第7話

 僕の知らないところでも世界は、ちゃんと前に進み続けているのだなあと、静寂そのものと言って差し支えないリニアモーターカーの車内で一人、感心していた。

 一昔前までは、時速五百キロで走っていたリニアモーターカーが、知らぬ間に六百キロで走行するようになっていたらしいけれど、百キロもの上昇は乗客である僕にどれほどのスリルを与えてくれるのだろうか。そんな風に乗客である僕は、ジェットコースターを超える超速体験へ期待に胸を膨らましていたが、それを隣の席に座っている奈々子が打ち砕いた。

「私たちも、慣性の法則に従って、リニアと、同じ速さで動いてる、から、す、少なくとも車内では、スピードを体感するのは、無理、だよ」

「そんなことも知らないんだあ、馬鹿だねえ啓一くん」

「奈々子先輩、アンドロイドってどれくらいなら殴っても壊れない?」

「だ、だめ、だよ……そんなことしたら、加藤君の腕が折れちゃう」

 壊れるのは、僕の方だった。

 ふうむ、これから僕らの旅行が始まろうというのにそれは、まずいな。そう思って、温めていた拳をポケットの中にしまった。この日のために二週間もの間、日雇いバイトで汗水を流し、費用を稼いだことも何もかもが無駄になってしまう。

「汗水は、流してないじゃん。ホームページ作るバイトだったじゃん。しかも、プログラミング言語打ち込んだのって全部、奈々子ちゃんと私がやったじゃん」

「……すみません」

そんなこんなで僕らは、武村博士への五つのプレゼント、昨日アオが徹夜で考えた「失われた五年を現実にする写真大作戦」を決行すべく、地元を目指していた。


        ※


 この街を離れたのが五年前、僕が想像していたよりも大きな変化はなくて、けれど、僕が想像していたよりも小さな変化に、胸がきゅっと締め付けられるような感覚があった。東京とは違って、空を見上げるとちゃんと青く澄んだ景色が広がっている駅前、バスの台数に見合わない広いバスターミナルに、都会の方じゃ見かけない大型駐車場を備えたショッピングモール、土日の昼間というだけあって人の姿は認められるが多いとは言い難い、少子化が進んでいる影響もあってか建物を取り壊した後の土地は、何も建てられていないさら地のままだ。十月中旬、相も変わらず寂しい街に冷えた風が吹く。

 けれどまあ、良くも悪くも変わりきっていないものがあって、僕は安心した。

 やらなければならないことが五つもあるのだから、この方が都合が良い。

「とりあえずさ、一つ目、行こうか」とアオが空を見て言った。

 一つ、武村博士がお祝い事の度に利用していたというケーキ屋さんでケーキを買うこと。

 二つ、昔三人で暮らしていた家で写真を撮る。

 三つ、近所の公園のベンチで写真を撮る。

 四つ、小学校の教室で写真を撮る。

 五つ、通うはずだった中学校の教室で写真を撮る。

 これらは全て、武村博士とアオが過ごした、あるいは過ごすはずだった思い出の場所だ。

「おー何気に初めて来たかも。啓一くんは、ティンカベール来たことある?」

 無人タクシーに乗って十数分、僕らは一つ目の目的地であるケーキ屋「ティンカベール」に到着。その名前の通りティンカーベルを意識した店であり、外観から内装までおとぎの国を連想させる装飾がいっぱいだった。店内の雰囲気に感動するのもほどほどにして、僕らは早速一つ目の目的であるケーキを買うことに。とりあえず僕と奈々子が購入したものは、赤く大きなイチゴが一つだけ乗ったショートケーキだ。店を出てすぐ、僕がケーキを食べようとして箱から取り出すと、

