第2話
アンドロイド女子高生が日野宮高校に入学してから二週間、世界初の心をもったアンドロイドであるミオは、今や校内で最も話題の中心にいる有名人となっていた。しかしながら、彼女が心をもっているために有名であるのかと言われれば多少の語弊というか誤解があるだろう。なぜなら彼女を有名たらしめた出来事は、つい最近の中間テストなのだ。
と言うのもミオは、廊下の電光掲示板で発表された成績順位にて堂々の一位を取った上に、五教科五百点満点中四百九十八点という成績を収め、落とした二点についても、新人教師の作成した問題の方に間違いがあったようで、実質的には満点を取っていたらしい。そんなこんなで、うちのクラスに満点を取った転校生がいるらしいという噂が学年を超えて校内に広まり、面白半分で教室を訪れた彼らは、そこで初めてその生徒がアンドロイドであることを知った。つまり経緯としては、中間テストで満点を取った故に心を持っていることが知れ渡ったというのが正確だろう。
しかしながら、そんな彼女を称賛する声が半分、否定する声が半分。
「アンドロイドなんだから満点を取って当然じゃないの。てか、もう私たちが勉強する意味ないよね」と分からなくもない不満を漏らす者もいたわけで。しかし心優しきミオは、そんな彼ら彼女らの気持ちを蔑ろにしなかった。
「ごめんね、嫌な思いさせちゃったよね。だけど私、みんなの先輩方のためにも満点を取らなきゃいけなかったの。だって私のAIは、彼らの惜しみない努力の賜物で彼らがくれた私への贈り物で……他に恩返しの方法が思いつかなくて私……わた、し」
「ご、ごめん! 私らが悪かったから、泣かないで」
「分かってくれるの? 優しいなあ。ありがとう……!」
「うんうん。あ、ミオちゃんがもし良かったらさ、今度、一緒に勉強させてよ」
「もちろん! え、えーっと、一生懸命教えるねっ! かお……加奈ちゃんに!」
前言撤回しよう。ミオはそんな彼ら彼女らの根本的な不満には触れず、同情を誘うことで危機を脱したのだ。何はともあれ、午前中から放課後になるまで持ち前のコミュニケーション能力で多くの生徒と交流を深め、彼女は無事にこの学校の人気者となっていった。
この様子だと、各学年に一クラス分の友達を作る程度、余裕そうだった。とは言え、
「ようやくあの煩わしい連中が消えてくれたわ」
放課後、教室から生徒がいなくなるとミオは、おもむろに頬杖をつき、まるで共感を求めるようにこちらを見てそう言った。
残念ながら僕は、お前の腹黒さには共感できてもその煩わしさとやらは理解できないね。
「そういえば加藤君、前々から思っていたのだけれど、あなたって本当に友達がいないのね。私以外にも作ってみたらどうかしら。良かったら私の友人を分けてあげてもいいのよ」
「僕のぼっちをいじるのは良いとして、友達って分けられるもんじゃないだろ……」
「え? 分けられないの? 分裂できないの? 人間ってミカンヅキモ以下なのね」
ミカンヅキモ? 何だそれ、ミカヅキモの言い間違えか? しかし、あの五百点満点を叩きだした彼女が言うんだ、訂正すれば恥をかくかもしれない、そう思って、
「ミカンヅキモ、ああ、ミカンヅキモね。あれほど高尚な生物じゃないよ、人間は」
僕がそう返すと、しかし彼女は、それを鼻で笑って呟いた。「何を言っているの?」
「そこは、ミカンヅキモじゃなくてミカヅキモだろっ! どんなミカンだよってツッコみを入れるべきよ。そんなことにも気が付けないだなんて友達が出来ないのも納得ね」
「……おい、お前今日一人で帰れよ。僕も今日一人で帰るから、友達なんていらねえから」
「帰る前に図書室で小学校の理科を再履修することね」そう言って彼女は、鞄を手に取り席を立つ。「馬鹿な話もほどほどにして帰りましょう。今日は、寄りたい場所があるの」
「寄りたい場所?」
「今日は、書店とメガネを買いに行きます」
「書店とメガネ? インテリ系キャラでも目指すのか?」
「あら、冴えない加藤君にしては良い予想ね。概ねその通りよ、今回の中間テストを経て生徒たちの私に対する評価を分析した結果、周囲がアンドロイドである私に求めていることは教師的要素だと結論付けたわ。つまり、私が周囲に売り込むべき要素、私のセールスポイントはこの天才的な頭脳というわけね」
「ええっと……ミオを友達にすることで勉強しやすくなるってこと? それでキャラ付けのために書籍とメガネを持ち歩こうって?」
「その通りよ、尤も、勉強を教えるつもりなんて毛頭ないのだけれど、さっさとノルマなんて達成したいもの。それでは行きましょう」
すっげえ打算的だった。
「……」
しかしまあ、インテリ系か。メガネと本を持ち歩いているのは鉄板だとしても(異論は認めよう)、彼女の髪型も黒髪ロングから三つ編みおさげへとクラスチェンジするのだろうか。
「というか、そのインテリ系キャラのイメージ像、ギャルゲー知識じゃん」
まさかこのアンドロイド、隠れギャルゲーマーなのか?
