第8話
何だか見覚えのある場所だった、住宅街の中にぽつんと存在していた寂れた公園で、遊具はベンチとシーソーという珍しい組み合わせだ。来たことがあれば、憶えているはずだけれど、どうしてだろう、もやもやしながらシーソーに座ると反対側のアオが言った。
「ここはさ、ミオちゃんと啓一くんが初めてゲームセンターに行って、その帰りに寄った公園だよ。憶えてる?」
「ああ、それで。何か来たことあるなーとは思っていたけれど、夜だから分からなかった」
ぎーこーぎーこー、僕らの位置が上へ下へと逆転を繰り返す。シーソーは哀愁を感じさせる音を鳴らしながら、ししおどしみたいに動いていた。何でもない顔でアオは、シーソーに跨っているけれど、彼女は武村博士を奈々子の家に残して出てきたばかりだ、僕は気になって尋ねる。「どうしてここに? 武村博士には、分かんないだろ」
その言葉には、この場所を認知しているかどうか以外にも、彼女が追いかけてこないかもしれない、そういう不安を込めていた。けれどアオは、うーんと唸ってそれから答える。
「来るよ、きっと。お母さんは、私のお母さんだからさ。ここ、似てるんだ」
「似てるって、どこに?」
「忘れちゃったの、この前、地元に帰ったときに寄った公園だよ」
「ああ、なるほど……博士、憶えてるかな」
「大丈夫、私は信じてる。ああ見えてもお母さんは、不器用なだけで本当はすっごく優しい人だからさ」
「へえ、僕にはそう見えなかったけれど、どこら辺が優しいのさ?」
「お小遣いいっぱいくれるところ!」
すげえ最低な理由だった。
「冗談だよ。本当のこと言うとお母さんってば研究ばっかりしてたから、よく分かんないんだ……でもね、昔お父さんからさ、お母さんが子供だった頃の話聞いて、優しい人なんだって思った」
「子供の頃の話?」
「うん。お母さんのお母さん、私は会ったことがないけど、働き過ぎて過労死しちゃったんだって。それ以来、必死になって勉強して、良い大学に入って、その研究所で人の代わりに働くロボット、産業アンドロイドの開発を目指したらしいよ。お父さんとは、そこで出会ったらしいんだけど、お母さんってば相当な変わり者だったみたい。そうだ、聞いてよ」
それからアオは、楽しそうに武村博士のことを話し出す、僕もまたそれに相槌を打って、やがて腕時計の短針が零時を回るまで二人で話し続けた。一段落ついて、吸い込まれそうなアオの飴色の瞳に僕は言う。
「お母さんのこと好きなんだな」
「うん、好きだよ。とてもとても、ね」
「……僕は、アオのことが好きだよ」
「何それーっ、五年越しの告白?」
「どうだろうね、そうかもしれない」
「あーあ、ミオちゃんも聞いてるのにー」
「マジかよ、困ったなあ」
そして僕は、笑った。
そして彼女も、笑った。
その笑い声が、僕らの間に流れていた空気の色を変えたような気がして、ほんの少し、卑怯だったかもしれないけれど、あの日のことを、僕が見捨ててしまった日のことを話し出そうとすると、アオが静かにシーソーから降りて先に口を開いた。
「ありがとうね、啓一くん。まだ言えてなかったから」
「突然だな、何の話?」
「中学校で、私のこと警備アンドロイドから守ってくれたから」
「あれはまあ、体が勝手に動いただけ」
「かっこよかったよ。助けてって言わなくても助けてくれるなんてさ」
「……あのさ、僕さ」
「気にしなくていい」きっぱりと言って、アオが僕を見る。
「あの日のことは、私だって悪いから。啓一くんに助けてって言わなかったし、ううん、それだけじゃない。お母さんにだって助けてって言わなかった……それにさ」
もしそうだとしても、僕はアオに謝らなければ気が済まなかった。それなのに彼女は、真っすぐな目で、澄んだ声で、夜の闇を貫くようにはっきりと、続ける。
「もう助けてもらったよ、五年越しに私を助けてくれた。だから啓一くんはさ」
「……うん」
「昔の自分に胸を張って生きていいんだよ」
きっと僕は、武村博士と同じように縛られていたのだろうと思う。アオを見捨ててしまった罪悪感があったからこうして傍にいられただけで、何もなければ武村博士の言動に腹を立てることがあっただろうか。その自問自答に答えが出せないくらい、僕にとって武村博士の心情は共感できてしまうものだった。
そんな僕が彼女に放った言葉は、本当のところ自分に対して向けていたのかもしれない。
「ありがとう」
だから僕は、アオが言ってくれたその一言に、救われた気がした。
「アオイ……ここに、いた、のか」
そして、乱れた呼吸と途切れ途切れに紡がれた声が、僕らの空気に混ざる。
公園の入り口、そこで肩で息をするように立っていたのは、
「お母さん……ちょ、ちょっと」
武村博士、彼女は、迷うことなく踏み出した一歩を数回重ねてアオの前に立つと、何も言わずその身体を抱きしめる。二人の時間、どうやら僕の出番は、もうないらしい。その濃密な空気を前にして僕は、親子に背を向けてシーソーに座り直した。
「ずっと、気にしていたんだ……アオイが虐められていることにどうして気が付けなかったのだろうって。研究なんか放っておいて、アオイとの時間を大切にすべきだったんじゃないかって……馬鹿みたいだ」