「ち、近いよ、アオ」

「気にしない気にしない。私たちは、東京でこのケーキを再現しなくちゃいけないんだから、私は目に焼き付けないと、啓一くんと奈々子ちゃんは、味を舌に焼き付けてね」

 そう、僕らはただ食べるだけではないのだ。当初は、ティンカベールからそのままケーキを持ち帰るつもりだったが、リニアの中でナマモノには消費期限というものが存在していることに気付いてしまったから。「んじゃ、頼んだよ……って奈々子ちゃん、何してんの!?」

「え、えっとー、糖度計で糖度を計ろうと思って」

「生クリームを測定するなんて奈々子先輩……す、凄い(小並感)」

 思えば奈々子のラボに行くと決まってショートケーキが出てきたような、もしかして。

「て、手作り、だよ」

「良かったな、アオ。これで一つ目の目的はクリアしたのも同然だ」

 言って、僕は奈々子とガッツポーズを交わし、次の目的地、かつて武村家族が暮らしていたという借家を目指す。長期休暇ではなくただの土日であるため時間が限られているのだ、てきぱきとね。


        ※


「アオ、どこに行ってたんだよ? 今から電話するところなのに」

「ちょ、ちょっと、トイレ……? まあ、気にしないで」

 小学校の玄関前、いなくなったと思っていたら、どういうわけか小学校の職員室から出てきたアオに僕は首を傾げたが、そんなわけの分からない返事をされてしまった。アンドロイドは、トイレをしないだろうと彼女を凝視していると、観念したようにアオは話し出す。

「いやね、私さ、お父さんの電話番号知らないから、まだ卒業して五年だし、個人情報残ってるかなーと思って職員室のパソコンをこっそり、こっそりね、ハッキングしたらなんと番号ゲット。それで、何か懐かしくなって、先生を装って電話してました」

「……奈々子先輩、アンドロイドに法律は適用されますか? 警察を呼ぼうと思って」

「えっと、どうなん、だろう……調べてみる、ね」

「ちょ、ちょっと啓一くんっ!? な、奈々子ちゃんは本当に調べなくていいからっ!」

 アオの父親、武村博士の元夫、彼がどんな人物なのか気にならなくもないけれど、僕が踏み込むべき内容ではないだろうな。

 だからまあ、話を本題に移して。

「じゃあ、五つ目の目的地……中学校に電話するからな?」

 二つ目の借家、三つ目の公園と四つ目の小学校に関して言えば、それは言葉通り順調に進み、二つ目同様に僕は、武村博士のコスプレをした奈々子と女子高生となったアオを写真に収めた。公園にはあまり人がいなかったし、小学校も元在校生である僕が連絡すると何とか建物の中を見学させてくれたのだ。失われた五年間を埋める、あったかもしれない未来を現実にする僕たちの写真プレゼント作戦は、ここまでは思っていたよりも順調、けれど、ここから先は思っていた以上に高い壁が僕たちの前に立ちはだかった。

「僕ですか? 卒業生ではないですけれど、はい、最近不審者が入ったから一般開放していない……そうですか」

 結論から言おう、僕たちは正規の方法で中学校に入ることができなくなってしまった。けれどまあ、それはある程度覚悟していたことだったし、僕が教員という立場だったとしても同じ判断をしていただろう。卒業生でも何でもない一般人を、ましてや色々なアクシデントがあったばかりの現状で受け入れるのは、難しいことだ。

 けれど、だからといって僕たちもここで簡単に諦めるわけにはいかない。今日を逃せば、一番には金銭的に、二番には時間的に、この土地を三人で訪れて再挑戦ということは不可能だったから。

