第1話

 放課後、ホームルームが終るなり隣の席に座る武村ミオは、突然クラスメイト達に連絡先を交換しようなどという、陽の者のみが許される距離の詰め方、盤石のスタートダッシュを切った。当然ながら彼女は、人を選ぶことなくそして余すことなく、ボッチ生活にも飽き飽きしていた僕に対しても声を掛けてくれて、それに対してもちろん僕は、

「せっかくミオちゃんがみんなと連絡先交換してくれてるのに、何で断ったんだよ」

「どうせ、ノルマのために交換するだけして連絡なんて取り合わないんだから、SNSだけ謎に繋がってる状態になるのがオチさ、だったら連絡先なんていらないよ」

 変に期待して傷つくくらいなら原因を作らないようにするのは、当然のことだろう。

 まったく、おかしなことを言うぜ。僕のクラスメイトくんは。

「お前、すげえ捻くれてんな……つーかさ、今更だけど啓一って携帯とか全然触んないよな。あれってどうしてなんだ?」

「ああ……えっと、携帯電話持ってないんだよね」

 とっさに僕は、本当は携帯電話を持っているのに嘘をついてしまった。

「何で買わねえの?」

「そ、それはね……」

 言えないよな、連絡先にお母さんしかいないことがバレないよう隠すためなんて。

「ま、まあリンク依存症とか色々、最近は、ストレスフルな世の中だから通信機器とは距離を置いて生活しようと思ってね……」

「はあ? よく分かんねえな。ま、いいや。じゃあ俺、部活行くわ」

 彼がそう言って鞄の中に教科書を詰め終えたタイミングで、オート開閉のカーテンが駆動音をたてて動き出し、教室に外の空気と光が入り込んだ。自然光はわずかな温かみをもっていて反射的に身震いしてしまう。そんな僕の反応に渉はにやりと笑みを見せて、しかし、何も言わず鞄を持って教室を出て行った。眩しい奴だ、僕とは住む世界が異なる本来の居場所へ戻っていったか。この学校は東京でも有名な部活動強豪校で生徒の九割がなんらかの部活に所属しているのだ。帰宅部最有力選手である僕を除いて。

「ミオちゃんは、部活動とかも入部するの?」

「ううん、そういう予定はないかなあ。学校が終ったらすぐ研究所に戻らないと」

 僕だけじゃなかった。

 窓際の最後列、群れの中から一つはみ出したように存在していた僕の席。

 転校してきたばかりのアンドロイド女子高生は僕の隣に座席を置くこととなった。彼女が教師や生徒という立場を問わず、誰からも注目を浴びる様子をぼんやりと観察していたけれど、みんな彼女のことをちやほやし過ぎだ。質問する声がうるさい上に、彼女の方に視線が集まったせいで僕は居眠りができなかった。いや、居眠りをしても誰も気付いてくれなかったせいで六限を寝過ごしてしまったんだ。これで授業に遅れが出たら責任をとってくれるんだろうな……いやまあ、とんでもなく理不尽か。

「じゃあまた明日ね、ミオちゃん」

 クラスメイトの言葉に快活な笑顔で返すミオ。その様子を視界の隅に捉えながら、彼女は本当にアンドロイドなのだろうかと、そんなことを考える。

 高機能AI「アオイブック」をOSとして搭載し、全身の筋肉を数十個もの小型アクチュエーターで再現しているため限りなく人間に近い動きが可能。白くきめ細かい肌は、人工たんぱく質によって形成された生物皮膚、声帯は存在せず、代わりに声優の声を音声コード化した波長音声を発しているらしい。太陽光発電によるフル充電で起動時間は二日間、食事、睡眠、呼吸の一切を必要としない。

 僕は機械知識に疎いため全て彼女の受け売りだが、確かそんなようなことを言っていた。構造を聞く限りではすごく簡単そうに思えるけれど、一体全体どこまでが真実なのだろうか。見た目も話し方も、まるで人間そのものだ。

 しかし、一体全体どうして僕は、彼女のことをここまで気になっているのだろう。

「スカート、タイツ、スカート、生足……」

 その理由はよく分からないけれど、アンドロイド嫌いである僕の気をここまで引くなんてまさに恐るべし、タケムラテクノロジーの最新機械だ。一人納得して小さく欠伸をすると、僕は体の内側に溜まっていたらしい疲労に気が付き、固まった関節をほぐすために机の上に置いていた両腕を伸ばす。するとブレザーの袖に引っかかったのか置きっぱなしだった筆箱を落としてしまった。「まじかよ……ああ、もう」