「そんなこと、ないよ」
「……我慢しなくていい、アオイ。お母さんはね、さっきだってアオイに酷いことをしてしまった。きっと、五年前も自分では気が付かなかっただけで、たくさん嫌な思いをさせてしまったはずだから、嫌なことを嫌だと言えない、そんな環境を作ってしまったのは、私だから、だから……」
「お母さん」
言ってアオイは、言葉に詰まったのかもしれない。暫く沈黙があった。
「変わらないんだね」
くすっと、アオが笑って、
「一生懸命になると、早口になるところも、一度思い込んだら、深く考えこんじゃうところも、少しネガティブなところも、全部、変わらないん、だね」
「アオイ……」
「でも、変わってなくて、安心した……ほん、とうに、良かった……ねえ、お母さん。私の居場所。答えはもう分かってる、よね……?」
「ああ……でも、それでも、私は、アオイと」
「ううん、駄目だよ。答え、聞かせて」
アオの本当の居場所、ここじゃない何処か。
それは、ずっとずっと、遠い場所で。
それは、何よりも、近い場所で。
武村博士は、長い、長い時間、きっと自分の気持ちを押し殺していたのだろう、黙り込んで、そして言った。
「私の……心の中、だ」
それは、この世界にたった一つしかない、アオだけの居場所。
「うん、正解だよ。よく、言えました」
「ああ……ああ、ごめんよ、アオイ」
鼻を鳴らした武村博士に、アオはきっと微笑みを返して、その身体を抱きしめた。
そうであって欲しいと、僕は空を見上げて思った。
暫くして、恐らく一段落着いたのだろう、思い出したようにアオが呟く。
「そういえばお母さん、お父さんと離婚したんだって?」
「どうしてそれを……?」
「お父さんと電話して聞いたから。アオイブックの研究のために東京に行くって言って、迷惑かけたら悪いからと何とか、とりあえず、すっごく一方的に別れを告げられたって。何でそんなことしたの? ああ、もちろん、お父さんがどんな気持ちで五年間過ごしていたかとか、ちゃんと想像した上でそういうことしたんだよね?」
「それは、その……し、仕方がなかったというか」
「仕方ない? それってさ、答えになってなくない? 質問の仕方が悪かったのかな、ごめんね。具体的にどうしてお父さんのことおいて行ったのかな……? ねえ、お母さん、何で私から一歩後ずさっていくの……?」
背後で行われている尋問、僕は、その凄まじい圧を感じながらやはり二人は親子なのだと、再度空を見上げて思った。
というかなるほど、だからあの時、アオは職員室で父親の電話番号を。
僕は、武村博士と旦那さんがもう一度縁を戻してくれるといいなと、密かに願った。
※
凡そ十六年間に渡る僕の人生において特にこの一年は、高く険しい壁の連続であり、その忙しさと言えば慎ましやかにぶよぶよを遊んでいたぼっち時代とは、天と地ほどの差があった。けれど、そんな夜眠る時でさえ心病まざるを得ない毎日も、終わりが近づいてくると何だかあっという間だったというか、夏休みが終わる頃の心境に近いものを感じるなあ。そう思って、安堵の息というよりかは心労の溜息を吐き出すと、シーソーに座り込み丸くなっていたであろう僕の哀愁漂う背中にアオが言った。
「啓一くん……ここからが本番だよ」
「ああ、任せろよ。親子水入らずの時間が始まるってことだろ、僕は大人しく家で眠るさ」
特に意味もなくハードボイルドな感じで答えて僕は、立ち上がる。そうして振り返ると、アオは、きょとんとした顔で首を傾げていた。
「何言ってるの? 啓一くんがやらなければならないことは、まだあるんだよ?」
やらなければならないこと、僕は考えて、けれどまるで見当もつかないな。武村博士を説得したあとは、アップデートを停止してもらいミオが帰ってくるのを待つだけではないのだろうか。「アオイ、彼は計画のことを全て知っているわけじゃないんだ」
「え、ああ、そっか。私はミオちゃんと心を共有しているから、知ってるだけだったね」
アオは、武村博士の言葉に気付きを得たように頷いて、悩んでいるのか表情を二、三回歪める。きっと言い辛いことなんだ、何んとなしに察して身構えた僕だけれど、「加藤君」アオの代わりに続けたのは、武村博士だった。
「今の私としては、アオイや君の意思を尊重したいと思っているがね。しかし実際問題、救出すべき対象が助けられることを望んでいないとき、我々は、どちらの意思を尊重すべきなのだろうか。それは牢獄にとらわれた小鳥を――」
「ああ、ちょっとちょっと、分かりにくくしないでよお母さんっ!」
話が抽象的なたとえに転がりだしたタイミングで、アオがそれを窘める。何だかよく分かっていないという僕の意思をそのままに伝えると、彼女は困ったように、「うーんと、お母さんが言いたかったことは、まあ結構そのままなんだけどさ、私たちはミオちゃんのことを助けたいけど、ミオちゃん自身は、助けられたいとは思っていないってこと」そこで一度、言葉を溜めて続ける。
「ミオちゃんはさ、消えたいんだよ。だから私が消えるだけじゃ、何の解決にもならない」