 午後十九時、街に夜の帳が降りてきた頃、僕らは予約していたホテルで臨時会議と洒落込むことになった。

どうすべきか一時間ほど話し合って、最終的にはアオの提案である夜間に忍び込むという案に僕と奈々子は乗ることにしたのだけれど、提案者の彼女がこちらの協力を拒んだ。

「今からやろうとしていることは、犯罪だよ。だから啓一くんと奈々子ちゃんは、ホテルで待ってていい。写真は私一人で撮ってくるからさ」

 もちろん僕は付いて行くと言ったが、その言葉を受けて迷っていたのだろう、奈々子が僅かにこちらの服の袖を掴んで呟いた。「あ、危ないよ。さ、最悪退学なんてことにも」

 それはそうだ、これからやろうとしていることは、それだけのこと。それでも僕は。

「構わないよ、僕はアオの力になりたい」

 ミオを助けるためだったとしても、僕は彼女のことも助けたい。そこにきっと、深い理由なんてないのだろうけれど、そうしたいと思った。

「それにさ、一回だけやってみたかったんだよね。人に言えないような悪いことをさ」

 言って僕は、驚いたようにこちらを見ていたアオに手を差し伸べる。

「行こうか、僕らで」


        ※


 一階から三階まであるという中学校の中は、迷路みたいに入り組んでいて、けれど教室自体は廊下側の壁を取り払った開放的な空間となっていた。小説やアニメの影響か、てっきり夜の校舎は、お化けが出そうなほどの静寂に包まれていると思っていたのだけれど、案外、換気扇やら何かの駆動する重低音と見回っている人型の警備アンドロイドの足音が聞こえてきて、それから真っ暗ということもなく、非常灯と月明かりで薄明るい。

「あ、私、窓際の席に座りたい。撮って撮って」

「あんまり騒ぐなよ……えっと、撮るよ?」

 校舎一階から二階、通常教室から科学室や家庭科室まで余すことなく、さながら、ホラーゲームのように警備アンドロイドの目を盗んで僕とアオは、写真を撮り続け、今は三階の教室、最高学年のクラスにいた。「いいよ、撮って」

 カメラのレンズを覗き込み、焦点を窓際の席に座ったアオに合わせる。初めはぼやけていたピントも徐々に合っていき、視界の中心に頬杖をついた彼女が映った。

 綺麗だ、月明かりに照らされたアオの横顔を見て、ふと思う。「どしたの?」

「いや、何でもないよ。撮るね」

 カシャ、僕はシャッターを切った。それから、何か特別な理由があったわけではないが、自然と彼女の前の席に腰を下ろし、黒板を眺めた。同じ世界に入りたかったのかもしれない、すると後ろの席にいたアオが突然小さく笑った。「何か、おっかしいね」

「啓一くんとはさ、凄く仲が良かったのに、こうして学校で話すのが初めてだなんて」

「そりゃあまあ、学校では会わなかったから……」

 会おうとしなかったから。

「……うん。でもさ、もし会って話していたとして、私たちはどんな感じだったんだろうね」

「そりゃ、今こうして話しているみたいになったんじゃないのか?」

「いやいや、こうはならないって。だから、そうだねえ」

 ここから先は想像の話、彼女はそう言って続ける。

「私の前の席はさ、何か謎の力が働いて必ず啓一くんでさ、だからまあ基本的に授業中は、後姿ばっかり見てるの。今日も猫背で弱そうだなあこいつって、心の中で思ったり」

「おい、酷いな……それで?」

「うん、でも話し掛けたくてずっと見ちゃうんだ。こう見えて私ってさ、知らない人の前だとはっちゃけられないから。だから話しかけたいときは、名前を呼ぶんじゃなくて、とんとんって肩を叩くのね。こんな感じで」

