第3話

 六月上旬。休日を利用してミオと二人で行ったショッピングモールのことを思い出す。

 彼女は、時計屋のショーケース前で立ち止まり、紳士物の腕時計を眺めていた。それも彼女のカチューシャと同じ色をした真っ赤なやつだ。自分でつけるつもりなのだろうか、それにしてはやはり大きい気もする。

「ねえ、加藤君」

「ん? どうした」

「誕生日プレゼントって、どんなものを贈られても嬉しいものかしら」

 何だ、その質問。簡単なようですごく難しい。

 僕は、少し迷って、けれど自分ならば、と答える。

「そう、それは良かった」

 ほんの少し、安心したように表情を崩し、ミオは歩き始め店を出て行こうとした。てっきり僕は、この時計を買うものだと思っていたけれど、そうではなかったようだ。何となく不思議に思いながらその背中を見つめていると、彼女が振り返って言った。

「何をしているの? 次は服屋へ行きましょう」


        ※


 我ながら知り合って数か月の女子クラスメイトが学校を無断欠席した程度のことで、ソワソワしてしまうなんて僕の精神強度も地に落ちたものだなと思うけれど、一体全体武村ミオの保護者である武村博士は、何をしているのだろう。朝のホームルームの時点では、一時間目までに登校するという遅刻の一報、一時間目の時点では、三時間目までには登校するという遅刻の一報、三時間目の時点では、六限目までには登校するという遅刻の一報だったけれど、いやいや、そこまで行ったらもう休もうよ、あまりに雑な博士の伝達は教室のあらゆるところでネタにされていた。というか、そもそも話題の中心に据えるべき点は、武村博士の伝達内容ではなく、ミオに一体何があったのかという点だろう。

「風邪だろ」渉に至っては、彼女があまりに馴染み過ぎてアンドロイドであることを忘れていたし、教室の誰に聞いてもこの事態の重要性に気が付いてすらいなかった。

 アンドロイドにとって風邪を引くなんてことがあるのだとしたら、それはサイバーウイルスに感染したということなのではないか。まさか奈々子をいじめていた連中から、その報復を受けたなんてことも……。

「ということがあったんですけれど、何か分からないですかね?」

 七月上旬、僕はガンガンに冷房の効いたアンドロイド研究開発部、奈々子のラボにて、ロボタンが運んでくれたアイスティーを口に含んだ。

 ガムテープで修理されたウサギ型の机を挟んだ向かいに奈々子、自分から質問をしておいて何だが、うーんと考えてくれている彼女を眺めながら別のことを考えていた。

 奈々子は、恋でもしたのだろうか、初めて会ったときを思い出して、その変化に思わず感嘆の息を、いや、言葉を漏らしてしまう。

「髪、切ったんですね。似合ってますよ」

「そ、そうかな……あ、ありが、とう」

 とんでもなく可愛いな、個人的にショートボブがストライクゾーンというのを抜きにしたって、いや、抜きにしては語れないのだろうけれど、彼女の小顔を引き立たせているその髪型は、冗談抜きで似合っている。

「け、化粧もしてみたんだけど、ど、どうかな……アイライン、とか」

 大きな瞳とぱっちり二重、普段は童顔っぽい彼女の顔だが、確かに言われてみればアイラインが強調されて大人っぽい感じになっている。僕としては、地雷系で見るからに涙袋が強調された化粧が好みではあるのだけれど、それを差し置いてもいいほどに、

「良いですね、すごくいいと思います。大人系を目指しているんですね」

「う、うん。か、加藤君、は、ど、どんなのが、た、タイプ?」

完全に僕の好みではあるのだけれど、白衣ではなくもっと地雷系、いや、そこまでいかなくとも、ピンクでふわふわした感じのファッションも見てみたいところだった。

 いやでもまあ、僕のタイプなんて知って得することはないだろう。というか、気持ち悪がられてしまうかもしれない。そう思って僕は、ミオの身に何かあったんじゃないか、一度逸らしてしまった話題を引き戻すことにした。「そんなことより奈々子先輩」

「そ、そんなことなんだ……う、ううん、そ、そう、だよね。わ、私、ごときが、どんな、服着てたって、よ、喜んでくれ、たりしない、よね。こんな私、き、消えた方がいいよね、うう……そ、そうだよ、ね」

「え、えっと……?」

 何だ、何だ、僕ってば何か踏んじゃいけないもの踏んじゃったのか? 大袈裟過ぎるほどにうな垂れてぶつぶつと深淵の言葉を呟きだした奈々子を宥めようとするも、僕の声が届いていないのか、次第に彼女はこんなことを言い出した。

「で、でも……ふ、服に申し訳ない、な……ふ、服は可愛い、のに、わ、私、ごときを可愛くさせられなかったら、ぶ、ブランドに、泥をぬ、塗っちゃうことに、なる、私のせいで、つ、罪のない服たちが、ああ、ああ……ど、どうしよう」

 どんな風にヒステリックを起こしたら服の心配をしようって思考になるんだよっ。何だか面白過ぎる転がり方だ、今の彼女には、どんな言葉も届かないとだろうと分かっていた僕は、一方的ではあるけれどそれをいじってみることにした。「どうするんですか? このままだと、その服たち、ブランドから見捨てられちゃいますけど?」

「そ、そうだよね……み、見捨てられちゃう、よ。ど、どうすれば……そ、そうだ、ま、貧しい子供たちにき、寄付すれば、新しい居場所が……」

「先輩が着た服なんて誰かにもらってもらえると思ってるんですか?」

「そ、そうだよね……か、加藤君の言う通り、だね……わ、私の着た、服なんて誰も」

「裁断された後、リサイクルされるのがオチでしょうね。仕方ない、僕がもらってあげましょう。だから、さあ早く服を脱いで」

「そ、そうだよね……い、今すぐぬ、脱ぐね……で、でも、わ、私なんかが触ったら、ぬ、布の価値が……そ、そうだ、か、加藤君が、ぬ、脱がせて……」

「へへへ、分かったらはやくこっちへ……って」

 何をやっているんだ僕は。

 というかネガティブな言葉なら聞こえるのかよ、どんな心理状態なんだこの人。

 僕のネガティブさを遥かに超えているのは間違いないとして、いや、そんなことはさておき、どうすべきか考えて僕は言う。「奈々子先輩、やっぱり駄目だ。僕はその服に触れない」