教室を出て歩きながらそんなことを考えていた僕は、しかし意識を思考の方へ回しすぎたのか、正面から歩いてきたらしい生徒とぶつかってしまった。「ああ、すんません」反射的に謝罪して、それから僕はぶつかった相手を確認する。
「え、えっと、大丈夫です」
風が吹けばかき消されてしまいそうな声、ミオや僕と比べて随分と背の小さい女子生徒だが、上履きを見たところ上級生のようだ。その容姿は、栗色のくせ毛で前髪が目元にかかるほど長く、全体的に伸び放題といった感じであり、僕が言えた口ではないが絵に描いような地味子だった。特筆すべき点があるとするならば細いウエストに反して大きな胸だろうか。服の上からでも分かるくらいにたわわな膨らみ、ミオとは格が違った。
「あ、あの、もしかして隣の方が武村ミオさんですか?」
彼女の息遣いに合わせて僅かに揺れる胸の膨らみ、なるほど、容姿の地味さと挙動不審な言動は、こちらの部位を強調するためだったのか。
「えっと、き、聞いてます?」
「大丈夫、見ていますので……いっ!」
「痛いっ!」そう言おうとして、しかし言い終える前に僕は、突然踏みつけられた足の激痛に喘いでしまう。死角からの一撃、それはミオによるものであり、僕が視線で痛みを訴えると患部を踵でねじり追撃してきた。やばい、ミオの力でそれはやばすぎる。
「はい、私が武村ミオですけれど、何か御用でしょうか?」
物腰柔らかに、表の顔でミオがそう言うと女子生徒は、もじもじした様子で答えた。
誰だろうなんて思っていたけれど、
「た、たけ、武村博士の姪、奈々子です……今から、私のラボ、に来て、もらえますか?」
それは、意外な人物だった。
※
武村奈々子は、あの大企業タケムラテクノロジーの創設者である武村博士の姪にして、
日野宮高校第二学年アンドロイド研究開発部に所属する唯一の部員だ。とは言え、僕は彼女のような有名人の一族が校内にいたことを知らなかったし、体育会系の部活動が活発な我が校にこんなにもクリエイティブでハイテクな部活があったことさえ認知していなかった。
「ど、どうぞ、き、き汚いですが」
仄暗い旧校舎の廊下を歩き、彼女に案内されるまま第二視聴覚室へ入るとそこには、変わった空き教室の風景が僕らを待っていた。
窓のない閉鎖的な空間、廊下側の壁には書物がびっしりと詰まった本棚、出入口から見て右奥には組み立て途中だと思われる機械の数々とあれは何だろう、いくつものホログラム映写機、床への設置型から壁掛け型まで、様々なところから図面が宙に投影されていた。
「あ、あれはね、この子の設計図、だよ。ホログラムって見ながら作業するときに、便利」
彼女がそう言うと奥から現れた小型ロボット、頭にお盆を乗せた円柱形のフォルムが愛らしい見た目をしている。床のあちらこちらに見られる黒い汚れは、小型ロボットの車輪の跡だろうか。研究設備っぽい物がそれくらいで、後はコーヒーメーカーやら冷蔵庫、扉を開けて真っすぐのところに向かい合うように置かれた二つのピンクのソファ、その間に置かれたウサギの顔型テーブルが妙に生活感あふれている。ラボというだけあって、もっと武骨で無駄のない空間を想像していた僕としては、何だか拍子抜けだった。
それにしてもこれだけの環境が一人のために用意されていると思うと、タケムラテクノロジーの令嬢というのは、嘘ではないのだろう。「そ、そ、ソファへ、どうぞ」
とは言え、武村博士と同じ研究者というからには、どこか変わった部分があるのかと思っていたけれど、妙などもり癖以外におかしなところはなさそうで少しだけ安心した。
「それで奈々子さん、私に話しというのは?」
ソファに腰掛けると小型ロボットが頭のお盆に紅茶の入ったティーカップを乗せて運んできてくれた。円柱形の金属ボディ、恐らく顔だと思われる位置にタブレットが取り付けられ、画面に二つのちょぼ目が映し出された可愛らしい、アンドロイドカフェにいそうなメイドロボットだった。僕らの向かいに座った奈々子は、ぼんやりと湯気を眺めながら答える。