どうして、そんな僕の当然の返しに、しかしアオは、首を横に振る。大事なことは本人にしか分からないのだと、アオからは答える意思がないことを伝えられ、さらには、一度そのことについてミオと直接話し合うべきだと強く押されてしまった。
けれど、そんなことを言われたってミオの人格は、アオの人格プログラムの裏に隠されているのだ。僕には、どうしたって干渉できないように思える。
「大丈夫だよ、ミオちゃんの人格はさ、私の人格エラーに備えて同時に起動してはいるから、メインである私がシステムエラーを起こせば、一時的ではあるけど強制的に表に出せるよ」
「エラー? エラーってそんな簡単に起こせるものなの?」
以前、ミオがマンションの前で充電切れを起こしたことがあったけれど、そんなことをしたらそもそも、起動さえできなくなってしまうだろうし、エラーだなんてどうやって起こすのだろう。「あれ、充電切れなんかじゃないよ」
「あれはさ、啓一くんによって引き起こされた明らかなエラーなんだよ」
「僕が起こした……?」
「うん。あの日、あの時、啓一くんとミオちゃんの間には、アオイブックのプログラムでさえ処理できない感情が芽生えていたの……その気持ちをもう一度、引き起こせばいい」
だから目を閉じて、とアオが言う。
その言葉に従って、瞼を下ろすと彼女の気配がゆっくりと近づいてきて、そして、
「アオ……?」
僕の唇に触れた柔らかい感触。目を閉じていたせいで、それが何だったのかを僕が知ることはできなかったけれど、アオは自らの唇に人差し指を当てて、いたずらっぽく微笑んでいた。
「今のはね、君がしてくれた五年越しの告白に対する返事だよ。私も、さ……」
言葉半ばにアオの身体がふらついて、そうして僕の方へと倒れ込む。人一人分よりも僅かに重くて冷たい機械の身体、瞼が閉じられる直前に、彼女が呟くように言った。
「気に、なってた、よ」
「アオ……? なあ、アオ? どうしたんだよ、アオ……アオ!」
彼女を抱きかかえて、その体を必死に揺らすも石になってしまったかのように動かない。一体全体何が起きたのだろう、混乱して額に汗が浮かび始め、次第に手足がゆっくりと、抑えられない震えに支配される。「安心したまえよ、加藤君」
「アオイの人格は、一時的に感情を処理しきれず破損してしまっただけさ。一日経てばシステムの自動修復によって再起動するはずだ」
「何が起きたんですか……アオに」
ふうむ、と小さく唸って武村博士は言う。
「青春とは、幾つもの矛盾を孕む季節さ」
「……」
「……」
「あの、よく分からないんですけれど」
「恋愛感情は、複雑で矛盾ばかり孕んでいるということだ。まだAIとしては未熟なアオイブックが処理しきれず、エラーを起こしたとしても無理のない話だ」
すっげえ分かり易くなった。いや、今はそんなことに驚いている場合じゃないな、けれど、何にリアクションすべきなのだろう。駄目だ、僕は駄目駄目だ、混乱して何も考えられない。
「そうだな、キメ顔でアドバイスするのはアオの役割なのだろうけれど、今はその額についたカチューシャに注目するべきだろうよ」
「カチューシャ……? あ」
橙色のカチューシャは、アップデート中。
青はアップデート完了後。
今、アオの額を飾っていたカチューシャの輝きは、徐々に、徐々に、その橙色は果実が熟れていくように、
――やがて真っ赤に染まって、それから閉ざされていた瞼がゆっくりと開いた。
「ミオ……って何するんだ!」
飴色の瞳に僕が映った瞬間、彼女は僕を突き飛ばし、そのまま立ち上がろうとする。しかし、その足元は酷くふらつき不安定だった、彼女の身体に何が起きているのだろうか。こちらに背を向け、ふらふらと歩き出した彼女を呆然と僕が眺めていると、
「何をしているんだ、はやく彼女を追いかけろっ!」
はっとして我に返った、そうだ、僕は彼女を追いかけて話を聞かなければならない。強く一歩を踏み出して、その肩に触れようと手を伸ばすもミオが逃れるように足を速める。それから彼女も僕も徐々に加速して、ついに全力疾走で追う側と追われる側に。
いいや、時々ミオが躓きかけている辺り、あちらは本調子ではなさそうだ。
とは言え。
くそっ、どういうわけか文化祭から今日にかけて僕は、女の子を後ろから追いかけてばかりな気がする。そんな趣味も性癖も持ち合わせちゃいないのに、これじゃあ勘違いされてしまっても言い訳ができない。しかしまあ、幸いなことにこの時間帯は人の気配がないに等しい。どれだけ騒がれようと、どこへ逃げられようと、遠慮なく追い回せる。
ふっ、泣けよ喚けよ、それでも僕の勝ちは揺るがないぜ。
「……」
犯罪者の思考だった。
それでもまあ、人が少ないことは僕にとって好都合であることに変わりない。住宅街を抜けて、街へ入り込んだ僕たちだったけれど、雑踏の中で彼女を見失うなんてことが起きなかったからだ。けれど、彼女はアンドロイドで僕は人間、このまま持久走に持ち込まれるとやがて離されてしまうだろう。何か策はないか、一定のペースで息継ぎをしながら僕は考える。走って、考えて、走って、考えて、僕は街中に入ってからというもの彼女が同じルートをぐるぐると回っていることに気が付いた。それを利用しない手はないな。