「ど、どうして……や、やっぱり私が着てるから」

「違うよ、その服の居場所をたった今見つけたから、僕が触る必要なんてなくなったんだ。たとえブランドがその服を見捨てても、貧しい子供がその服を拒絶しても、その服にはたった一つだけ受け入れてくれる場所があったんだ。それは奈々子先輩、あなたですよ」

「わ、私……?」

「ええ、世界がその服を嫌っても、先輩はその服を嫌いにならないでしょう。だからその服にとって、先輩という存在が最後の居場所なんです……見捨てないでやってください」

 僕が言い終えると、それから彼女は、滂沱の涙を、いや、さすがに流しはしなかったけれど、服をじっと見つめて小さく微笑んで言った。「私が見捨てちゃいけない、ね」

 それから僕を真っすぐに見て、しかし、どこか照れくさそうに彼女は、

「か、加藤君、ありがとう……や、やっぱり優しいんだね」

 そう言った。その表情にどきっとして僕は、思わず目を逸らしてしまう。

 それからすぐに鳴った校内放送で、

「職員室から生徒の呼び出しをします。加藤啓一君は、今すぐ職員室へ」


        ※


 奈々子とのくだりは何だったのだろう、いやまあいいか。今はとにかく気分が悪い。満員電車の中を流れるエアコンの不快な風が、額に浮かんでいた脂汗を乾かす。今日は、夕方から雨が降るという天気予報の割に日照りが強い。電車の窓から見える限りでは太陽が雲に隠れているのに、半袖カッターシャツと密着している脇の辺りが汗でべっとりだ。座席に座れたことが、せめてもの救いだろう。

「ずっと気になってたんだけど、それ何?」

 そんな僕の右隣に座っているミオは、先程から涼し気な表情を崩すことなく、見たこともない英語が記された、恐らくブランド名だろう、膝上の紙袋をじっと見ていた。

「プレゼントよ、昔お世話になった人の誕生日だから」

 なるほど、それが今日一日学校を無断欠席してショッピングモールへ行っていた理由か。何か心配して損した気分、でもまあ。

「誕生日プレゼントか、良いなあ。てことは今向かっている場所って、その人の家?」

「勘が良いのね、まるで脳みそが入っているみたいだわ」

「僕を何だと思ってんだよ! あんまりだ!」

「あら、そこまで反発してくるなんて……じゃあ、加藤君、中間テストの点数を言ってみなさいよ」

「はあ? 三百六十八点だよ、別に悪くもなく良くもなくって感じかな」

「普通……ゴミみたいな点数ね。私、四百九十八点だもの。やっぱり脳みそなんて入っていなかったみたい。ごめんなさいね」

「何で言い直した!? いや、お前と比べたら学校中が脳なしになっちまうだろ。というか、真面目な話、脳みそが入ってないのは、ミオの方じゃないか」

「あらら、バレちゃったわ」

 電車に揺られて間もなく三十分。三十分前までは、電車に乗る予定などなかった僕だけれど、武村博士の方で紆余曲折あったらしく、担任の先生づてにミオの様子を確かめて欲しいと頼まれ、示された住所に向かった結果、今に至る。

「そう言えばミオって、マンションに住んでたんだな。僕はてっきりタケムラテクノロジーの本社ビルとか研究施設とか、そういう厳戒態勢の場所で暮らしてるもんかと」

「嫌よ、あんな狭苦しい場所。私だって年頃の女の子だもの」

 確かにすごく年頃の女の子っぽい格好だ、トレードマークのカチューシャはそのままに、藍色のノンスリーブシャツ、ブラウンを基調としたチェックのフレアスカートが隣の僕とのファッションレベルの差を見せつけている。彼女が髪をかき上げた際、銀色の光を見せた左腕の時計も随分と高価そうだった。

「大体、私って結構強いし、襲われても負けないわよ。護身用の画鋲も持ち歩いているし」

 護身用だったんだあれ、そんな僕の驚きが言葉となる前に電車は目的地へ到着し、人の流れに従って僕らも下車した。

 青空の見える小さな駅のホーム、周辺の風景はどこを見渡しても住宅街であり、家屋の錆びついたトタン屋根が想像していたよりもずっと田舎っぽかった。

都心の空気と比べると外の空気は、格段に澄んでいて思わず深呼吸しながら伸びをしたくなる。都会暮らしではあるが、僕の生活圏を考えると電車に乗り慣れている方とは言えなかったし、疲労が溜まっているのかもしれない。「ここから二十分くらい歩くから、飲み物でも買っておいたら?」そんな僕に気を遣ってくれたのか、ミオがホームに置かれた自販機を見て言った。「大丈夫、行こう」


        ※


 何もないな、本当に。そう呟いたのは何度目だろうか、僕の呟きは、夏の日照りと蝉の鳴き声の中に虚しくも溶けていった。隣に見渡す限りの畑が広がる歩行者用道路を歩き、時々現れる高い建物に反応して注視すると、その殆どが団地住宅か工場のどちらかだ。ここは僕が思っていた以上にのどかな地域らしい。

「お世話になった人ってさ、どういう人なんだ? やっぱりアンドロイド開発者?」

「いいえ、彼は何一つ特筆すべき点のない一般人よ」

「酷い言い方だな……でも、どうやって知り合ったの?」

「……以前、日野宮高校へ来る前に通っていた学校で、ちょっとね」

「以前? 日野宮高校以外にも通っていたって言うのは、テストで?」

「ええ、そんなところよ」

 誕生日プレゼントを誰かに贈ったことなんか人生で一度もないなあ、自分の過去を振り返りながらミオの隣を歩いていた僕。「ふうん」

 誕生日を祝い合うような関係の人がいる、ともすれば僕の人生は、アンドロイドよりも寂しい人間関係によって構築されてきたことになる。そのことに気が付いて静かにショックを受けた僕だったけれど、それはまあさておいて、ミオとそこまでの関係を築いた人物には興味があった。一体どんな友達なんだろうか、気になって僕が尋ねると彼女が言った。