「た、単刀直入にお聞きしますけれど、この学校に来た理由、そ、その、アンドロイドと人間のコミュニケーションテストというのは、う、嘘ですよね?」
ミオが首を傾げると、奈々子が続けた。「私には、あ、あなたが人間に見える」
「産業アンドロイドとは違う、ささ、産業アンドロイドは、人間に出来ないことを、や、やってくれるから、こそ需要があるけれど、あ、あな、あなたは違う……」
言葉の意図を掴みにくい物言い、それは僕がアンドロイド知識に疎いからという理由ではなく、奈々子が話し慣れていないせいだろう。そんな僕の思いを察してくれたわけではないだろうが、ミオが「要するに」と話してくれた。
「人間そっくりの私のようなアンドロイドは、需要がないと仰られているのですね」
奈々子は、委縮するように肩を縮めたがやがてこくりと頷き、細々とした声で話し始めた。
「す、既に充足された存在、人間を作る意味はあんまりない。叔母……武村博士は、み、未充足の需要を考えてロボット開発に乗り出してきた人。む、無駄なことはしないはず」
無駄なこと、ミオの存在が。
「なのに多額の資金を費やしたからには、別の目的があると、わ、私はそう思ってる」
ミオと相変わらず俯いたままの奈々子との間に重たい沈黙が横たわる。ミオはアンドロイドだ、こんなことを言われたって不快に思ったりはしないだろうと横目に彼女の表情を窺うと、いや、はっきりと分かるくらい眉間に皺を寄せていた。
「あ、あのーこの紅茶、おいしいなあー」何とか話題を逸らそうと試みて僕が呟く。
「え? あ、ありがとう……お、お菓子もある、よ。ケーキ持ってきて」
そんな僕の試みは、意外にも成功したようで奈々子がやや視線を上げてそう言うと、先程紅茶を運んできてくれた小型ロボットが奥の冷蔵庫からケーキをテーブルの上に二つ並べてくれた。どうやって紅茶を淹れたのだろうと思っていたけれど、普段は円柱形のボディに伸縮可能な手を格納しているようだ。
「ロボタン、命令。えっと、紅茶のおかわり」
ロボタン、それがこのロボットの名前らしい。見た目相応の可愛らしい名前だなあと、そんなことを思いながらロボタンを眺めていると、突然隣でミオがはしゃぐような声で言った。「わっ、イチゴのショートケーキ! 私これ好きっ!」
それから両頬に手を当ててうっとりとイチゴを見つめるミオ。ゲームセンターで一度見たときのような平常時とは明らかに異なる様子だった。食べ物は食べられないと言っていたような気もするが、ぶよぶよと同様に興味を惹くものがあると幼児退行化してしまうのだろうか。だとしたらとんでもないシステムだ、一体どれだけの顔を持っているのだろう。
「み、ミオさん……?」戸惑いの声で奈々子が言うとミオは、はっとした様子で僕らを見渡し小さく呟いた。「す、すみません。何でもありません」
そして、妙な沈黙が生まれる。ミオは、気まずそうに奈々子から視線を逸らし、奈々子は奈々子で混乱しているのか、口を開けたまま固まっていた。何か言い出せるとしたら僕しかいない、そう思って言葉を探していると、
「へえ、奈々子に友達出来たんだ。ウケんだけどっ」
乱暴に扉が開かれ、見覚えのない金髪の男女が、何の躊躇いもなくラボへ入ってきた。制服を着ていることからこの学校の生徒なのだろうけれど、随分と着崩した格好からしてこのラボの研究員という風体ではない。
二人が奈々子とどういう関係なのかは分からないけれど、それにしたって、
「どうせ、金で釣ってるだけだろ……つーかさ、そんな金あるなら俺たちにくれね?」
あまり良い関係ではなさそうだった。男女が似たような、下卑た笑みを浮かべて奈々子の両隣に腰を降ろす、間に挟まれている彼女は、少なくとも面白そうな顔はしていなかった。
心の距離を感じ取れないのだろうか、男が奈々子の首へ腕を回すと彼女が明らかに委縮して目を合わせないよう視線を逸らした。
「せ、せ、せせ、先週、も、わ、渡した、はず、だけど……」
まあ僕にとっては、何の関係もないことなのだろうし、何があったのかも分からないのだから触れるべきではないのだろう。