 言って叩かれた肩は、ほんの少しだけ痛かったけれど、何も言うまい。

「それで小さな声でこう言うの……放課後、ゲームセンターに行こうよって」

「うん、行くよ」

「えっと、想像の話だからさ」

「それでも、行くよ」

 誘ってくれれば、たとえそこがゲームセンターではなかったとしても、僕は付いて行く。

 あの頃の僕には、それができなかったかもしれないけれど、今の僕ならきっとそうする。

 そんな確信を自らの眼差しに込めてアオに向けると、彼女はゆっくりと微笑んだ。

「ありがと、嬉しいよ。あのね、啓一くん」

「うん」

「本当は、お母さんへのプレゼントなんて口実で、今日訪れた場所は、全部自分が行きたかった場所なの」

「そうなんだ」

「うん。ケーキ屋さんもお家も公園も小学校も、中学校も、私の思い出と未来、その全部を、誰かに見てもらいたかった。みんなに……」

 お母さんに、呟いて彼女は僕を見る。

「だから今日のこと、啓一くんは、憶えておいてね」

 それから彼女がおもむろに右腕を僕の頭上へと伸ばしてきた。

瞬間、何かが砕け散るような音がして目の前を黒い物体が横切る。僕が状況を理解するよりも先にアオが立ち上がり、目にも止まらぬ速さで蹴りを放つと、ガタンっと黒板の方で衝撃音が響いた。「警備アンドロイド……?」

「見つかっちゃったみたいだね、逃げよっか」

 アオが僕の手を掴み走り出すと、換気扇の音なんかよりもずっと大きい非常ベルが校舎内で鳴り始めた。僕らは、迷路みたいな道を走って、走って、走りながら、

「あのさ、啓一くん、私さ、少しだけ後悔したかも」

 アオが振り返らずに言う。

「こんな未来があったんなら、どうしてあのとき信じられなかったんだろうって」

「アオ……あのときは、僕が……」

「ううん、啓一くんは悪くない。私が君でも何も出来なかっただろうしさ。でもさ、私思ったんだ。今はさ、このあったかもしれない未来はさ、全部ミオちゃんが啓一くんと出会ったからなんだって。ミオちゃんが君を変えてくれた、私を変えてくれたからなんだって」

 そこでアオは、一度言葉を切って、それから力強く言った。

「私、やっぱりミオちゃんのこと大好き。絶対消えて欲しくない」

 彼女の言葉は、それ以上続かなかった。きっと僕の返事を待っていたのだろう、だから僕は、その手を強く握り返して答える。「助けよう、僕らで……!」

 けれど、走り抜けた先は、出口ではなくシャッターで塞がれた壁だった。ざっと見るだけで目前の警備アンドロイドの数は七体、アオの表情が苦渋に歪む、絶体絶命だ。

 そんな僕たちの心境を計ることなどできない警備アンドロイドは、僕を守るようにして立っていたアオ目掛けて、先程よりも頑丈そうな金属の警棒を振り下ろしてきた。

「啓一っ!」

 さすがにこれは、アオでもまずいんじゃないか。そう思うよりも先に僕の身体は、動き出して、彼女の壁になろうと身構えていた。

 多分、死んだ。そう思って、そう覚悟して、衝撃に備えて目を閉じた僕だったけれど。

「あれ……?」

 いつまで経ってもその衝撃が僕を襲うことはなく、恐る恐る瞼を開けると機能を停止した警備アンドロイドの顔が目と鼻の先で固まっていた。おっと、これはこれで中々にショッキングな光景だったけれど、そんなことに驚く間もなく通路を塞いでいたシャッターが平常時のように天井へ格納されていく。何が起きたのだろうか、アオがやったのかと思って彼女を見るも、首を横に振られてしまった。

 そのとき、僕のポケットの中で携帯電話が震え出した。一体こんな時に誰だろうと借りパクした、いや、預かっている電話を手に取ると、それはビデオ通話で、画面の向こうに映っていたのは、栗色のセミロングで巨乳な女の子だった。

「か、管理室からセキュリティを止めた、の。だから、今のうちに、出よう」


        ※


――僕はこの日、部屋の中で静かに時間を刻んでいた赤い腕時計を身につけた。

 迎えた武村博士の誕生日会当日、学校が終わって大急ぎで奈々子の家に集まった僕らは、早速ケーキ作りに励んでいた。お菓子作りなんて自由研究でカルメ焼きを作って以来のことだったから、それでもまあ、結構楽しかった記憶が残っていた僕としては、今回のケーキ作りにも期待でそれなりに胸を膨らませていたのだけれど、