「友達ではないわね、何といえばいいのかしら。教育者……?」

「学校の先生ってこと?」

「そうそう、彼は、学校教師よ。いずれにせよ私の大切な人ね」

「大切な彼? 男ってことか?」夏の暑さが僕をおかしくしてしまったに違いない、何の考えもなしにそのことを追求してしまった。餌を撒いちまったんじゃないか、何だか嫌な予感がして、ちらりとミオの横顔を見るとそこには、案の定こちらをからかうような笑みが浮かんでいる。どういうわけか突然立ち止まった彼女は、わざとらしく演技がかった口調で言った。

「男じゃいけなかったのかしら? ちなみに彼は、高学歴で、高収入で、そこそこイケメンで、女子生徒からモテまくり。あら、そんなにむっとして……嫉妬、しているの?」

「なっ、からかうなよ、そんなわけないだろ」

 くそっ、まるで僕とは正反対な奴じゃないか。神様、不公平すぎやしませんか。

「顔が赤いわよ、もしかしてあなた、私のことがす、き、なの?」

「違う、断じてないね。大体、僕とミオは、人間とアンドロイドだろ」

 謎に溜めて言った「す、き」に若干心臓が乱れたものの、僕は視線を寄越すことなくきっぱりと言い切る。ミオがアンドロイドでなかったとしたら、そんな風に追及されてしまうと返事に困るところだったが、彼女は「ふうん、恋人はいつでも募集しているのに。残念ね」と呟いたきり何も言わず黙々と歩きだした。

 そうして会話が途絶えたまま数分、一本道だった歩行者用道路を十字路で折れて十字路に入ると、またしてもミオが立ち止まった。何があったのだろう、迷子になったのかと僕が訊くと彼女は首を横に振り、キョロキョロと辺りをあらゆる方向に視線を動かす。彼女らしくもなく落ち着かない様子で、まるで周囲を警戒しているかのような動作だ。

「どうしたっていうんだよ?」

「しっ! 黙って、私たちは今、生命の危機に瀕しているの!」

 そう言われたって全く分からないぞ、しかしミオは、剣呑な目つきで僕を睨みつける。それは今まで見たことがないほどに、強い意志を宿していた。まさかとは思うが、タケムラテクノロジーの最新AIである彼女を狙った闇の組織がここまで付いてきていたとか、そういう危機的状況じゃないだろうな、さすがの僕も口を閉じ四周警戒に移る。


――わんっわんっ!


 後方から聞こえた獣の鳴き声――ではなく、僕が振り返るとそこにいたのは、小型犬だった。しかも可愛らしいチワワだ、性格は荒っぽいとよく聞くが実際のところはどうなのだろう。伸縮式のフレキシブルリードに繋がれたその犬は、トコトコと音がしそうな足取りで僕らの元へ歩いてくる。うん、すごく可愛い。思わずその姿に頬が緩むも、

「こ、来ないで! き、来たら、容赦しないわよ……!」

 何やってんだミオ、彼女は腰を抜かし、震える手でカチューシャに手を掛けていた。

 こいつ、犬が苦手なのか? 恐怖に震えあがったミオの表情から、最新アンドロイドの最大の弱点を見抜いてしまう僕。面白かったので放置しておこう。

しかし、残念ながら彼女の言葉は、届かなかったらしくじわじわと、いや、普通に距離を詰めてくる犬、それを迎え撃つように決然と彼女がカチューシャを構えた。その刹那、僕の時とは比にならないレベルの凄まじい光と爆裂音を放つカチューシャもといスタンガン。こんなの当たったら死ぬんじゃないか、近くに立っているだけで熱を感じてしまうほどの電気量に僕が危機感を覚えると、命の危険を察知したのか犬が大きく飛び下がり威嚇するように吠えた。

「キャンッ!」

 その途端、迸っていた放電の輝きと音が消え去り、代わりに女の子の悲鳴が響き、

「ひ、ひぃい! も、もう無理ぃぃいいいいいい!」

 カチューシャを握り締め、情けないにもほどがある泣きっ面で逃げ出したミオ。二カ月ほど前までは、極悪非道な手段も厭わない鬼畜女だったはずだが、記憶と照らし合わせ僕は、その姿に開いた口が塞がらず立ち尽くしてしまった。

「俊足のランナーだ、百メートル走八秒台も夢じゃないかもしれない」そんな戯言を呟いた僕だったけれど、しかし、よくよく考えてみれば、ここが何処なのかも分からない場所で一人になってしまうのは、危機的状況なのではないだろうか。

「待ってくれ、ミオ!」

 全身全霊の力でスタートダッシュを決めた僕は、危うく見失うところだった彼女の背中を必死に追いかける。それにしてもとんでもない速さだ、狭い住宅街とは言え、走行中の車と並走して追い抜かすなどチワワに怯えて逃げ出した者の速度じゃない。

「お巡りさん、あの人、スピード違反ですよっ」どんどん小さくなっていくミオの背中に叫んで、しかし、とうとう僕は彼女を見失ってしまった。くそっ、これがドーベルマンサイズの大型犬だったらどうなってしまうんだ、それは今度学校で試すとして、呼吸と滝のように流れる汗を整えるべきだろう。「マジで、サイ、アクだ……」

しかし今日は、信じられないほど運が悪い。


        ※


 ぽつり、ぽつりと雨が降ってきて、次第にそれは土砂降りとなった。良くも悪くも、それは天気予報通り。傘を忘れてきたせいだ、僕はずぶ濡れになった。

「ミオ、こんなところにいたのか」

 迷路のような住宅街を歩き続け、偶然見つけた東屋のある小さな公園、そこでミオは、一人ポツンと、雨に濡れながら立っていた。びしゃびしゃだ、自慢の黒髪もせっかくのお洒落な服装も高価そうな腕時計も。僕は慌てて東屋の中に彼女を連れていき、椅子に座らせる。