頭で分かっていながらそれでも僕は、自分を隠すのが下手だったらしい。男は、僕の視線に気が付いて表情を歪める。はっきり言って、その顔さえも不愉快だった。「何だ、お前」
一触即発。
「別に、何でもないよ。でもさ」
奈々子先輩が嫌がってるだろ、そう言おうとして、しかし言い終える前に僕は、それを遮られてしまった。
「奈々子さん、お紅茶ありがとうございました。話の途中で申し訳ないのですが、今日はここら辺でお暇させていただきます」
そう言って、鞄と僕の腕をやや乱暴に掴んだミオは、迷うことなく僕をラボの外へと連れ出した。「ちょ、ちょっと。おい、ミオ!」
何も言わないミオに引っ張られながら、一体どうしたというのだろう、その理由を考えて、しかし分からず、ラボから遠く離れた廊下で立ち止まった彼女の背中に僕は尋ねた。
「奈々子さん、彼女がクラスメイトから強請りを受けていることは、博士から聞いていた」
「だったらどうにかしてあげないと」
「そうね、きっとあなたが言っていることは間違っていない」
けれど、とミオは、淡々と表情一つ動かさずに言う。
「それでも、あの男女が強請りを掛けている生徒は、奈々子さんだけではない。友達のいない加藤君は、知らなかったのでしょうけれどそれはこの学校内では有名な話」
確かにそれは僕が知らない情報だった。知る由もないことだった、けれど、それが奈々子を見捨てる理由にはならないだろう。寧ろ、それだけのことを知っていてどうして誰も、強請りを止めようとしないのか、そのことが分からなかった。
彼女は、僕を見て言う。
「彼らの両親は、この私立高校に多額の資金を融資している。端的に言えば、ここの最高権力者が彼らの行いを見て見ぬふりで済ましているの。だから、誰も逆らえないし、逆らったとしても次の被害者になるだけ」
「……そんな、嘘だろ」
「本当よ。仮に奈々子さんを助けられたとしても、次の被害者はあなた。そしてあなたが被害者になったとしても、全員が救われるわけではない」
冷たい声で彼女は、僕に言う。
「だから、今日のことは忘れなさい」
※
僕は、彼女との出会いを朧げに記憶している。確かあれは、小学生の頃のことでいつも通りゲームセンターでぶよぶよをしようと、ビデオゲームフロアを訪れた日のことだ。
「またあの子が座ってる……強いんだよな」
当時通っていたのは、田舎町の小さなゲームセンターであり、店を訪れるゲーマーの顔ぶれも人数も大体変わらないせいか、店内対戦を募集すると僕と彼女がマッチングすることが多かった。その度に僕は負けて、負け続けて、そんな対戦相手を哀れに思ったのか最初に話しかけてきたのは彼女の方からだ。
「一緒に練習しようよ」
黒髪ポニーテールと特徴的な飴色の瞳、僕と同い年くらいの女の子だろうか。弾けるような笑顔が、ゲームセンターに太陽はないはずなのに眩しかった。
「……うん」
簡単に気を許すようなことはしない。初対面ではないにせよ、一度も話したことのない相手に話しかけられるなんて、きっと僕とは正反対の人間だ。そう思っている矢先、予想通りというか彼女は白い手を差し出してきた。僕は、そんな表向きの馴れ合いを煩わしく思いながらその手を握ったのだけれど、そこで彼女の手が微かに震えていることに気が付いたのだ。すると彼女は、ほっと息を吐いた。
「あー緊張したー」
酷い手汗だった、どうやら彼女も僕と同じ側の人間だったらしい。
「じゃあ、レッツぶよ勝負、だね」
それから僕らは、何度も対戦を重ねるうちに打ち解け、ゲームの話で盛り上がって、週に何度か訪れる二人の時間を楽しみに思うようになっていった。
今になって思えば可笑しな話だ、名前も知らない相手を唯一の友達だと感じていたのだから。それから僕らは、ごく自然な流れでゲーム以外のお互いの日常に興味を持つようになり、会う度に一つ自分たちの日常を明かすことにしたのだ。
そんなある日のこと、僕たちの関係に転機が訪れる。
「あれ、じゃあ同じ小学校?」日常を明かす話の流れでそのことを知った僕は、つい声を弾ませてしまった。それから先は、ごく自然な流れだったように思う。
「じゃあさ、学校で会おうよ」
けれど、