「ねえ奈々子ちゃん、私、ホールケーキにしてって言ったよね……?」

「ご、ごめんね、そ、そそ、そうだよ、ね……た、誕生日だから、ホールケーキ作ったのに、お、叔母さんが来る前に切り分けちゃうとか、し、死んだ方がいい、よね。て、ていうか、あ、アオイちゃんが、つ、作る、はず、だったのに、つ、つい楽しくなって、最後まで作っちゃうとか、の、脳みそ足りてない、よね……な、何でイチゴのブランド、あ、あまおうにしなかったんだ、ろうね、もう死ぬね、ばい、ばい……」

「死ぬな死ぬな死ぬなぁ! おいアオ、包丁を取り上げろよっ!」

 無事にケーキが完成し、けれど奈々子は、死んでしまいしたとさ。

 いやまあ、冗談だけど、ケーキが完成したのは本当のことだ。

 そんなこんなで僕らは、ホログラムできらきら星を投影するなどして、奈々子の両親を含めた五人でリビングの装飾を行い、誕生日会らしい環境を整えた。ちなみに奈々子の両親は、僕が想像していたよりも随分と楽観的な思考をお持ちのようで僕を見るなり「ああ、君が加藤君? すっごいイケメンじゃあないか、いや冗談さ、嫌な顔するなよ。ははっ、思えば冗談ってのもすっごい失礼だね。いつも奈々子がお世話になってるよん」とお父さん。アオを見たお母さんは「えーすごい、本当にアオイちゃんそっくりねえ。可愛い可愛い、食べちゃいたいわ!」なんて言いながら彼女の髪をくしゃくしゃにして撫でていた。本当に奈々子は、この両親から生まれてきたのだろうか。ふと思って、しかし僕は言葉を呑み込んだ。

 あとは、今日の主役、武村博士を待つだけだった。彼女が帰ってきたら部屋の電気を落とす係を奈々子ママに任命されていた僕は、多少早いけれど一仕事終えた気分でスイッチ付近の壁にもたれ掛かる。スイッチに触れるのが面倒だから、本番は音声認識で消そうかな、なんて思いもしたけれど、それだと武村博士に存在を知らせてしまうだろうから、僕はもう一度立ち上がった。そしてついにそのときが来たらしい、携帯を見ながら奈々子パパが興奮気味に言う。「千代子が今、タクシーで研究所を出たってさ!」

 千代子だって? 僕が首を傾げるとケーキを持って待機していたアオが、武村博士の名前なのだと耳打ちしてくれた。何か緊張してきたな、他人の誕生日祝いなんて初めてだ。

「千代子が今、交差点を右に曲がったって!」

「……」

「千代子が今、赤信号で止まったって!」

「……」

「千代子が今、十字路を抜けて住宅街に入って、ようやく家の前に!」

 いや、メリーさんじゃん。とんでもなく報告の細かいメリーさんだよ、それ。

「ああっ、千代子が今、やっぱり研究所に戻ろうかなって!」

 しかも、遊ばれてんじゃん!

「おい、来るぞ! 加藤君、電気!」

 言われて僕は、慌てて電気のスイッチを押した。瞬間、暗闇が広がったのと同時に玄関の方で扉が開き、自動ロックの音が家の中に響く。武村博士が入ってきたのは、間違いないらしい、廊下から聞こえた足音が段々と大きくなって、そしてリビングのドアが開き、爆発音、クラッカーが盛大に音を立てた。

「おめでとう……お母さん」

 蝋燭の灯った既にカットされたホールケーキを持ってアオが、リビングの奥から扉の方へ進み出る。橙色の灯に照らされたもう一人の人物は、僕らの予想通り、アオの母親にして、タケムラテクノロジーの創設者、ワイシャツからスラックスまでもが黒で統一された彼女は、武村博士だった。