 屋根の外は、雨の音で随分と騒がしかったけれど、屋根の内側は、世界が切り離されたように静寂を保っていた。どうしたんだよ、僕は物憂げな表情のミオに問いかける。

「私、その……落とした」

「落としたって?」

 僕が訊くと彼女は、ばつが悪そうに俯いて答えた。

「プレゼント」

 そう言われてみると彼女は紙袋をもっていなかった。どこで失くしたのかも分からないらしいけれど、きっとあの犬と出会った十字路だろう。僕は東屋の外を見て、思わず漏らしそうになった溜息を抑え、椅子を立った。

「どこに行くのよ」

「どこって、取りに行くに決まってるだろ」

「この雨の中、そこまでしてもらわなくていいわ。プレゼントだってびしょ濡れよ」

 それは一理あるかもしれないが、果たしてそんな簡単に諦めていいのか、午前中一杯悩むほどに、想いを込めた贈り物だろうに。たとえ彼女がそれで良くても僕が納得できそうもない、一歩東屋の外に踏み出すと強い口調でミオに呼び止められてしまった。

「待って……話すから、本当のこと」

「本当のこと?」躊躇いながらもようやく引き出した、そんな彼女の言葉に僕は、首を傾げる。今日のミオは、心なしか変だ。

「私、やっぱりプレゼントを渡すのは、やめようと思うの」

 やっぱり変だ、僕の中でふわふわしていた違和感が確信に変わる。「どうして?」

「午前中一杯悩んでいたというのは、嘘。本当は、ずっと渡すべきかどうか迷っていたのよ。だって私は、彼のことを大切な人と言ったけれど、相手にとってもそれが同じかどうかは分からない。ううん、多分私だって気付いてさえくれないわ」

 自分の一方的な感情なのではないか、そう思って踏みとどまってしまうことは、誰にだってあるだろうし、コミュ障の僕だからこそ、その怖さについては人一倍分かっていた。けれど、人間関係のファーストステップなど大体そんなもの、僕とミオだって彼女が友達になろうと言ってくれなければ、今頃何でもないただのクラスメイトだっただろう。

「それに、せっかくここまで来たんだ。その人に会うために、その、お洒落までしてきたんだろ? だったらここで諦めるのは、勿体ないって」

 普段は、どんな時も冷静で、その上自信過剰。しかし今は、正反対なミオに僕は言う。励ましたいという思いともう一つ、僕の個人的な興味を加えて。

「その人と初対面ってわけじゃないんだろ? 話したことは?」

「……ある」

 次の質問を言葉にしようとして、臆病な心が一瞬、喉の辺りでストッパーとなる。けれど、最終的には、興味が勝って詰まっていた言葉を押し出した。

「その彼とは、どういう関係?」

「それは、その……」

 僕とミオは、ただの友達。それなのに、彼女が次の言葉を探して視線を泳がせると、突然に疼き出した胸が切なくなって、どうにも落ち着かなくなる。きっと僕だけだ、僕が一方的に彼女へ執着心を持ってしまっている。それを悟られないように、いや、多分無理だろうな、それでも出来る限り自分を押し殺して彼女の言葉を待った。

 ああ、今の僕ってすげえ面倒臭いな。

「上手くは言えない。だけれど、大切な人……」

 自分という人間に気持ちの悪さを感じながら、もしかしてだなんて期待していた僕は、しかし、既に裏切りの予感を察していたにもかかわらず、怖いもの見たさで追及してしまう。

「好きなの?」

 言った僕は、少しだけ興奮して血の巡りが速くなっていた。

「……愛しているわ、昔も今も」即答できるほどに。

「そっか」

 沈黙が生まれたその瞬間、身体の内にこもっていた熱が消え失せて、速まっていた血液の循環が元に戻る。その間もミオの「愛している」が胸の中で何度も響いていた。

 何だかそれは、合格するかもしれないと期待していた高校受験が不合格だったときの放心状態に似ていて、何も言えずに僕は立ち尽くした。

 途端、ぱちんと小さな音がして、ミオが立ち上がる。

「あなたの言う通りね……加藤君」

どうやら自分の頬を叩いたらしい、それから彼女は、喜怒哀楽の表情を二度、三度と繰り返し作って、いつも通りの真っすぐな目で僕を見て言った。迷いのない声だ。

「こんなところで尻込みしている暇は、なかったわね。私、行ってくるから、あなたは雨に濡れないようここで待っている? それとも付いてきてくれるのかしら?」

 僕は、卑怯な人間だ。自分の執着心から出てしまった醜い言葉の中に、彼女が励ましの意味を見出して、それを訂正しようとせずに首を縦に振ってしまった。「付いて行くよ」

 彼女にとって良い人であろうとしてしまう、それが本当の善意ではないことを理解していながら。僕は自分の醜さを霧の中に隠した。


        ※


 視界不良の激しい雨の中、僕とミオは傘も持たずに住宅街を歩いていた。赤く輝く便利カチューシャが傘や雨合羽なんかに変形してくれないかなあ、なんて期待したけれど、さすがにそれはできないようだ。当然ながら僕らは、またしてもびしょ濡れになった。

「多分、あのチワワと出会ったところだと思うの」

 正直、思い直してくれたミオに申し訳ないけれど、贈り物が見つかって欲しい気持ちと、そうでない気持ちの間で、僕はもやもやとしている。その理由は分かっていた、ミオが彼のことを愛していると言ったこと、彼女の言葉が引っ掛かっている。

 醜い下心だ、心から彼女に協力したい素振りを見せておきながら、本心では自分の願望、彼女から特別に思われたいという自己の欲求に従っている。性質が悪いのは、その特別がどういう意味なのか、友達としてあるいは異性として、そういう本質を僕自身が理解していないことだろう。理解していないのではなく、理解しようとしていないのかもしれない。

