も書かずにいるとボロアパートの家賃を払う事すら難しくなる。一張羅である黒色のスキニーと白いシャツに着替えて鍵の掛からないドアを開けた。


悠一が祭り会場へ向かったのは昼過ぎだった。この時間帯であれば人が少ない状態で祭りの空気を浴びられると考えたからである。ただし人の少なさは、少し歩くだけで汗が吹き出る程の天候との等価交換であった。


勢い良く外に出たのは良いが、会場への道を詳しくは知らなかったので、散歩がてら記憶を辿りつつ向かう事にした。


「確か神社を抜けた先の広場だったよな……」汗を手の甲で拭いながら悠一は呟いた。


あまりの殺人的な暑さに、自宅から水を持ち出さなかった自分が怨めしい。ただ幸いな事に境内は非常に涼しく、残りは長い階段を下って広場へと歩を進めるだけであった。


神社への階段が長い理由は、上る際に足元を見るため自然と頭を下げて参拝をするようになるからと言われている。もっとも自分は上るのではなくて下っているのだから関係は無いのだが。


そんな事を考えていると、まるで命令されたロボットかのように脚がもつれてしまった。慌てて手摺を掴もうとするが、生憎この長い階段にはそんな気の利いた物は設置されていない。勢いで左足の靴が明後日の方向へ投げ出される。一段踏み外すとあまりにも呆気なく、悠一は長い階段から転がり落ちてしまった。




「おじさん……大丈夫?」焦りと不安が混ざったような声で何者かは話しかける。


可愛らしい目覚まし時計だな、と考えながら悠一は目を覚ます。視線を少し上に上げると、様々な花が描かれた浴衣に、草履風のサンダルを履いている少女がこちらを覗き込んでいる。


どうやら階段から落ちて気を失っていたようだ。骨折で済めば御の字という高さであったはずだが、不思議な事に痛みは全く感じない。時間も少し経ち、すっかり太陽は沈んでいるようだ。


「あ、起きた!こんな場所で寝てたら風邪引いちゃうよ?緑もたまーに外でお昼寝しちゃうけど……」まるで弟に注意するかのような口調で少女は言った。


立て続けに話す少女には悪いが、悠一の頭には一切台詞が入ってこなかった。何故なら眼の前には、夜である事を忘れるほど綺羅びやかな屋台や提灯が遥か先まで続いていた。




「えっと……ここはどこかな?」苦笑しながら漫画のような台詞を悠一は口にした。


身体は小さくなっていないよな?とジョークを言おうと思ったが、ジェネレーションギャップで後悔しそうだったので辞めておいた。


「え?お祭りだよ?一年に一度しかやってないんだよ?おじさんも“そう”なんでしょ?」首を傾げながら不思議そうに言った。


“そう”とは“どう”なのか良く分からなかったが、目の前にいる少女はどこかで見た事がある気がした。そもそも目の前のジブリ映画のような光景は、明らかに向かう予定の祭り会場では無いので、夢の中なのかもしれない。


「君は迷子?それとも一人で来たの?」立ち上がりながら悠一は聞いた。


「ううん。一人じゃないよ。はぐれちゃったの。だから探してるんだ……」先程までの人懐っこい態度から一転して、悲しそうに笑いながら少女は答える。


夢の中でも善行を積むとカウントされるのか少し悩んだが、困っていた少女を放置するのは心苦しいので、一緒に両親を探す事を提案してみる。


すると途端に「本当に良いの?」と嬉しそうな顔でこちらを見上げた。山の天気のように表情がコロコロ変わるので、見ていて退屈はしなさそうだ。


「僕は真中悠一っていうんだけど。君は?」敬語以外でする自己紹介は意外と珍しいな、と考えながら少女に名前を聞く。


そもそも職務質問をされかねない状況なので、少しでも抵抗する為に名前だけでも知っておかないと色々不便そうだ。


「緑!日向緑だよ!小学四年生……になるのかな?」眉より上で切りそろえられた髪を揺らしながら答えた。


「なんだか縁日に向かいそうな名前だね」と悠一がジョークを言うが、緑は大きな目をパチクリとさせるだけで勿論通じない。


「ねえ、ここの縁日にはね、景品として花火玉?をくれるお店があるの!だけど緑一人じゃぜーーーーったい集まらないから一緒に探してくれる……?」と突拍子も無い事を話し出した。