直線を走り続けてビル沿いの十字路で右に折れたタイミング、その路地裏に僕は入り込む。この隙に激しく音を立てていた心臓と呼吸を落ち着かせ、しかし全力で数百メートルを走り続けた運動は、容赦なく僕の全身に乳酸を蓄積させている。身体の限界が近い、僕の運動不足を対策しやがったなミオ、そんなありえもしない策略にヘイトを向けることはさておいて、まだ頭が回っている内に次の策を考えなければ。
「……これに掛けるしかない」
それから数分ほどして、十字路の角を右に折れようとしたミオが現れたのを見計らい、路上に僕が姿を見せる。そこでようやく僕は、彼女と対峙した。
「待てよ……ミオ」
言って、僕は余裕そうな笑みを見せておく。そんな僕に返ってきたのは、ぎろりとした蛇睨みだった。お互い見合って、けれどその距離を詰めようとはしない、警戒されているな、僕が一歩でも動き出せば彼女も走り出すだろう。
ここは、十字路だ。
彼女が走り出すとすれば、右の横断歩道を渡るか、正面の横断歩道あるいは、来た道を戻る、その三択なのだろうけれど、彼女には僕が逆走してきたように見えているはずだから、同じ手は喰らわないように動くとして実質二択だろう。
幸いだ、運が僕に味方していると言っていい。
人が少ないこの時間帯に関わらず、ぎりぎり信号機が機能している。
僕は、右手の横断歩道が赤信号に変わったタイミングを見計らって、アスファルトを蹴って駆け出した。信号無視をされてしまう可能性もあったが、どうやら彼女はこんなときでさえ交通ルールを守る遵法精神を備えていたらしい。
僕の予想通り、というよりかは狙い通り、身を翻した彼女は正面の横断歩道を渡って一直線に走り出してくれた。そこから先は、全力で喰らいつくだけだ、この数メートルの距離を維持しながら死に物狂いで追いかける。
だから僕は、走った。
アスファルトを蹴る衝撃が、スニーカーを貫通して足の裏全体に響く。
ふくらはぎの裏も、筋肉が腫れて痺れたように感覚が失われてきた。
けれど僕は、走った。
自分の呼吸音がすっとどこかへ消え去ってしまっても。
世界の音が聞こえなくなってしまうほど、真っすぐに。
ミオの後姿を追い続けて、ようやく。
ようやくだ、僕のゴールが見えてきた。
足場がアスファルトから、砂地に変わる。
目前に広がるのは、向こう岸にある東京のビル群と真っ黒闇を落としたような海だ。
お互いに足を取られながら、それでも逃げ続ける彼女を追って、僕らは船着き場の最も奥まで辿り着き、もう道はない。小型船の貸し出しも既に終わっている。
チェックメイト、僕の勝ち。
そのはずだった。
「ミオ……なに、やってんだよ」
勝利を確信した僕だったけれど、そんな僕とは違って彼女は迷わず小型船に乗り込んだ。おいおい何をするつもりだよ、それは凡そ焦って発した言葉ではなく、彼女の往生際の悪さに漏れた言葉だったのだが、しかし次の瞬間、決して動かないはずの船がそのエンジンを駆動させたのだ。一瞬、呆けてしまった僕は、すぐに我に返って、
「ハッキングしたのか!」
思わず叫んでしまった。エンジンを吹かせた小型船は、そのままぐんぐんと速度を上げて、船着き場を離れていく。
どうする? いや、考えている暇などどこにもなかった。
僕は助走を付けて、今までで一番強く大地を蹴り、白い線などどこにもない踏切線を全力で跳んだ。
「届けっ!」
小型船と船着き場の距離は、目測四メートルほどだろうか。若干高い足場のことも考えれば、無理というほどのことでもない。それでも地面と身体が離れている間、僕の心臓は、あらゆる方向から風圧を受けているかのように震えていた。
ガタンと、船体が大きく揺れてそこで僕から自然と、安堵の息ならぬ、安堵の乾いた笑いが漏れた。無事に小型船へ乗り込んだのだ、これでミオを追い詰めたそう思って顔を上げると、またしてもそれは僕の錯覚だったらしい。
「それ以上、近づかないで」
青白く迸る電光、ミオは自身のカチューシャをスタンガンに変形させ、運転席から船尾まで、約二メートル先に立つ僕を鋭い眼光で睨みつけている。けれど、どうして僕をここまで拒絶するのだろうか、彼女に危害を加えようとしているわけじゃない。そのことは、アオの裏でミオも聞いていたはずなのに。「落ち着けよ……僕は、話がしたいだけだ」
自分で言っておいてなんだけれど、警察官が人質を宥めるときに使うような常套句、誰が信じるのだろうか。しかし、今は彼女を落ち着かせる以外に方法がないのも事実だった。
僕は、続ける。
「ミオ、どうして逃げるの?」
「あなたには、関係ない。もう関わらないで」
ちくりと胸が痛む言葉、彼女は唇を噛み締めて震えた声でそう言った。
「……あのさ、何か悩んでるんだったら話して欲しい」
言いながら、さりげなく一歩を詰める僕だったけれど、しかしミオは、それを見逃さず殊更に自らの領域を主張するように電光を強める。身の毛もよだつような恐ろしい、電圧の音が僕の耳元を走り抜け、思わず動かそうとしていた足を止めてしまった。