 何だか、自分が気持ち悪くて嫌になりそうだった。そんな自分を放置しながら僕は、ミオの後ろに続いて歩く。

「この辺り、だったかしら」

 住宅街から歩行者用道路に通じる十字路へと辿り着いて、ミオは付近を捜索し始める。乗り気でないとはいえ、何もしないわけにはいかず、僕も反対車線を歩いてみたり、住宅街のゴミ集積所をそれとなく覗いたりしたが、中々見つかる気配がない。いいや、見つけたとしても果たして今の僕は、そのことを彼女に報告したのだろうか。自問に思考を支配されて、次第に僕は、アスファルトの上に落ちていた小石にさえ気が付けなくなった。

「ミオ、見つかった?」

 病は気からとは言うけれど何だか本当に気分が悪くなってきた、捜し始めてから一時間半ほど経ち、夜の気配が近づいてきて視界も悪くなる一方、依然として勢いが収まらない雨に打たれ続けている。服も靴も雨水を吸い込んで随分と重くなり、状況は最悪だった。

「ううん、見つからないわ……ねえ加藤君」

 先ほどから繰り返しているやり取り、その中に突然混じった僕の名前は、今までの言葉とは異なる色を持っていて、それに反応した僕はミオの方へ振り向く。

 振り返った僕を待っていたのは、

「もう、諦めましょう」

 綺麗で、優しい微笑みだった。

「加藤君、何だか体調が悪そうよ」

 それは教室で彼女が大勢に見せている姿で、本当の彼女とは異なる表面だけの顔。

 体調が悪い、気分が悪い、それは自覚している事実だったけれど、そんなことがどうでもよくなってしまうくらいに僕は、

「……嫌だよ、まだ捜そうよ」

 彼女から向けられた微笑みに、優しさに、気遣いに、距離感に傷ついてしまう。面倒な感傷、手放した方がずっと楽なはずのそれを隠したまま僕は、再びアスファルトに視線を向ける。そんな僕の背中に発せられた音は、柔らかな声だった。

「ありがとう、もう少しだけ頑張ってみるわ」

 隠しきれたことへの安心とは裏腹に、それ以上の寂しさを覚える、抱えてしまった感傷に心の何処かでは気が付いて欲しいという僕の真意が届かなかったからだ。

 訳が分かんねえな、僕って。

 ぐちゃぐちゃで、ぼろぼろで、吐き気がしそうな心を殺して踏み出した一歩。

「加藤君……? 加藤君っ!」

視界がぐらついて、空が突然、目の前に現れたと思うと、背中に強い衝撃を感じて、脳みそが揺れた。身体がだるくなってきたな、何だか吐き気もするし、気持ちが悪い。駆け寄ってきてくれたミオに抱き起され、僕は自分が転んでしまったことに初めて気が付いた。返事をしようとするも声が変に震えてしまう。寒い、長い間雨に打たれ過ぎたんだ。

 そのとき、クラクションが鳴って一台の車が僕らの近くで停車した。

「どうしたの? あれ、あなたたち」

 降りてきたのは、ぐらつく視界のせいではっきりとはしないが、声からして中年女性のようだ。それ以外は、何も分からない。

「これ、届けようと思って……それどころじゃなさそうだわ、熱があるみたい」

 そう言って、僕の元へと駆け寄ってきた彼女が、目の前に茶色い何かを置いた。

 段々と遠ざかっていく意識の中で、瞼を閉じる寸前に僕は、それがミオの捜していた紙袋であることを確かに見たのだった。「ああ、良かった」

 呟いて、僕の意識は瞼の裏に消えてしまった。


        ※


 目が覚めて、最初に見えたのは赤茶げた木目の天井だった。白い壁、いや、障子だろうか、畳の匂いもするし何だか暖かい、少なくともここが野外ではないことを理解して、身体を横に、寝返りを打つ。そうして分かったことは、この部屋が六畳ほどの和室であること、僕の身体の上に毛布が掛けられていたことと、それから、肌触りが良いと思っていたら服を着替えさせられていたことだ。情報量が多くて頭の回転が追い付かない、何とか身体を起こして周りを見渡すと十九時を示した壁掛け時計が目に入った。一時間ほど眠っていたようだけれど、まだ全快とはいかず、頭が少し、ずきりと痛む。思わず、額に手を当てると隣で声がした。

「あ、やっと目を覚ましたのねえ。体調はどう? まだ具合悪い?」

 傍で見守ってくれていたのか、見知らぬ女性が正座したまま、僕に話しかけてくる。物腰柔らかな話し方と優しい声だ、こちらの身を案じているようだった。

 焦点が合わず、仕方なく僕は、彼女を凝視する。

「えっと、その、良くなりました」

「それは良かったわあ、寒くない? 飲み物持ってきましょうか?」

 ぼんやりとしていた視界の焦点がようやく合い、はっきりとその女性の顔を認識すると、なるほど、道端で倒れた僕をここまで運んでくれたのは、あの運転手だった。

 白髪混じりの茶髪、目尻にできた笑い皺、目鼻立ちの整った綺麗な人だ。

「ああ、いえ、お構いなく……というか、ありがとうございます。着替えまで」

「いいの、いいの。主人の着てなかったやつだし。いやあ、でも、見つかって良かった。犬の散歩をしていたら角を曲がったところで、落とし物を見つけてね。多分、あなたたちの物なんじゃないかと思って、車で探していたのよ」

 飼い主さんだった。

 運転手、落とし物、ミオの贈り物。

 ああ、そうだ。「あの、僕と一緒にいた女の子は……?」

「ああ、あの子なら」と話し出した彼女の言葉に僕は、耳を傾ける。彼女は、僕が眠っていた間、ミオが傍を離れようとしなかったことや、とにかく心配そうにしていたことを教えてくれた。何でも、あまりにも震えが止まらない僕を温めようと車内で抱きしめてくれたらしいが、冷静に考えると彼女の冷たい身体や濡れた服のことを考えると、逆効果な気がしなくもない。とは言え、女性は話の中でミオのことを褒めに褒めまくっていた。