「ん?花火玉って、あの花火になる玉の事?」畳み掛けるように話し出す緑に困惑しながら悠一は言う。


我ながら頭の悪い返答だなとも考えながら、最近の小学生はそんな物を欲しがるのかと感心もした。そもそもこの子は両親を探しているものだと思っていたのだが。


「おじさん!当たり!緑はどうしても花火を打ち上げなきゃいけないの。だから……手伝って?」緑は両手を顔の前で合わせながら、必死に悠一へ頼み込む。


「あの……まずはおじさんって呼び方をだな……」と最低限の抵抗をしてみせるが、今にも泣きそうな顔で懇願されると従う以外の選択肢が見つからない。悠一は両手を挙げて降参のポーズを取りながら、両親も花火玉も探す事を約束した。




「おじさん!一つ目の屋台に行こう?」祭りに居る誰よりも元気な声で話し出す。


結局おじさんという呼び方を変更する事は叶わなかった。そもそもお兄さんからおじさんへの境界線はどこにあるのか、と考えていると緑は悠一の手を引っ張って屋台へと勢い良く走っていった。


「えっと……君は近くに住んでるの?」久々に走った悠一は少し息を切らしながら質問する。


近所ならまだ良いが、遠方から来たのであれば両親は物凄く探しているだろう。そうであれば祭り会場に併設されている、迷子センターのような場所に今すぐ向かった方が良い気もする。


「うーん……前は遠かったけど、最近はここら辺に居るよ?」緑は少しはぐらかすように答える。


なぞなぞの問題文のような回答ではあったが、少なくとも遠くから来たという様子では無いらしい。考え込んでいる間にどうやら目的の屋台へ着いたようだ。少し立ち止まって息を整える。


「兄ちゃん、元気だね。金、あるの?」射的と書かれた屋台から、店主が珍しそうに悠一へ声を掛けてきた。


どちらかというと元気なのは緑の方では無いのかと違和感を覚えた。ただ自覚出来ていないだけで、実は自分自身も祭りに来て浮かれているように見えるのかもしれない。


すると焦るように「手伝ってくれるんだから緑が払うよ!」と割って入ってきた。子供に払って貰うのでは色々と問題がありそうだが、制止をする前に店主とのやり取りは終わってしまったようだ。両親を見つけた後にこっそり支払っておけば問題無いだろう。


「なるほど……確かに君にこの重量は無理だ」射的用のライフルを構えながら悠一は続けて言う。「一度のチャレンジで当てれば良いのかな?」


それを聞いていた店主が小さく頷いた。屋台の射的と聞くと何度撃っても景品が倒れないイメージがあるが、今回は比較的小さめな的に当てるだけで良いらしい。


小説家になってからは運動どころか外出する事自体が皆無だったので、ライフルを構えるのも一苦労という状況であった。狙いを定めた後にパンッと花火のような乾いた銃声音が鳴り響くが、狙うべき的よりも大きく下へと発砲してしまった。


悪戯をした子供のようにクスクスと後ろで笑っている緑は一旦無視するとしよう。もう一度構えようとすると、支払いを再び終えた緑がこちらへ走ってくる。


「鉄砲重いんでしょ?緑が支えてあげるよ?お店の人がそれでも良いよって!」こちらを見上げながら緑は言った。


思っている以上にこの子は賢くて気が利くんだなと感心してしまう。それと同時に自分の力不足にほとほと呆れてしまう。約束をしたからには、子供相手と言えど、成果を挙げなくてはならない。


「それじゃあお願いしようかな、小さな狙撃手さん」悠一は上機嫌に言った。


緑が両手で持ち上げるように押さえると、ブレていた重心がピタッと吸盤のように安定した。身長を稼ぐ為の台まで店主に借りているのだから末恐ろしい。今度は2度乾いた音が鳴り響く。一度目は発砲時。そして二度目は的に当たった時の音だった。


「やったー!当たった!当たったよね!?」緑は飛び跳ねながら店主の元へと向かった。


数度やり取りがあった後に、野球ボールに似た大きさの花火玉を大事そうに抱えて戻ってくる。


「おいおい、あまり走るなよ。落としたら爆発するかもしれ……え?」少しからかってやろうと緑に目線を向けた悠一は固まった。


少女で遮られているはずの景色が透けて見えるのである。つまり透けているのは緑だった。こんな時に気の利いたジョークも思い浮かばない自分が怨めしい。


悠一の表情で全てに気づいたのか、諦めた顔で緑は話し出す。「びっくりしたよね。あのね、おじさん。緑はずっと前に死んでるの。パパとママと一緒に。花火を見に行くはずだった日に交通事故で」