「あなたに話したところでどうしようもないの、お願いだから、このまま私を消しなさい」
「話してみなきゃ分からない、だからミオ」
「分かるわ、無駄よ。全部無駄なの……!」
分からなかった、彼女がどうして僕を拒絶するのか。言ってくれれば、話してくれれば、何か力になれるかもしれないのに、助けたいのに助けを求めてくれない。それだけじゃない、彼女の言葉の全てが僕の身体に突き刺さって、もどかしい。そのもどかしさが、胸の中をざわつかせ、焦燥を煽る。
「帰ってよ……加藤君」
突き付けられた距離感に心が痛み、言葉が僕の胸を抉る。
抉られて、抉られて、そうして広がった空に、しかし、どこからか沸き出してきた感情が流れ込む。その感情を表現する言葉が見当たらない、訳が分からなくなって、次第に僕の視界がぐにゃりと歪み始める。
何なんだよ、やがてその感情が僕を支配して言葉になって、
「話してみないと分かんねえだろうが!」
気が付けば僕は、心のままに叫んでいた。
びくっと、ミオの身体が小さく跳ねたことにも構わず僕は続ける。
「何なんだよ……関係ないとか、関わらないでとか、話したところで無駄だとか、そんなの、そんなのさ……」
言いながら僕は、自分の中にある感情の正体に気が付いて、しかし、それが彼女の一体何に向けられているのかが分からず、言葉に詰まってしまう。まとまらない、どうしたって固まってくれない粘土をこね続けるみたいに、無駄な思考を繰り返し、とうとう僕は、黙り込んでしまった。
分からない、分からないんだ。
僕は、彼女の一体何に対して怒っているのか。
それでも、身体の内側には、沸騰した感情が次々に溢れ出してくる。
「近づかないで!」
一歩踏み出して、考える。分からなくて、分からないままに僕は足を動かす。
放たれる電圧音も、揺れる青白い電光も、何も怖くない。
この、訳の分からない怒りが自分の中で爆発してしまうよりかは、マシだった。
構わず足を踏み出したそのとき、迸った電光が僕の左腕、その手首につけられていた腕時計に直撃する。感電だ、しかし幸運なことに僕の身体には蒸発や発火などの要因となる火薬物が存在していなかったのだろう、衝撃が襲ってくることはなかった。
そう思っている矢先、
「ぐっ!」
遅れてやってきた熱と刺されたような痛み、金属の腕時計が熱を吸収した結果、接触している皮膚が焼けてしまったかもしれない。酷い匂いだ、気を抜けば涙が瞳から溢れ出してしまいそうなのを堪えて僕は、もう一歩、ミオとの距離を詰める。彼女は、泣きそうな目で僕を見て、やがてその手からスタンガンを滑り落とすように手放した。
「何で……なの」
最後の一歩を踏みしめて、そして僕は、彼女を抱きしめた。
「……何かあったのなら話してよ、僕が力になるからさ」
抱きしめて、僕はこの気持ちが怒りではなかったことを理解する。
「……信じて、いい、の?」
「うん」
これは僕の、言葉を信じてもらえない寂しさだった。
だから僕は行動で、一層強く、震える彼女を抱きしめた。
「加藤君、私は……」
「うん」
「私は、ほんの少し前まで、人間だった」
※
武村ミオ。世界初の心をもったアンドロイドにして女子高生である彼女は、学校のテストで満点を取った上に、体育の時間では世界記録を軽く塗り替えてしまうなど、凡そ人間とはかけ離れたことを成し遂げながらも、どこか人間らしい振る舞いに教室の誰もが、その存在を親しく思っていた。それは、隣の席でただ彼女のことを見守っていたに過ぎない僕でさえ同じくだ。
そんな彼女には別の人生があった、別の暮らしがあった。
武村ミオ、またの名を安藤美緒、彼女は元人間。
「私の人生が変わってしまったのは、変わり果ててしまったのは、二年前の交通事故」
自らの不注意により自動運転大型トラックと衝突した彼女は、即死ではなかったものの瀕死の重体となり、そして目が覚めると、
「別の存在、アンドロイドになっていたの」
彼女は、死にかけて、死を目前にして、生きたままアンドロイドになった。
それこそが武村博士の本来の計画、アオイブックの全て。
生きている人間の意識を機械の身体へ移し替えること。それすなわち、不老不死の身体を手に入れるための実験であり、アオイを復元した人格自動生成プログラムは、その機能の一部でしかなかった。
「武村博士がアオイさんを取り戻すためには、莫大な資金が必要だった。だからこの、不老不死を可能にする実験を餌にして、多くの権力者から資金援助を募ったのよ。その実験サンプルに選ばれたのが、偶然にも死を待つのみだった私というわけ」
レインボーブリッジの下、僕らが互いの本性を知ったこの場所で、ミオは向こう岸のビル群を眺めながら真実を話してくれた。聞き終えて僕は、返す言葉が見つからず、どこか空虚で物憂げな、見惚れてしまうほどに美しいその横顔を見つめることしかできないでいる。
けれど、その容姿も、何もかも、