「ほんと、気遣いができて、優しくて、おまけに美人さんだし、今どきあんな子珍しいわよ。私の娘にも見習わせたいくらい。ねえ、彼氏さんなんでしょう? 大切にしなさいな」

「いや、えっと、はい」

 残念というか何というか、僕はミオの彼氏ではなかったのだけれど、でもまあ、彼女が僕のことをそこまで心配してくれていたというのは、素直に嬉しいことだ。彼女は、常にツンツンしているというか冷たいというか、ともかく、思わぬところで見えた彼女の一面だった。

「それで彼女は、どこに?」

「ああ、それなら今」

 女性が話していると障子が開いた。そこで立っていたのは、目覚める前とは違った服に身を包むミオだった。

 彼女と目が合って、しかし、すぐには言葉が出てこない。

 洗い立てのような艶やかな黒髪ロング、額を飾る赤いカチューシャ、白のリボンタイブラウス、藍色のロングスカート、彼女を上から下まで見下ろして、もう一度視線を上げようとして、アンティーク調の銀色スケルトン腕時計が反射し鈍く光った。

「ど、どう……なのよ」

 聞かれて、心臓が一度大きく音を立てる。そんなの、言葉が出てこないくらい。

「似合ってるよ」

 僕がそういうと彼女は、瞼を大きく開き、ほんのりと頬を赤く染める。それから視線を逸らすと左手で髪をかき上げて言った。

「あ、ありがとう……でも、そうじゃなくて、体調の方よ」

「ああ、えっと、大丈夫。心配してくれて、嬉しいよ」

 普段の僕らしくなかったかもしれないけれど、今は嘘をつく必要などない。思ったことを思ったままに伝えることにした。

「嬉しいとか変なこと言わないで。そんなの当たり前でしょう」

 そんな僕の態度に動揺したのかミオは、視線を泳がせて、しかし、仕返しとばかりに僕を睨みつける。思えば、彼女に対して素直な気持ちを伝えたことなんて数える程度しかなかったかもしれない。こんな風に照れたりすることを知らなかった。

 ならば今日は、出来る限り素直でいよう。明日も素直でいられるかは、分からなかった。

だから僕は、今日のこと、今の光景を忘れないよう、記憶に留める。

「あのーお二人さん、おばさん、いない方がいい?」


        ※


 しかしながら、とんでもない偶然もあるものなんだなあ、と僕は思った。あのチワワの飼い主さんがミオの落とし物を拾ってくれた女性で、僕を助けてくれた運転手さんもまた同じ人で、そこまでは、まあ、可能性として充分にありえる話なのだろうけれど、ミオが会いに行く予定だった「彼」の奥さんが、この女性だったとは。

 奥さんがいる、ミオはそんな人を好きになってしまったのか。いやはや、アンドロイドとは言え、どこの女子高生も、と言うと反感を買いそうだけれど、年上男性を好きになりやすいという僕の密やかな偏見は正しかったようだ。

 学校教師と生徒。

 奥さんには、申し訳ないけれど、ますますいけ好かない男だぜ。

 そんなことは、さておいて、僕としては。

 その話を聞いたとき、少々出来過ぎた偶然だとも思ったのだけれど、なあに、気にする必要はないだろう。ここまで来るのに、あれだけ大変な苦労をしてきたのだから、そろそろ僕らの戦いも幕を引いていいはずだ。

 どんな偶然も奇跡も因果関係も、今は必然だと信じようじゃないか。

「主人は、あと三十分もすれば帰ってくると思うわ。それまでは、居間で寛いでてね」

 そんなこんなで、心優しき奥さんの気遣いに甘え、僕らは居間へ向かったわけだけれど、そこにはなんとチワワが、あの最強AIをも恐怖で震撼させたお犬様が鎮座していたのだった。「わんっ」

「何やってるんだミオっ!? その凶器を人様の家の中で使おうとするな!」

再び、そんなこんなで、結局のところ僕とミオは、布団が敷いてあった寝室にて待たせていただくこととなった。

 旦那さんを待つことになった三十分、緊張しているのだろうか、ミオは壁掛け時計の前に正座してずっとその秒針を見つめている。頭がおかしいのは元々だとしても、少しだけ心配になった僕が彼女に声を掛けようと立ち上がった、そのとき、

「ミオちゃん、良かったらこれも持ち帰って」

 障子が開いたと思うと、そこに立っていたのは、両手に大きな紙袋を持った奥さんだった。

「これ、娘の服なの。もう使わないから」

 紙袋の中をぱっと見ただけでは、何着入っているのか想像もつかないほど重ねられた古着だった。僕には関係のない話だったけれど、驚きから思わず口を挟んでしまう。

「いいんですか、こんなに。娘さん困ってしまうんじゃ」

 奥さんの優しい人柄もあってか、何の考えもなしに聞いてしまった僕は、そのことを後悔した。彼女は、一瞬視線を泳がせて、それから微笑みを浮かべるとどこまでも優しい声で、答える。それは、その口から発せられた言葉とは正反対の声音で、しかし、僕に気を遣わせない、そんな思いやりも込められていたのだろう。

「娘はね、二年前に交通事故で亡くなったの。だから、おばさんとしてもこの服としても、ミオちゃんに使ってもらえると嬉しいのよ」

 それなのに僕は、「ごめんなさい」と沈んだ声で言ってしまった。

 もっと、明るい色を込めるべきだっただろう。

「良いのよ。一年前までは娘のことを思い出して、毎日のように泣いていたのだけれど、今は、主人のお陰かしら。あの人が連れてきてくれた子犬と一緒に生活して、少しずつではあるけれど、身の回りのこともできるようになってきたの」