「え……そ、それは」
彼女の表情が曇って僕とは会いたくないのかな、なんて思いもして、それを問い詰めるのには、少しだけ勇気が必要だったけれど、それでも僕は、学校で、日常で、彼女に会いたかった。
「ごめん、やだった?」
心臓の音を隠して僕は言う。彼女は、数秒迷ってそれから言った。
「……いいよ、啓一くんなら。えっとね、私のクラスはね」
そうして僕らの日常は、偶然にも重なることとなる。
会う時間が増えること、相手の知らない部分が見えること、それがどうしようもなく嬉しくて楽しくて、今にも走り出しそうな心を抱えて僕は、彼女のクラスへ向かった。
けれど、彼女の教室で僕が目の当たりにしたものは、想像した風景と大きく違っていて、
教室で飛び交う彼女の悪口、一歩教室へ足を踏み入れた瞬間に、僕に突き刺さった視線。
「啓一くん……」涙に揺れる瞳を彼女がこちらに向ける。
その惨状を前に僕は。
「何もしなかった。見て見ぬふりをした」
それからも、彼女とのゲームセンターでの交流は続いた。
今まで通り、何事もなかったかのように。
僕が記憶しているのは、そこまでだ。それから数年が経って小学校五年生になると、僕は両親の離婚を理由に東京へ引っ越した。
どうして何もしなかったんだろう、今でもそのことを後悔している。
「教えてくれてありがとう」
本当の名前さえも知らない彼女のことを僕は思う。
君はどうして、僕に教室を教えてくれたのだろう。
僕だったら助けてくれると期待していたのだろうか。
多分、分かっていた。分かっていながら僕は、逃げる方を選んだ。
その選択が後の人生にどう影響したか、僕は痛いほどに理解している。
自分を嫌いながら恥じながら、その苦痛に耐えていたのだから。
そんな後悔を抱えて生きるくらいなら、大袈裟に言って、死にながらに生きるくらいなら。
「それでも僕は、あの人を、奈々子先輩を放っておけないよ」
ミオの眼光が一層鋭いものへと変わり、そして次の瞬間、頬に強い衝撃が走った。ミオにぶたれたらしい。彼女の真っすぐな瞳を見て、すぐにそれを理解した。
ぶたれた頬が廊下に流れる冷たい空気に触れて、じんわりと痛む。これは後々腫れてくるかもしれないな、頬を撫でているとミオが言った。
「この手のいじめは、あなたが行ったところで何も変わらない。標的が変わるだけ」
――こう見えても私は、何度もそういう事態を見てきた。
言ったミオの口調は、力強いものだった。
「奈々子さんのどもり癖、あれは恐らくストレスによる後天的なもの。あの二人は、何の理由もなく快楽のために彼女を傷つけている。理由がないものを止めることなんてできない」
「……」
「あなたは分かっていない。虐めの恐ろしさを」
ミオの言っていることは、恐らく正しいのだろう。
けれど僕は、一人で生きてきたが独りになったことは決してなかったし、いじめを受けた経験もない。だから、
「分かんないよ、僕には」
僕に分かる怖さは、何もしないで悔いる怖さだけ。
「でも、放っておけないんだ」答えて僕は、ミオに背を向ける。
一歩踏み出して、しかし段々と重くなるその足を、男女に挟まれた時の奈々子の表情を思い出しながらもう一つ前に動かす。
「加藤君、私には理解できないわ」廊下にミオの声が響いた。
「あなたが彼女を救っても、全員が救われるわけじゃないのよ」
僕はきっと偽善者だ。目の前の、不愉快な光景に自分が耐えられないだけなのだから。
「奈々子さんとは、今日会ったばかりじゃないの。他人よ、放っておけばいい」
他人、他人か。その通りだろう、奈々子にとっては僕なんて誰でもない人だ。けれど僕は、そんな何でもない人の表情でさえ、心でさえ、想像してしまう。
それは恐らく過剰なのだろうけれど、それでも僕は。
立ち止まって、振り返らずに僕は言う。
「それでいいよ」
返ってきたミオの言葉は、小さく震えていた。「私は」
「正直なことを言うと、奈々子さんのことが好きじゃない。そんな人のために、自分の友達が傷つくところなんて見たくないの」
傷つくところなんて見たくない、誰だってそう思う心が備わっている。けれど、僕の心は、きっと弱くて脆い。