「想像できるかしら? 目が覚めたら、機械の身体になっていた気持ちを。こうして、誰かの身体に触れたって何も感じないのよ……食事だって、空気の味だって恋しいわね、その度に私は、もう人間じゃないんだって思い知らされるんだもの。でも、まだそれは良い方よ、一番私を傷つけたのは、鏡に映る自分の姿が、他人の、アオイさんの姿だったこと……それが、私にとって……最も辛いことだった」
初めて誰かに打ち明けたのだろうか、ミオは僕の手を握って、淡々と、しかし、言葉を止めることなく紡ぎ続ける。
「初めはそれに抗おうとして、けれど、今まで仲が良かったはずの人もみんな、誰一人として私が安藤美緒であるということに気が付かなかった。たとえ私のことをミオと呼んでくれたとしても、それは本当の私に対して向けられたものじゃないの。どう足掻いたってそれを変えることは出来なかった。次第に私は抗うことをやめて、現実を受け入れようとも思ったわ……でもね、十六年も生きてきた私にとって、思っていたほどそれは簡単なことじゃなかった。本当の自分が消えていく感覚を、存在が透明になっていく感覚を、こんなの本来は死人が見るべき世界を生きながらに味わっているようなもの……私は、本当の意味で孤独に苛まれていった」
孤独、それは文字通りの独りだった。僕なんかが自虐して言うのとは訳もレベルも違う、社会全体が、個人個人が、彼女を別の存在として認識しているのだ。ましてや別の存在として振る舞うほどに、本当の自分が過去になっていき存在が薄弱となってしまう、ミオという名で呼ばれても、それは安藤美緒に対してではなく偽りの自分に向けられたもの、そんな孤独に蝕まれながら彼女は生きていた。アンドロイドとなって。
「ねえ、加藤君。聞いてもいいかしら」
彼女は、僕を見て言う。
「あなたは、何をもってして自分のことを加藤啓一だと証明するの?」
「僕が、僕であることを証明……?」
「いいわ、言わなくていい。私は、その答えを知っているもの。充分すぎるほどに理解している。加藤啓一が加藤啓一であることは、周囲の人間があなたのことをそう呼ぶからよ。これが存在証明の全て、あなたが孤独ではない証拠」
「…………」
「私はもう、色々なことに疲れた。流れて行ってしまう現実に抗うことにも、過去にしがみつきながら生きることにも、死んだように疲れ果てている自分にも、嫌というほど絶望している。だからもういっそ、消えてしまいたいと、そう思って武村博士の計画に協力したの」
言って乾いた笑みを漏らした彼女に、無意識に僕は、反射と言っていい速度で呟き返す。それはきっと、直情的に零れた言葉だった。「それでも僕は、ミオに生きて欲しい」
「こんな絶望を味わい続けろ、と? あなたって鬼なのね」
「ミオほどじゃないけどね」
「そう……でも嫌よ、お断り。これ以上生きたって、私の人生には絶望しか待っていないって分かっているもの、アンドロイドとして生きた二年間で分かり切っているんだもの」
ミオの深い絶望の言葉は、きっと本人の意識していなかったところで僕の心を刺激した。アンドロイドとして生きた二年間、その期間に僕と過ごした日々が含まれているのだとしたら、僕と過ごした時間全てが苦痛以外の何ものでもなかったのだとしたら、そんな不安が脳裏によぎって、その一瞬は、僕の思考を黒い色で支配していく。気が付けば、それに抗うように僕は尋ねていた。「僕と過ごした時間も、絶望だったのか?」これは僕の希望的観測がもたらした視覚への作用だろうか、ミオの瞬きが一つ多くなったように見えた。
「七月のことよ、あなたは憶えているかしら。私がプレゼントを渡しに行った日のこと」
「憶えているよ……その腕時計は、まあ……修理しなければならなくなったけれど。いいよ、火傷のことは気にしないでいい」
左腕の手首、僕の言葉に反応してその傷跡を見たのが堪えたのだろう。ごめんなさい、とそれ以上の言葉に詰まったミオへ僕は、話を続けるよう促した。
「……あの日、私たちが会った女性は――」
彼女は、何かを振り絞るように息を吸って、そして言った。
――私の母親、だった人。
「……気付いてもらおうだなんて思ってはいなかった。けれど、心の何処かでは希望を抱いていたのでしょうね、微塵も気が付かなかった彼女の様子に、私は酷く傷ついた」
「……」
「十六年も一緒にいたのにね。私はあの人に産んでもらったはずなのにね」
想像して欲しい、と力なく彼女は続ける。
「朝起きて最初に会うのがお母さん、弁当箱に具材を詰めるその後ろ姿に私は、何も考えずにおはようって言うの。そうしたら早く支度しなさいって、私が夜の内に全部済ませていること知っているくせに毎回そう答えるのよ。私のことなんて見ているようで見ていない、そう思っていたら、学校で嫌なことがあった日には誰よりも先に私の変化に気が付いて声を掛けて来るような人で、けれど楽観的なあのお母さんと私は思考が合わないから、いつもケンカになるの……それで……それで」
「うん、それで?」