 それに、と彼女は、ミオを見て続ける。

「いつまでも悲しむのは、娘が可哀想じゃない。私とあの子が一緒に過ごしてきた時間は、悲しいことばかりじゃない、幸せが詰まっていた時間だから……ふふ、ミオちゃん、あなたがその服を着てくれたとき、少しだけその幸せを取り戻せた気がしたのよ」

 次の一言、僕は、彼女の心からの言葉を、きっといつまでも忘れない。

「すごく、似合っているわ」

 何回も何十回も、その言葉が胸の奥で響いた。

 本当は、その言葉は、娘のためのもの。

 それなのに、これだけの優しさをもって、真心をもって、ミオにその想いを伝えられる。

 この人は、素敵なお母さんだったのだろうと。

 僕は、奥さんの細められた目、その瞳の奥にそんなことを思った。

「ありがとうございます。ぜひ、持ち帰らせていただきます」

 そう言って、立ち上がったミオは、奥さんの元へと歩いていく。

 てっきり僕は、紙袋を受け取りに行ったのだと思っていたが、違っていた。

「ミオちゃん……?」

 彼女は、歩み寄って、そのまま奥さんを抱きしめた。

 包み込むように優しく。

「亡くなった娘さんは、お母さんのこと……大好きだったと思います」

「…………」

「まだ、思い出して、きっと、辛くなることもあるかもしれませんが、お母さんを愛して、慕って、傍にいてくれる人は大勢いるはずです。だから、これからも先生と、それから、あの可愛らしい子犬と精一杯、楽しく、幸せになってくださいね」

 そして、一歩。

 ミオは、距離を取った。

 その表情は、僕からじゃ見えなかったけれど、

「今のお母さんを見たら、天国の娘さんも、新しい一歩を踏み出せると思います」

 きっと、本当の微笑みを浮かべている、そんな気がした。

 それからミオは、紙袋を受け取り、真っすぐな背を折って深々と一礼する。その角度は、九十度くらいだろうか、娘への追悼も込められていたのかもしれない。

「今日は、ここらでお暇させていただきます。先生も残業で疲れていると思いますので、プレゼントも機会を改めて尋ねさせていただきます。過分なもてなし、感謝申し上げます」

 そう言って振り返った彼女は、僕に表情を見せず玄関へと歩き出す。僕には、そっけないと思えるほどに迷いのない一歩だった。しかし、そんな彼女を奥さんが呼び止める。

「ね、ねえ、あなた……」

 ミオは、それでも振り返らずに答えた。

「私は、先生の教え子で、娘さんの後輩です」

「そう」

「ええ」

「元気に、ね」

「ええ、ありがとうございました」

 それを最後にミオは、部屋を出て行った。二人の様子を呆けて見ていた僕だったけれど、はっとして慌てて奥さんにお礼を伝え、ミオの後を追った。

 淡々と、玄関で靴ひもを結んでいた彼女の隣に腰を下ろし、僕もまた自分の靴ひもを結び直す。何かあったんじゃないかと思って、奥さんを抱きしめた理由を聞こうとしたが、結局僕は、その横顔を見て聞くのをやめた。

 何でもない、いつもの顔だ。

 尋ねたところで、からかわれるか、突飛なことを言いだすかのどちらかだろう。いずれにしても本当のことは、話してくれない。そう思って、僕は関係のないことを言った。

「満足したのか?」

 思えばこれは、彼女に連れられて始まった誕生日プレゼントを贈るちょっとした旅だ。

「ええ、満足よ。思っていた以上に、ずっと、ね」

 だからまあ、彼女が良ければそれでいい。「そうかい」

 言って僕は、靴ひもを固く結んだ。


        ※


 僕らの街、その駅のホームで最後に見た時刻は、確か九時十五分。多くの人が行き交う駅前を抜けて、こんな夜中も休まずに鳴き続ける蝉の声を聞きながら、僕らは住宅街を歩いていた。

 結局、ミオはプレゼントを渡さず、愛しの彼に会うこともなく僕らの街に帰ることを選んだ。本当のところ、それで彼女が満足しているのかどうかは、誰にも分からなかったけれど、今の僕の心境としては、何だかんだありながらも無駄足ではなかったのかなと思う。

 隣を歩く彼女が鼻歌なんか歌って何だか上機嫌っぽいし、それに僕のことを。

 いや、何だか超絶重い人間だと思われそうだけれど、ミオは倒れた僕を心配してくれていた。それがまあ、嬉しくて、今は、それだけで充分だった。

「それにしても、だいぶ掛かりそうだな」

 駅を出た時間からして、このままのゆっくりペースで歩けばミオのマンションに辿り着く頃には、半を回ることだろう。いつもより徒歩が遅いのは、両手に彼女の服を持っている僕がいるせいだ。僕なんかよりずっと怪力なミオが持つべきだろうけれど、奥さんに男の子なんだから頑張ってと言われてしまったからには、根性を見せるしかない。

「加藤君、見た目通りの非力さね。カッコいいわ」

「何だ、それ。馬鹿にしてるのか、褒めてるのかどっちなんだよ」

「もちろん、褒めているのよ。伝わらなかった?」

「はあ……どの辺りが褒めてるって?」

「たとえ力がなかったとしても、私のために頑張ってくれるところ」

「……」

 とんでもない萌え台詞だった。

「そういえば、あなたに渡すものがあるの」

 カウンター攻撃を喰らってしまった僕が押し黙っていると、突然ミオが立ち止まり、紙袋を降ろすように言ってきた。渡すものって何だろう、そう思って振り返ると彼女が、僕の腕に何かを通す。ひんやりと冷たく、硬い金属のような感触がして、彼女の手が離れるとその正体が露わとなった。