その瞬間フラッシュバックしたかのように悠一は思い出す。三年ほど前に『トラックの飲酒運転に巻き込まれ一家全員死亡』という記事を読んだ事がある。様々なニュースサイトが取り上げていたので嫌でも記憶していた。


「けどね、あの世でずっと探しているのに全然会えないの。だからお盆にだけやっている『あの世のお祭り』で、三人で見るはずだった花火を緑が打ち上げたら会えるかなって……合図になるのかなって……」涙を浮かべながら震える声で緑は話す。


大人びていると勝手に解釈していたが、悠一に心配をかけないよう、気丈に振る舞っていただけであった。目の前に居るのは、か弱くて消えてしまいそうな少女だった。緑は既に数年前から親を探していたが見つからず、その結果思いついた苦肉の策が花火を打ち上げる事だったのだろう。


「会えるよ。会える」真っ直ぐと緑の目を見て悠一は続けて言う。「ただこれ以上隠し事は無しだ、知っている事は全部教えてくれ」


恐らく初めに全て話すと、不審がられて協力して貰えないと考えていたのだろう。用心深いのは緑らしいが、協力するには少し情報が足りない。今の悠一に分かっているのは、ここが現実世界では無いという事だけなのだから。


「うん……ごめんね。緑が知っているのは二つだけ。花火玉は三個必要なのと、お金じゃなくて魂で払わなきゃダメ……って事かな?」先程まで涙を浮かべていた表情はどこへ行ったのか、一転して少しワクワクしたような顔で悠一に伝える。


「魂で払っている影響で、君の身体は透けてきているって事かい?」次の屋台へ向かいながら悠一は聞いた。


本来であれば頭の心配をされそうな質問であったが、どうやらこの世界では魂で対価を払う手法が基本らしい。


そもそもあの世では空腹になる事が無いので、余程の事が無い限り魂で何かを購入する必要は無いそうだ。だが緑には確固たる目的があり、その名の通り身銭を切らなくてはならない。


「多分あと六回くらいで……あっ……着いた!次はクジ引きだよ?」周りとは対照的に閑散としている屋台に向かって、ピッと人差し指を向けながら緑は続けて言った。「緑は運が悪いから、おじさんが引いてね?」


残り六回でどうなってしまうのか、聞くまでもないという事実が悠一の心を締め付ける。もしかすると事故に遭った三年前から一人で花火を打ち上げようと画策していたのかもしれない。今にも消えてしまいそうな緑の姿がそれを物語っていた。


「僕の魂で支払う事は出来ないのか?」クジ引きの為に魂を払おうとする緑を制止しながら言う。


大人の自分であれば魂の器に比例して、使用できる回数も増えるのでは無いかと考えた結果だった。


「あのね。おじさんは死んでいないみたい。どうやってここに来たのかは不思議だけど。だから無理なんだ……」付け加えるように緑は話す。「肉体が無くなって、魂だけになった時じゃないと……」


この世界で支払いが出来るという事は『死んでいる事の証明』でもあった。少し前に店主が言った‘’元気だね‘’という言葉には、そういった意味が込められていたのだろう。


「五個のクジ引きに一個だけ当たりがあるんだって!それを引いたら景品が貰えるみたい!」支払いを終えた緑がやってきて伝える。


「君が支払っているんだ。僕がクジを引く訳にいかないよ。お金じゃなくて魂を削っているなら尚更だ」肩を竦めながら悠一は言った。


事情を知らなかった射的の時とは訳が違う。正真正銘、命を掛けている訳である。悠一は小説家では無くて、イカサマ師やマジシャンを目指すべきだったと後悔していた。


それは駄目だったの。と緑は首を振りながら答えた。「去年もその前も緑は何回もクジ引きをしたんだけどね、一回も当たりが出た事が無いの。だってそうだよね、運が良いんだったら事故の時に助かってるはずだもん……」


「そこまで言われると引くに引けないか……」クジは今から引くのにな、と付け加えそうになったが、ややこしくなりそうなので辞めた。こんなにもクジ引きで緊張したのは、小学生に祭りで引いた千円クジ以来だった。


五つある三角形の中から一枚だけを選ぶ。確率は二十%だが、緑の魂が掛かっているので運否天賦はなるべく避けたい。


横では当たりが透けて見えないか、様々な角度から緑がクジを観察している。どうやら自分が一番透けて見えているとは考えていないらしい。そんな緑を見ていると悠一は一つのアイディアをひらめいた。