「それ、で、何があったのか話すまでしつこい、から、結局、私が折れて、全部打ち明けるの。そこでも、大体ひと悶着あって、けれど最後には、二人で、甘いものを食べ、て、仲直りして、勉強だってあるのに、そのあとは、お母さんが好きな漫才番組を、見るのに付き合わされて、くだらないのに、何だか笑えてきて、不思議と、ここが私の居場所なんだって、そう、思えて、そんな時間を重ねてきたはず、なのにね。あんなに、愛してくれていたはずなのに、ね……もっと、話したいことも、相談したいことも、あったのにね。あの日だって、本当なら……相談したいことがあったのに」
機械の瞳から涙が流れるようなことはない、けれど彼女の表情が苦しそうに歪むのを、悔しそうに震えるのを、僕は放っておけず静かに抱き寄せる。「何か、あったんだな」
――僕でよければ、聞かせて欲しい。僕は言った、ミオのことで知りたくないことなんて何もなかったから。
「わ、私は……い、虐めていたのよ。クラスメイトを。保身に走るつもりはないけれど、好きでやっていたんじゃなくて、強要されて従った。やり返されるのが怖かったのもある、けれどそれだけじゃないわ、私は学級委員で、優等生を演じ続けるために、教室で問題ごとを起こしたくなくて……それで」
「うん、それで?」
「あなたが想像しているよりも、ずっと酷いことを、その子にしてきた……それで」
――最後、その子が自殺して、全部が終わった。
虐めのリーダー格だった人物が学校からいなくなって、何事もなかったみたいに授業が再開して、ミオは優等生を演じ続けた。表のミオを見せ続けていた。
それは、彼女が望んでいた結末だったけれど、
「全てが嫌になったの、何もかもが。死んでしまおうとも思ったけれど、直前で思いとどまった。お母さんに相談すれば、この気持ちを何とかしてくれるんじゃないかって、最低だけれど、そう思ったから……だけれど」
その日の放課後、学校の帰り道で彼女は事故に遭う。
罪が自分に跳ね返ってきたのだと、彼女は、そう思ったそうだ。
「今の絶望も、きっとあの日の罪を償うため……私の死によってでしか、この苦しみからは、逃れられないわ」
こんなことが罪滅ぼしになるのかどうか、分からなかったけれど僕は言う。
「ミオは、奈々子先輩のことを助けたじゃないか。それで、少しくらいは」
「決して消えたりはしない。私がしたことを、全ての人が忘れたとしても、私だけはそれを忘れたりしない。それに奈々子さんを助けようと言い出したのは、私じゃないわ」
「……だったら誰が」
「アオイさんよ。私の心の中にいた彼女が、そうするように言ったの。あの時だけじゃない、ゲームセンターで親子を見かけたときだって、私が、父親の誕生日プレゼントを渡しに行こうと思ったきっかけだって、全部……全部」
全て、アオイが背中を押してくれた。
きっとそれは、あの真っすぐな目と言葉で。
「私なんかよりも、あの子が生きていた方がずっといい……あなたもそう思う、でしょう?」
その問いかけに、僕は口ごもった。だってそれは、
「卑怯だよ、お前の言い方は卑怯だ」
「何が」
「だってミオは、知ってるはずだろ」
僕がアオを見捨ててしまった過去を。
僕に善悪の決定権があるのだとすれば、アオを贔屓してしまう理由を。
アオへの罪悪感が、火傷のように残っていることを彼女は知っているはずだった。アオ越しに聞いていたのだとしたら、間違いなく。
そのことを思い出したのか次に黙り込むのは、ミオの番だった。
話を聞きながら、ずっと考えていたことをようやく僕は、自分の中でまとめて言葉にする。
「ミオが死ななきゃならないなら、僕も死ななきゃならない」
目を大きく見開いてミオがこちらを見る、その視線がどうしてそうなるのだと訴えかけてきていたが、構わず僕は続ける。「でも、僕は死なないよ」
「死なないけれど、ミオと同じ罪を背負っていることに変わりはないよ。誰かを見捨てた罪をきっと死ぬまで背負い続けるんだと僕は思う」
「……あなたの罪と私の罪は、同じじゃない」
「同じじゃないなんて、僕でもないくせに何で言えるんだよ? 言っておくけれど、僕にだって死にたいくらい辛かった時期もあった。というか、アオと再会して死にたくなったこともあった……人間、一番辛かったことは中々忘れないんだなって思い知らされたよ」
辛いこともいつか忘れるさ、とは言い切れない僕のネガティブな言い回し。そんな自分らしい言葉がこの状況で出てきたことに多少驚きつつ、けれど、言葉を探すようなミオの表情の中に彼女の気持ちの解き方、心の結び目を探す。
「それでも人間は、同じ熱量で記憶し続けられない。だからまだ救いがあるかもしれない」
「アンドロイドなら記憶し続けるって? だったら、アンドロイドなら博士に頼んで記憶とか消せるんじゃないの?」
「そんなことできるわけないでしょ……」
「分からないだろ、今は出来なくてもいつかできるようになるかもしれない。僕らが思っているよりもずっと、世の中はさ、変わり続けてるんだぜ」
時間の経過は、変化と変質の連続で成り立っている、そのことを僕は、遠い田舎町を思い出しながらミオに言った。それから僕は、ほんの少しだけ、捲し立てるように続ける。
「それでも忘れたくないって言うんなら、それはミオが死ぬ理由には、なってないよ」
気取った風にそう言って、けれどその瞬間、