 予想通りで、けれど、予想外なことが一つだけ。

「ふふっ、ふふふっ!」

 僕の記憶が正しければアオと同様に白い肌をしていたはずの武村博士は、その顔全体が紅ショウガみたいにほんのりと赤い、突然不敵に笑いだしたかと思うと、千鳥足でふらつき壁にもたれ掛かった。べろんべろんに酔っている、僕は酒を飲んだことがなかったけれど、誰が見ても分かるくらい泥酔している。「お、お母さん!? 大丈夫なの!?」アオが駆け寄ると、

「ああ、大丈夫だとも……いやあ、随分と、懐かしい客人だなあと思ってね」

 とは言え、と彼女は、僕を真っすぐな目で見ながら続ける。

「誕生日パーティーと洒落込もうじゃないか」

 そして彼女は、蝋燭の炎を一息に消した。


        ※


 それにしても、随分と派手などんちゃん騒ぎだった。

 大人たちは、シャンパンボトル片手にカラオケを始め、奈々子がかなりのハイペースで追加の酒を冷蔵庫から運び、一体何本目になるか分からないボトルの弾け飛んだコルクが、僕の首元を掠めたときは、いやはや死んだかと思ったね。

 そんな騒がしさも束の間のこと。

「未成年飲酒は、犯罪だろ……まあ、いいや」

 腕時計の長針がまもなく午後十一時を示す頃、奈々子とその両親、もとい酔っ払いたちは、僕の向かいにあるソファで肩を寄せ合いながら、先程まではうとうとしていたものの、そのうちすやすやと寝息を立て始めた。一方でアオは、酒も食事も、睡眠だって必要ないはずだが、雰囲気に酔ったのだろうか、彼らの傍らで横になって目を閉じている。

「起きていたのかね、加藤君」

 玄関前で煙草を済ませてきたらしい武村博士が、若干ふらついた足取りで僕の隣、ソファの上にどっかりと座った。どっこいしょ、なんて言いながら彼女が腰を下ろす姿は、ちょっと意外で面白かったけれど、でもまあやがては僕もこうなるのだろう、笑っていいか微妙だ。

 酔いが醒めてきたのか、肌の色を取り戻してきた彼女の横顔は、アオ同様にミルクのような温かさを持っている。心労によるものだろうけれど、やつれているがやはりその相貌は、見惚れるほどに綺麗な人だった。

「少しばかり騒ぎ過ぎた。親戚に代わって、まあ私も含めてか。すまなかった。それから、アオイからもらった誕生日プレゼント、たった今あの写真を見させてもらったよ」

言って彼女は、片手で小さなフォトブックを開き赤くなっていた目で、はらり、はらりとページを捲り、四枚の写真を眺める。一通り見て写真へ呟くように彼女が言う。

「これは、良い写真だった。もしアオイが生きていたら、こんな未来があったのかもしれないと、そんなことを思わせる四枚だったよ」

「そりゃあ良かったです。アオがあなたを喜ばせたいと意気込んでいたので」

「そうか、それは母として素直に喜ぶべきことだろうね……でもまあ君としては、私の喜ぶ顔が見たいというわけではないんだろう?」

「……ええまあ」

「では、私の戯言もほどほどにして本題へ入ろうか。ところで君は、まず前提として私のアオイブックに関する計画をどこまで把握しているのかな?」

 尋ねられて僕は、アオと奈々子から聞いた話をそのまま博士に話す。聞き終えて彼女は、足を組み直し、何やら含みのある感じで唸った。

「なるほど、なるほどなるほど、結論から言えば、君の知っている情報は、計画の一端に過ぎないようだけれど、全てを話す必要はなさそうだ。それでもって要点だけを言えば、君の要望通りアオイへのアップデートを停止し、ミオの人格を残す、その選択をしたとしても、科学者としての私自身には、何の損害も不利益もない。計画は、既に完遂していると言っていいのだからね」