「あのさ……もし君が当たりを四つ選ぶならどれにする?」


恐らくあの世では『死者=運が悪い』という認定がされている。そのため二年連続で緑は一度も当たりを引けていないのだろう。他の屋台に比べて閑古鳥が鳴いているのも、周りの客がそれを理解しているからという可能性が高い。


「えっと……真ん中以外を選ぶかな?去年は真ん中を三回選んで全部外れだったし……」カニのように両手をチョキにして、真ん中以外を四つ同時に指さしながら緑は言った。


「じゃあ悪いけど真ん中を選ぼうか」つまりこの世界では最高に運の悪い緑が、唯一外れだと避けたクジそのものが当たりという訳だ。


「え!凄い!当たりだ!初めて見た……」悠一によって開かれたクジを天に掲げながら緑は飛び跳ねた。その推進力を利用しながら店主の方へ花火玉を受け取りに行く。


「花火玉はあと一個で良いんだよな?」先程よりも透明感が増した緑を視界に入れながら聞いた。


うん!と元気よく頷きながら緑は答える。「残りは一個で大丈夫!そうしたらパパとママは気づいてくれるよね?」


そうだな。と目を伏せながら悠一は答えた。仮に気づいて貰えなかった場合に、この子はどうなってしまうのか。恐らく来年も再来年も、十年先になっても探し続けるだろう。


そんな事が容易に考えついてしまう。それはもう世間から見たられっきとした地縛霊なのだ。ただ、見つからなかった場合に『もう諦めよう。成仏するしかない』と言えるはずもない。


「最後は金魚すくい!緑もやった事無いけど……大丈夫だよね?」人気な屋台なのか少し混雑しているため、緑は大きな声で話す。


「金魚すくいなんて、子供の時にやったきりだな。十匹家に持ち帰ってばあちゃんを困らせた記憶がある」今までの屋台と比べると遥かに自信があった。どうやら銀色に輝く金魚を掬えば景品を手に入れられるらしい。


「はい、おじさん!この虫眼鏡みたいなやつで掬うみたいだよ?」片目で覗くようなジェスチャーをしながら緑が手渡してきた。


これはポイって言うんだよ。と説明しながらジェネレーションギャップを痛感する。今の若い子は一生発声する事の無い単語なのかもしれない。昔はモナカを使って金魚を掬ったりしたものだが。


ただ数十年ぶりの金魚すくいだからか、思っている以上に手こずってしまう。久々のスポーツのように身体が上手く動かないというよりも、上手く金魚を誘導する事が出来ないのである。


少し身体を動かすだけで、構えたポイから逃げていってしまう。無理なセットアップから掬おうと繰り返していたため、貼り付けてある紙が破けてしまった。


「破けちゃったね……?大丈夫だよ?また緑貰ってくるから!」そう言って躊躇いなく店主の元へと駆け出して行った。


戻ってきた緑を見ると、今にも消えてしまいそうなくらいには透明になっていた。緑よりも向こう側に居る人間がハッキリと確認出来てしまうほど。あと一度魂を支払うだけで完全に消えてしまう可能性すらあった。


そう考えてしまうと息が止まり、思考も停滞する。まさか自分の人生の山場が金魚すくいだとは夢にも思っていなかった。


それを見かねた緑は「頑張れー!絶対出来るよ!」と飛び跳ねながら背後で応援してくれている。


「すまないが静かにしないと金魚が……」その瞬間全てがスローモーションになる。滞っていた思考が流れるように動き出す。おかしくないか?何故飛び跳ねている緑に対して、金魚は何の反応も見せない?悠一が少し動くだけで逃げていく臆病な金魚が、だ。


「なあ……こっちに来てくれないか?」悠一は背後に居た緑に向けて声を掛ける。


首を傾げながらこちらへ向かってくるが、金魚は帆を失ったヨットのように動かない。試しに悠一が少し手を挙げると、蜘蛛の子を散らすが如く一斉に逃げ出した。


やはり間違い無い。まだ生きている人間は存在感が強すぎるのだ。そして魂を失い掛けている緑の存在感は、金魚にとって皆無なのだろう。


「そっか。緑はもう消えちゃいそうなんだね」まるで鏡でも見たかのように、金魚の反応で全てを察して言う。「でも良かった。簡単に掬えちゃいそう……」


そう言いながら悠一からポイを受け取る。今までの苦戦が嘘のように、緑は金魚を掬い取った。無理にこちらへ笑いかけてくれるが、上手く笑顔で返せない。


「間に合った……って事だよな?」何とか魂は全て使い切らず、花火玉を集めきる事が出来た。何よりもそれが救いだった。打ち上げた際の結果がどう転んでもだ。


「うん……良かった……本当にありがとうおじさん!」声を弾ませながら緑は続けて言う。「花火を打ち上げる場所があるから急ご!」悠一の手を引っ張って勢い良く走り出した。