「どうして……なの? あなたがそうまでして彼女を助けたい理由は?」
聞かれて、無意識のうちに僕の頭は考えて、答えを出していた。
僕がもしも奈々子だったら、きっと誰かに助けて欲しいと思ったはずだと。
ああ、こういうところが僕の要領の悪いところなんだろうな。
誰かが苦しむ姿を、誰かが痛がる姿を、黙って見ていられない。耐えていられない。
いつの日からか、僕はそんな体になってしまっていた。
生きるのには物凄く不都合な思考だ、けれどミオ、お前が言ってくれたんじゃないか。
そこが僕の美点で、僕と友達になりたい理由だって。
だから僕が、僕らしくあることに、
「理由なんてないよ。彼女が可哀想だから放っておけないだけ」
それだけで僕には充分だった。
※
「どうしてでもくれないんだったらウチらにも考えあるんだけど」
ソファの上、下着姿の奈々子を押さえつける男とそれに携帯のカメラを向ける女の姿、ラボの扉を開き、その光景を目の当たりにすると僕は考えるよりも先に走り出して、男を殴りつける。できる限り勢いをつけたこともあり、男の身体が僅かに飛んでテーブルに背を打つと、その衝撃で板が真っ二つになった。引きこもり歴年齢の僕のパンチが強かったのか男の身体が重かったのか、出来れば前者であって欲しいところだが。
「いってえな」
そう上手くもいかないようだ。男は、怠そうにのっそりと起き上がると割れた板の片方を手に取り、下卑た笑みを浮かべながら徐々に距離を詰めてくる。一歩、一歩と迫ってくる男に合わせてこちらも離れていたが、やがて壁の際まで追い込まれてしまう。危機的状況、おまけに僕の足は、武者震いとは別の純粋な震えで言うことを聞いてくれない。
「追い詰めたぜ、おらッ」
そんな僕の気持ちなど当然関係なく、男は僕の首筋目掛けて板を振り下ろしてきた。衝撃まで凡そ瞬き一回分の時間、回避の余地も余裕もなかった僕は、反射的に両腕で防御に徹する。「ぐッ!」それでも襲い掛かってきた一撃は、想像を絶するような衝撃と痛みを有しており、僕の身体は軽く地面に横倒しとなってしまった。
起き上がろうとするも、打ち付けられた衝撃で腕が痺れて力が入らない。そのとき視界の端に痛々しい僕を見て涙を流す奈々子が映った。「ダサい、ダサすぎんだろ僕」思わず乾いた笑いが漏れる。そんな僕の顔を男は容赦なく踏みつけて言った。「何しに来たのお前?」
言いながら男は、軽く助走をつけて僕の腹部を蹴った。サッカーボールを蹴り飛ばすみたいに。凄まじい衝撃、それが身体の内側で響き、痛みと気持ちの悪さが僕を襲う。たまらず胃液を吐き出してしまった。そんな僕の身を案じてか、奈々子が小さく叫んで言った。
「や、や、やめ、やめて」
「うるさいんだよ、お前」
言って女が奈々子の髪を掴み、彼女をソファにねじ伏せる。
「先輩に触るな! その手をどかさな――ぐっ」僕は叫んで、しかし言葉半ばで胸の辺りに蹴りを入れられてしまう。痛み、痛み、痛み、痛み、それから吐き出してしまったものは、真っ赤な血だった。「どうなんだよ? 手をどかさなかったら?」
一体全体何が起きているのか、上手く呼吸ができない上に痛みで身体が言うことを聞かない。泣き喘ぐ奈々子を前に僕は、だらしなく横たわっていることしかできなかった。
絶望的。そんな僕のことを見ながら女が言った。
「ねーあんたさ、ヒーロー気取ってんならやめときなよ。奈々子がいつ助けて欲しいなんて言ったの?」
「……聞くまでもない、だろ。嫌がってる」
「じゃあ、奈々子に聞いてみよっか。ねえ、奈々子、こいつに助けて欲しいの?」
痛々しい、酷く悔しそうに表情を歪ませた奈々子は、その問いかけにすぐには答えず、数分の間黙り込んで、しかし、それから決然とした表情になって小さく口を開いた。
彼女がその問いかけに何と答えるか、僕は耳を傾けて、そして、
「た、助けなんて、い、いらない」
重たい、重量のあるものを引きずり出したみたいにゆっくりと、苦しそうに言った。
拒絶、拒絶してしまうほどに苦しいのだろう、自分の面倒事に誰かを巻き込むことが。