 けれど、と彼女は続ける。

「君の要求を呑むことは出来ない。理由は、私がしたくないからだ」

「どうして?」

「君も奈々子も、こう思っているのだろう? こんなことをしたって娘は帰ってこないと、何の意味もないと、前に進まなければならないと」

 言い当てられて、心臓を掴まれたみたいにどきりとしてしまう。

「私はね、そんなことくらい分かっているつもりさ。けれどね、人が生きるためには、私が生きていくためには、縋りつく存在、糖分が必要なのだよ」

「糖分……?」

「ああ、それもとびきり甘い角砂糖さ。けれどもそれは、既に生産終了してしまってね、在庫を口の中で溶かしながら、消耗しながら、この無味に余った時間を潰すしかないのさ」

 初め、彼女の言いたいことがよく分からず、けれど考えて、何となくその意図を僕は掴む。

 それはきっと、アオとの思い出のこと。

「こんな風に話した方が、謎めいたキャラっぽくて良いだろうと、そう思ったのさ。私は、博士という属性をもっていながらキャラが薄いからね」

 何という無駄な配慮なんだ。

 さておいて。

 僕は、彼女の言葉を自分の中で噛み砕き、呑み込んだ体の中で反芻する。生産終了、過ぎてしまったものが決して帰ってこないことに絶望し、きっと僕らは、過去に縋りつきたくなってしまう。沼のように足を取られた身体は、次第に底へと辿り着く。それらが行きつく先は、後悔しながらそれでも失ったものを追い続けるか、諦めて、かつての僕みたいに何もかもを諦めて、いや、諦めたフリをして生きるかのどちらか。

「子供みたいなこと、言うんですね。武村博士も」

 火傷、決して癒えないその傷を抱えて、無為に時間を消費し続ける。

 分かり過ぎるほどに共感できてしまう博士の傷に、僕は言う。

「そうやって生きていて楽しいですか。そうやって生きるのは辛くないですか。そうやって生きるのは苦しくないですか。僕は、そうやって生きる自分が――」

 嫌いだった、そう言おうとして、しかし、何かが弾け飛んだような音が僕の言葉を制す。

「偉そうなことを言うなよ」

 武村博士は、手に持っていたフォトブックを、アオイが作った贈り物を、テーブルの上に思い切り叩きつけた。冊子自体は丈夫だったのか、壊れたり傷がつくようなことはなかったものの、収められていた写真の何枚かが中から飛び散る。

 一枚、銀の月明かりに照らされた写真の中のアオと目が合った。

「こんなものが偽物だってことくらい、分かっている。馬鹿らしいことだってのも、理解している、虚しいさ。けれどね、もう私には……」

 武村博士の声は、静かに震えている。凍えるように震えている。

「あ……」

 呟いていた。この光景を目にして僕は、驚くほどに間抜けな声が出て、それから自分の感じている思いを停止しているかのような、長い一秒の中で精査する。

 フォトブックと四枚の写真、それは初め、誰もが適当な思いつきで上手くいかないだろうなと思っていた。今だってそうだ、心の何処かでは、こんなプレゼントで良かったのかなと疑っていた。というより、上手くいく方がおかしいんじゃないかと思う。

 だってこれは、アオが徹夜で考えたプレゼントだ。

「ああ……」

 いいや、本当にそうなのか。彼女は、徹夜で考えてきたと話してくれたけれど、果たして本当に、そんな突飛な思い付きだったのだろうか。

 僕らに言わなかっただけで、ずっとこの四枚の写真を贈りたかったのではないだろうか。

「……」

 ティンカベールのケーキ、大きなイチゴが一つ乗ったショートケーキは、アオの誕生日になると武村博士が必ず買ってきてくれたもの。アオは、不思議に思っていたらしい、自分の誕生日は祝ってもらえるのに、武村博士は自身の誕生日を祝おうとしないことを。