「分かったようなこと言わないで!」
突然に襟首を掴まれ、引き寄せられた。目と鼻の先、おっかないな、こちらを強く睨みつけるミオの瞳が迫っている。「あなたなんかに、話すべきじゃなかった」
「でも話したんだから話を続けるよ。あのさ、ミオ」
それでも僕は、どういうわけか冷静に、びっくりするほど俯瞰的に、ミオの感情の糸口を探し続ける。一体全体、という言葉が好きでよく使う僕だけれど、その必要がないほどに彼女の気持ちを把握できているような気がしていた。
だからここからはネガティブ思考の、僕のターン。
「大体さ、ミオの話ってさ、僕の質問の答えになってないよ」
「はあ?」
「僕と過ごした時間も絶望だったかどうか、そう聞いたんだ。でも今話してくれたことは、僕と過ごしたというより、母親と過ごした時間のことだろ。いやまあ、僕との思い出なんて語るほどの思い入れもなかったというならそれでいいんだけれど」
一言多かったか、まあいいや。
僕は、答えられずにいるミオへ続ける。
「ゲーセンで僕に勝ったとき、すげえ嬉しそうにしてただろ。奈々子先輩を助けに来たとき、紙袋なんか被ってノリノリだっただろ」
それだけじゃない、僕はネガティブだから自分がどう思われているかなんて、見られているかなんて正直なところ奈々子ほどではないにせよ、殆どの自己評価が被害妄想だと分かっている。けれどその分、人一倍他人のことは見てきているつもりだ。だからこそ、僕には確信をもって言える。
「クラスメイトからちやほやされてる時もさ、僕の前では見せないくらい楽しそうにしやがって。五百点満点とったときだって内心では、めっちゃ喜んでただろ。文化祭の実行委員だってみんなのためにすげえ頑張ってたじゃん。アンドロイドとしての生活も楽しかったんじゃないのかよ?」
「…………」
「楽しいと思わないようにしてるんならさ、やめときなよ。そういうの」
僕みたいになっちゃうぜ、とまではあまりに卑屈過ぎて思い留まったけれど、凡そ僕の言ったことは当たっていたと思う。
「僕にはさ、分かるんだよ。その気持ち」
「……私の」
「うん、僕も全部失ってきたから。友達も、家族も。でもさ」
僕は首元にある彼女の手をそっと握る。
この言葉が届くと良いな、そう思いながら。
「全部失くしても、僕らはまた出会うんだよ。不思議なくらいにさ、たくさん」
数えきれないほどに失ってきた。居場所も人も何もかも、それでも僕は。
「教室に行くとさ、よく知ったかぶりしてくる渉がいて、放課後になると、面白いくらいにヒステリックで可愛い奈々子先輩がいて、えーっと家に帰ると祖父母がいて……ってあれ、僕の大切なものって全然ねえじゃん……!」
いや、気にしたら負けだろ僕。不意に漏れてしまった言葉を無視して僕は言う。
「全部失くしても生きてさえいれば大切なものと出会うもんなんだよ。ほら、こうして何の偶然か、今いるこの橋の下で僕たちが互いの本性を知ったみたいにさ」
決まったか、僕はきめ顔で言い切った。
けれど、それを嘲るように彼女は鼻で笑って、
「そうかも、しれないわね」
ゆっくりと、襟首を握り締めていた力が緩んでいく。
目と鼻の先にあった彼女の顔が離れていって、お互いの体があるべき位置、座席に戻って、けれど、今はどうしてだかその距離感に僕は安心感を覚える。
「でも、大切なものが少な過ぎて説得力に欠けているわね」
「嘘だろ、渾身の決め台詞だったのに。でもまあ、だからさ、その」
――生きていこうよ、失った者同士。大切なものを分け合って。
それから僕の言葉がどう受け取られたのか、ほんの少し不安でミオを見つめる。すると彼女は声をあげて笑い出した。「お、おいっ! 何が可笑しいんだっ」
「だってそれ、プロポーズじゃないの?」
当たり前だけれど、そんなつもりはなかったが、彼女がそんな風に受け取るのだとしたら、それでもいい、都合が良くていい、そう思って僕は言う。
「プロポーズ、ですけれど……?」
「あら」
「……」
「私の真・大切なもの一号になろうというのね」
「何だそれ、すごいカッコいいな……いや、真面目に聞いてるんだけど」
僕が言うと彼女は、ほんの少しだけ楽しそうに微笑んでから答えた。
「それでも、ごめんなさい。私はやっぱりまだ、明るい未来のことを想像できない」
けれど。
「全てが終ったら二人の時間を重ねて、いつかそんな未来を本物にしていきたい」
そう言ってミオは、こちらを真っすぐに見て、
「だからまずは、恋人から」
僕の額にキスをした。
それは何だか、感触としては冷たくて、けれど、どこか温かい。
「あ、あのさ、ミオ。僕、言ってなかったことがあってさ」
「何かしら?」
「実は僕、携帯電話持ってたんだ……色々あって言えなかったけれど」
「随分と今更なのね……でもいいわ、番号を交換しましょ」
僕らの関係において、
今日は、遅すぎる気がしなくもないけれど、本当の記念すべき一日となった。
アンドロイド女子高生 西谷水 @nishitanimizu
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