「ほーら、聞いてたでしょ。だからあんたさあ、もう――」
その気持ちが、僕には痛いほど分かるよ。きっと、彼女と僕は似ているのかもしれない。僕は、女の言葉を遮って、
「嘘なんかつかなくたっていい」
奈々子だけを真っすぐに見る。彼女は、驚いたように目を見開いて、それからその瞳がきらりと、涙の膜が覆ったように揺れる。
「少しだけ、待っててください」
なんて、かっこつけた僕だったけれど、どうやらそれは叶えられそうもない。体も心も、疲れ切っていて思うように動かなかった。たった今、答えたのが最後の一滴だったらしい。
相変わらず、決まりが悪いなあ僕って。
そう思って、自然と瞼が閉じられていったそのとき、
ばちっ、乾いた音が響いた。
瞼が腫れているのか狭い視界の中で、僕は音のした方を見る。そこで目にしたもの、どうやら僕は、まだ何も終えられていなかったようだ。
振るった手を握り締めて奈々子は、肩で息をしながら女を睨みつける。
「いったいなあ。何すんだよ、奈々子っ!」
ばちんっ、先程よりも力強い音、躊躇いのない速度で女が奈々子をぶち返した。
「はは……」それを見て思わず、乾いた声が漏れた。
そうだ、僕はまだ諦めちゃいけない。ゆっくりと、少しずつ、指先から手の平に、手の平から腕全体を動かす。頑張れ、頑張れ、頑張れ、自分で言い聞かせられるのは、まだ戦う力が残っている証拠だ。
「何だ、まだやんのかよ」
起き上がることは出来ずとも、残された力で男の足にしがみつく。僕は弱いから、喰らいつくことしかできない。
まだ終わってない、心の中で呟いて男のズボンの裾を強く握る。そのまま男の身体を壁にして這い上がるように身体を起こす。しかし、男もそんな僕を黙って見守ってくれるほど寛大ではないらしく、何度も顔面を殴ってくる。こうなってくると我慢比べだ、殴られながら僕は、雄叫びを上げて痛覚を誤魔化し、そして。
「やっと……つか、まえた」
ようやく立ち上がった僕は、十センチほど真上にある男の顔に向かって、にへらと笑って見せた。玉のような汗が目に入ったが、そんなことは気にも留めず男の顎を視界の中心に捉える。深く、一度だけ深く息を吐いた。
渾身の一撃、拳を強く握り締める。
僕はまだ何もやっていない。奈々子をこの部屋から連れ出しちゃいない。
そうして拳を打ち込もうとした瞬間。
「うっ!」
男が小さく呻き、その場に崩れ落ちた。何が起きたのか、混乱して目前で横たわる男を見つめていると突然、聞き慣れた友人の声が僕を呼んだ。「加藤君」
「いえ、あなた加藤君というのね。初めまして私の名前は――」
一学年の青と白を基調とした上履き、すらりとした細長い脚を際立たせる黒タイツ、ブレザーの上からでもはっきりと分かる整ったスタイル、しかし、目の前の人物の首から上は、茶色の紙袋で隠されている。
「正義のヒーロー紙袋仮面よ」
そう言って彼女は、男の顔面を数回踏みつけると興味をなくしたのか、奈々子を押さえつける女に向き直った。「あ、あんた誰よ!」
「だから正義のヒーローだって言ったじゃない……同じことを二回も聞くなんて脳みそが入っていないみたいよ」
紙袋仮面は、どこか楽し気に答える。仮面の内側では、どんな表情が隠されているのだろうか。とは言え、僕には彼女が何者なのか既に分かっていたのだが。
視界確保のために開けられた二つの穴、そこから見える飴色の瞳。
あんなにも綺麗な瞳をもっている人物のことなんて凡そ僕には、この世界でたった一人しか思い当たらなかった。
それから紙袋仮面は、何の躊躇いもなく女の顔面を鷲掴みにして、先日僕が没収したばかりの画鋲をどこに隠し持っていたのか奈々子が座っていない方のソファにぶちまけた。
恐れおののき泣き叫ぶ女を軽々と持ち上げて紙袋仮面は、蠱惑的な声で尋ねる。「ねえあなた、選ばせてあげる」
「一瞬だけ痛い方と永続的に苦しい方、どちらがお好み?」
「ふ、ふふふ、ふざ、ふざけんじゃない、わよっ!」
「この状況でそんな口の利き方するだなんて教育が必要みたいね」