 だから、いつかケーキを作ってあげたかった。

 父と母、そしてアオの三人で暮らした家も、本当なら僕と奈々子ではなく、両親と並んで撮りたかったはずだ。小学校の卒業式、中学校の入学式、何か記念日がある度に三人家族で仲良く並んで撮りたかったはずだろう。「武村博士……」僕は、写真を飛び散らせたフォトブックを見つめながらに言う。

 アオと奈々子と僕と、三人で撮った景色は、確かに紛い物かもしれない。

 それでも、アオが母親に見せたいと思っていた心は、偽物なのか?

 存在していた思い出のことを、あったかもしれない未来のことを、僕に憶えておいて欲しいと言った彼女の想いは、偽物なのか?

 偽物とか本物とか、僕は考えて、そういうことじゃない、と気が付いた。

「あなた、間違っていますよ……」

「何だって?」

 過去に縋りついて生きた先、その先には何もないことくらい誰だって分かっている。

 けれど、だからと言って、その過去が否定されていいはずがない。

 僕だってそう。

 両親が離婚したことは、嫌な過去だ。だけれど家族で過ごした思い出全てが、楽しかったはずの記憶全てが、どれだけ辛くて苦しくて、火傷のような酷いものになったとしても、街の景色が変わってしまっても、周囲の環境が変わってしまっても、それでも、あの頃の気持ちが嘘になるなんて、そんなことあるわけがない。過去を踏み台にして生きて行かなければならない僕らが、過去を偽物だと、否定してはいけない。

「あなた、娘さんを、アオイを愛していたんじゃないんですか……?」

「……そんなことは、言うまでもないことだ」

 大切な何かが踏み躙られた思いで、空を握り締めた拳が僅かに震えた。

「だったらどうして」

 痛々しいものを見たときのように、散らばった写真に胸の奥が詰まった。

「目の前の過去を、偽物だなんて言えるんですか……? これだけ、アオイに愛されておいて、これだけ、愛されるような人だったはずなのに……答えて、くださいよ」

 ふつふつと、体の中で聞き慣れない音がする。それを感じながら、耐えながら続けた。

「アオイに、今の姿を、見せられますか……?」

 僕らは、きっと過去に縋ってはならない。

「アオイに胸を張って、見せられ、ますか……?」

 僕らは、きっと過去に胸を張って生きなければならない。

 武村博士は、黙り込んだ。長い時間、ひどく長すぎる時間、黙り込んだままで、そのうち体の中の音が、ふつふつ、から、ごとごと、と激しさを増して、僕は耐え切れず、彼女に掴みかかりそうになって、しかし、それを柔らかい声が制止する。「もう、いいよ。啓一くん」

「写真、捨てられちゃったのは悲しかったけど、私は偽物だからさ、仕方ないよ」

 散らばった写真を一枚一枚拾い集め、ゆっくりとアオは、武村博士の膝の上にフォトブックを置いた。そして、自分と目を合わせようとしない武村博士に彼女は言う。

「でも、私の前では持っておいて欲しいな。ねえ、お母さん」

「……アオイ」

「この街はさ、私たちが暮らしていた場所じゃないし、今通っている学校も私の通うべき場所じゃない。きっと、啓一くんも奈々子ちゃんだって、奈々子ちゃんパパも奈々子ちゃんママも、ミオちゃんだってそう。私が会うべき人じゃない……そこでさ、問題です」

 彼女は、どこか寂しく、微笑んで言った。

「私の、本当の居場所は、どこでしょうか? ヒントはね、世界に一つだけしかないの」

 武村博士は、何かを言いかけたみたいに口を開き、しかし、アオを見ることはなかった。そんな彼女に何を思ったのか、アオはリビングを出て行こうとして、そのドアの前で立ち止り呟く。「迎えに来てね、待ってるから」

 そして彼女は、奈々子の家をこの場所を出て行った。


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