どうやらこの世界では個人が好きに花火を打ち上げられるらしい。ただ悠一が目を覚ましてから一度も打ち上がった様子は無かった。恐らく運の悪い死者達が、クジ引きで景品を当てる可能性は皆無だからだと考える。


そもそも魂を支払ってまで、花火玉が欲しいというケース自体が稀なのかもしれない。そんな事を考えているうちに花火玉を設置する筒の前に着いた。


「じゃあ……花火玉を入れちゃうね?」真剣な顔をして緑はせっせと筒へ詰め込んだ。


希望と不安と焦燥の全てを放り込んだミキサーのような気持ちなのだろう。ぐちゃぐちゃに混ぜた後に出来上がった物体はどうなるのか。数分後には全てが判明しているに違いない。


「花火に火をつけるにはどうしたら……わっ!」筒から伸びていた導火線が、まるで意思を持っているかのように発火する。物凄くゆっくり燃え始めているので、筒への点火までは数分ほどありそうだ。


最後に怪我をしてしまったのでは元も子もないので、少し離れた場所から見守る事にする。もう僕達に出来るのは見守る事くらいしか無いのだから。


「おじさん……緑と一緒に花火玉を集めてくれてありがとう。なんだかお兄ちゃんが出来たみたいで嬉しかった……久し振りに楽しいって思ったの」こちらを向かず震えた声で話し出す。


その声を聞いただけで、三年間の孤独を知るのには十分だった。何も言わずに前を向いたまま緑の頭を撫でてやる。導火線に点いた炎は未だ半分ほどしか進んでいない。悠一にとっても人生で最も長い待機時間だと感じていた。


「本当はね、何年もパパとママに会えていないから諦めてるんだ……だって会えないなんておかしいもん……二人とも緑の事なんかどうでも良いのかな?死んじゃった緑になんか興味ないんだ……!」小さな顔には似つかない程の大粒の涙を流しながら緑は叫ぶ。


「一緒に花火を見ようね、って約束してたのに……!」今まで溜め込んでいた想いが、決壊するかのように言葉となって溢れ出す。


そんな事は絶対に無い、と言い掛けた瞬間『ひゅるひゅるひゅる』と心地の良い火薬の匂いと共に、大きな音が頭上で鳴り響いた。一瞬にして暗闇が脇役となり、光が主役へと成り代わる。


「あのね、緑は花火を見に行く日に死んじゃったから、今日初めて花火を見たんだ……綺麗だね……本当に綺麗なんだね」涙目の少女は上を向きながら続けて言う。「花火って水の中に咲いているお花みたい……」


その瞬間、三半規管がでんぐり返しを始めたかのような目眩に悠一は襲われた。目の前が段々と暗くなっていき、立っていられない。


恐らくこの世界で緑を手助けするという使命を終えたからだろう。そんな事を考えられる程度には冷静であった。何よりも緑が両親に会えるかどうかだけが心配である。


「え……おじさんどうしたの?あっ……え?もしかしてマ……」


視界が真っ暗に染まってしまう前に見えたのは、打ち上がる花火の光から伸びた三つの影だった。




悠一が目を覚ますと、転がり落ちたはずの階段に横たわっていた。不思議と時間は少しも進んでいないようだ。脱げたはずの靴も定位置の左足へ戻っている。あれだけの体験をしたからか、もう祭りに行く気は手品のように消えていた。


来た道をそのまま戻るように歩き出す。親子で歩いている少女を見ると少し安心する。緑は両親に会えたのだろうか。一期一会という言葉はあるが、次に悠一が緑に会えるのは自分の死後だろう。死んだ後の楽しみが一つ出来たな、と少し微笑む。


家に帰ってドアノブに手をかけると、相変わらず鍵は職務放棄をしている。普段なら嫌気が差すはずだが、非日常を味わってきた身としては、何も変わっていないということ自体がありがたい。


ぬるくなった飲みかけのコーヒーを一気に胃へと流し込み、仕事机へと向かう。そうだ、今度は少女が両親を探す物語を書こう。山の天気のようにコロコロと表情が変わる女の子が主人公だ。賢くて弱みを見せない、そして少しばかり泣き虫な。




(そうだな……タイトルは……『水中に咲く、その大輪』)

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水中に咲く、その大輪 SAIKAWA @saikawa_novel

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