自称正義のヒーローである紙袋仮面は、不機嫌に声を低め、持ち上げていた女の身体をゆっくりと画鋲だらけのソファへ近づけていく。画鋲が迫るにつれて女の声量は、搾りかすのように小さくなっていき、最後には「い、い、痛いのだけは、やめて、ください……」と呟いた。すると紙袋仮面は、彼女を何もない安全な床に降ろし、紙袋の中へ手を突っ込んで暫く、何だか物凄く取り辛そうだったけれど、カチューシャを取り出すと、それをスマートフォンへ変形させた。何をするのかと思えば、画面をいじりながら紙袋仮面は女に話し出した。
「最近、みんながやっているというSNSのアプリを一通り初めてみたのだけれど、これが何ともまあ、私みたいな一般人は中々フォロワー数が増えないのよね。でもまあ、どうせやるなら有名人になりたいじゃない? だから私、どうすれば人気が出るのか難儀していたのだけれど、本当にさっき、良い案を思いついたの」
あなたたちには感謝しているわ、そう言って彼女は液晶画面からホログラムを展開させる。そうして映し出された数々の写真、それは、
「この学校へ入学してから約一月、こっそりとあなたたちの行いを撮影させてもらっていたのだけれど、これって多分、SNSの住民にとっては良い餌になると思うの」
あなたは、どう思う? と紙袋仮面は、冷ややかに問いかける。
「ああ、でも勘違いしないで頂戴。これは意見や見解を求めているわけじゃないの、一秒ほど前に、写真を発信してしまったのだから、結果は待っていればそのうち分かるわ」
赤いカチューシャを再び額に戻した紙袋仮面は、そのまま屈み込んで、青ざめた表情の女を見つめて言った。
「この学校のお上が許しても、お天道様が許しても、この世界の人々は、あなたたちのことを許してはくれないでしょうね。永遠にこの日のことを」
――悔やむといいわ。
※
それから女の姿が見えなくなると紙袋仮面は、アイデンティティの全てと言っていい仮面を何の迷いもなく外し、その隠された素顔を露わにした。
「紙袋仮面のトレードマークなんだろ、そんな簡単に取ってもいいのかよ」
僕は、あまりに戯言でしかない言葉をミオに言う。
「茶番ね、これはゴミよ……ポイッ」
言ってミオは、何の躊躇いもなく紙袋を小さく破り捨てる。
どうやらそこには、正義の心の欠片さえも宿っていなかったらしい。
「あの二人の両親がタケムラテクノロジーにも融資していたようだから、顔を憶えられてしまうと色々と面倒だったのよ」
ミオは、自慢の黒髪ロングとカチューシャの位置を整え終えると、そんな風に顔を隠していた意味を教えてくれた。そういった込み入った事情までも考えている辺り、計算高く理性的なミオらしいと思う一方で、僕には一つだけ理解できない疑問があった。
「どうして来てくれたんだ?」
僕の単純な疑問、それに対しミオは、引き結んでいた口元を緩め答える。
「そうね、理由なんてないわ。強いて言うなら」
ミオは、一歩進み出て僕の耳元で囁くように言った。
「あなたを助けてって、このアンドロイドの心がしつこかったからかしら」
「僕のため……? わっ!」
ふーっと、息を吐かれて変な声が出た。僕の心の平穏を乱してミオは、ほんの少し気取った風に身を翻し、ラボを出て行こうとする。いつものからかいといたずら、温もりをもたない彼女だけれど、その平熱のやりとりに少し、どころか大分ほっとした。
そんな彼女の前に、というよりかは扉の前に小さなロボット、思えばいつぞやのロボタンがお盆の上に紅茶を乗せて道を塞ぐようにして立っていた。
「あ、あのっ! み、みなさんっ」
ああ、すっかり忘れていた。僕は、声のした方へ振り返り、表情を動かすにはまだ痛みが残っていたけれど、それでも微笑みを作る。
武村奈々子、彼女はブレザーを着終え、どうしてだかソファの上で縮こまるように正座をしている。けれどまあ、それが彼女の誠心誠意なのだとすれば何も言うまい。
「こ、紅茶、よ、良かったら、飲んで、行きませんか……?」
彼女は、真っすぐに僕らの目を見てそう言った。
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