「腕時計……? でも、これって……」

 そこにあったものは、いつの日にか時計屋のショーケースで見た赤い腕時計。

 恐らくこれは、彼に贈るつもりだった物だ。

「私には、もう必要ない。今日のお礼だと思って」

「さすがに受け取れないよ、高かったじゃないか」

「大丈夫よ。出費に関しては痛手じゃない。元を辿れば、武村博士のポケットマネーから支払われているもの」

 もっと受け取れねえよ……いや、そうじゃなくて。

「また、会いに行くって言ってたじゃないか」

「もうあの二人に会うつもりはないわ」

「どうして?」

「立つ鳥跡を濁さず。元はと言えば、私は娘さんを亡したあの夫婦が上手くやれているのか、それを確かめるために、先生の誕生日を理由として会いに行っただけのこと。二人は、新しい家族を迎えて、最初の一歩を順調に踏み出せていた。そこへ、娘さんの後輩である私が関りを持とうとするのは、あの二人に過去を引きずらせることになるかもしれない」

 最もらしい理由に再び僕は、黙らされてしまった。

「それでもあなたが嫌だと言うのなら、取引をしましょう」

「取引……?」

 言って彼女が一歩前へと踏み出し、僕の耳元で囁くように言った。

「受け取ってくれたら、私の胸を揉んだ罪を帳消しにしてあげる」

 そして彼女は、甘い吐息のような声で続けた。

「何なら、あと一回くらい揉んでも良いのよ……はむっ」

「うわあっ!」

 何だ、何だ、何だ、これは。突然耳たぶを甘噛みされ、思わず僕は飛び退いて、格好悪く尻もちをついてしまった。そんな僕のことを彼女は、一体どんな精神力を保持していると可能になるのか、真っすぐな目で見降ろしている。

「まだ足りなかったかしら? 二回? 三回? さすがに四回は駄目よ」

「何で三回がよくて四回が駄目なんだよ! じゃなかった!」

 興奮気味に騒いでしまった僕にミオは、首を傾げた。本当に分からないのだろうか、僕がこの腕時計を受け取りたくない理由。

「あのさ、へ、変な勘違いすんなよ。僕が受け取りたくないってのは」

 我ながら妙な前置きをして、言葉を探す。

 なるべく恥ずかしくないものを探して、しかし、そのどれもが喉元でつっかえてしまう。

 何というか、その。

「嬉しくないんだよ……だって、これ、ミオがす、好きな人に渡そうとしてたやつだろ。結局渡せなくて、行き場がなくて渡そうとしてる相手ってことだろ僕」

 しどろもどろに、僕は続ける。

「何つーか、その立ち位置は、嫌なんだよ」

 彼氏の代用品みたいじゃんか。

 この微妙な嫌さ加減が伝わるかどうか、彼女は暫く僕を見つめていた。緊張と祈りの沈黙を経て彼女が紡ぎ出した最初の一言は、こうだった。「あなた、勘違いしているわよ」

「は?」

「私は、確かに彼のことを好きだし、愛している。だけれどそれは」

 それは。

「お父さん的なノリでのこと。そこに恋愛感情なんて無いわ」

「……」

「なるほど、分かりました。それで加藤君、東屋を出てからというもの口数が少な」

「やめてやめてやめてっ! お願いだから! 何にもないから!」

 馬鹿みたいじゃないか、僕。

「ふうん。ああ、そう。なるほど。だったら良いことを教えてあげる」まるで僕の反応を咀嚼するように言って、それから彼女は尻もちをついていた僕に手を差し伸べた。

 その手の意味を考えて、ぼんやりと見上げていると彼女は言った。

「こう見えても私、あなたのことを男の子として見ているのよ」

 熱い、耳たぶが熱いとかそういうレベルではなく、身体の中が燃えているんじゃないかというくらいだ。言葉を返そうにも、どう足掻いたって出てきそうになかった僕は、彼女の飴色の瞳から逃れるようにその手を取ることにした。

 そうして黙ってまま紙袋を持とうと彼女に背を向けるも、ミオの手が僕を離そうとしなかった。力強いが震えを感じる、僕が驚いて振り返るとミオは、

「どう思ったかくらい……聞かせなさい」

 言い終えて彼女は、唇を引き結ぶと視線を繋がれた手に落とした。

 赤くなった頬と耳たぶ、不安気に揺れる瞳。

僕を繋ぎとめる手は、小さく震えている。

 そこにあった彼女は、普通じゃない表情を浮かべていた。

 何だよ、ミオも一緒だった。

 だったら、こんな、思わせぶりなこと言わなきゃいいのに。静かにそう思って、けれど、彼女の様子に救われたのも事実で、だから、

僕は、言えた。

「腕時計……大事にする」

 つっかえていた言葉を押し出して、続ける。

「お返しもする。誕生日とか、あるなら、教えてくれよ」

 そこで彼女は、ようやく僕の手を離し、微笑んだ。作ったような笑みだったけれど、今の僕には、そこに触れる勇気も余裕も残っていなかった。

「十二月二十五日よ、楽しみにしているわ」

 その後、彼女のマンション前までの時間、およそ十五分間は、僕らの間に流れていたのは沈黙だ。しかし、それは嫌なものではなく、かといって居心地が良いものかと言われれば微妙なところだが、いつまでも続いて欲しいと、そんな風に感じる時間だった。

「それでは加藤君、気を付けて。良い休日を」

 軽く手を挙げて回れ右、最初の一歩を踏み出して、僕は彼女のマンションを離れていく。今日は、本当に何でもない一日だった。クラスメイトが一人欠席しただけの日で、友達と遠出しただけの日で、その友達とは結局友達のまま、何も変わらないままに終わる。

 変わらなかったけれど、二つ、分かったことがある。

 アンドロイドのミオ、彼女がアンドロイドだからと考えないようにしていたけれど、僕は彼女のことが気になっている。

 それから。

「ミオも、僕のこと」

 人間の僕のことを気になっている。

 僕らの「気になっている」が特別なものかどうかは、まだ分からない。

 まだまだ、未確定だ。

 けれど、それがいつか。

――分かると良いな。

 そう思いながら踏み出した二歩目、僕の背後でガタンと物音がした。

 あまり大きな音ではなかったが、日常的には聞かない異質な音に僕は振り返る。

 そこで僕が目にしたもの。

「ミオ……?」

 うつ伏せに倒れたまま動かない、そんなミオの姿がそこにはあった。

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