 シャープペンシルにボールペン、定規にスティックのり、それらを筆箱の中へと仕舞い、しかし消しゴムが行方不明であることに気が付いた。嘘だろ、僕のお気に入りがなくなるなんて。

「ぶよぶよ消しゴムかあ、加藤くんって可愛らしいの使ってるんだね」

 そのとき、甘い匂いと澄んだ声が僕の頭上からふんわりと降ってきた。ふんわり、そう表現するのが適切に思えるような、物腰柔らかい話し方である。

 武村ミオ、彼女のまっすぐな瞳に呆けた僕の顔が映っていた。近い、僕が見上げたせいもあって目と鼻の先に彼女の顔がある。どくんと音を大きくさせる心臓は、僕から思考能力を奪う。不覚にも、その美しい表情に見惚れてしまった。

「はい、どうぞ」

 言って彼女は、だらしなくぶらさがっていた僕の腕に触れ、手の平にぶよぶよの消しゴムを置いた。それは間違いなく小さくすり減った僕の物だ。

「……」

 触れた彼女の指、その冷たさに僕は少し驚いてしまう。感触も見た目も僕らのものと変わらないけれど、そこに人の温もりはなかった。そのことに僕は、失っていた冷静さを取り戻す。見惚れるなんて馬鹿らしい、彼女はアンドロイドなのだから。

「こんなに小さくなった消しゴム、初めて見た。大事に使ってるのね」

 言って微笑んだ彼女は、机の脇にかけていた鞄を手に取り席を立つ。

「落として失くさないようにね。それじゃ、加藤君また明日」

 教室を出て行く彼女の姿が見えなくなるまで僕は、馬鹿みたいに固まっていた。

 彼女の手の冷たさが残る左腕、その手の平の上で、赤いぶよぶよ消しゴムがグミのような体についた大きな二つの目でこちらを見つめている。

「お前、可愛らしいってさ」

 呟いて耳たぶが熱くなってしまう。

 彼女の匂いと声が頭の中で思い出される。

 あのとき感じた甘い匂いは、香水でも付けているのか。

 考えて、不自然に鼓動が高鳴る。

「何してんだか、プログラムだろ」鼓動をかき消すように呟いて、消しゴムを筆箱の中に仕舞い鞄を手に取った。しかし、席を立ちそのまま教室を出ればいいものの僕は一度、隣の空席を見つめる。明日も武村ミオは、学校へ来るのだろうかと空いた椅子を見て思ったのだ。

「メモ帳……?」

 そんな無駄な挙動によって僕は、彼女の椅子付近の床に黒いメモ帳が落ちていることに気が付いた。誰かの落とし物だろうか、他人の物を覗き見るような趣味はなかったけれど、見たところ表紙には何も書いていないし仕方がない。若干の罪悪感を伴いながら開いた一ページ、それを見て僕はある言葉を思い出す。「落として失くさないようにね、か」


        ※


当然ながら、クラスメイトの落とし物を見つけたら放課後であっても可能な限り届けてあげるべきだろう。僕はあくまで自身の良心に従い、教室を出て行った彼女を追うことにした。良心以外に僕を動かす理由はない。個人的な関係を持ちたいという下心は、今さっき捨ててきたつもりだし、数行前の決意を覆している気がしなくもないが、彼女はアンドロイドだ。どれだけ可愛かろうと、どれだけ美しくても、どれだけ仲良くなれたとしても、どれだけ魅力的な生足を持っていたとしても、そりゃあ恋愛対象外だろう。

「どこに行くつもりなんだ」

 雲の隙間から晴れ間が姿を覗かせる放課後。学校を出て帰宅途中の高校生たちがちらほらと見える住宅街まで歩き、ようやく僕は、アンドロイド女子高生に追いついた。赤く輝くカチューシャが特徴的であり、彼女を見つけることは別段難しいことではなかったが、問題は僕が話しかけられずにいることだ。二十メートルほど先を歩く彼女に僕は、何と声を掛ければいいのだろう。

「これ、落とし物。君のだよね、良かったらこの後ゲームセンターにでも行かない?」

 よし、これでいこう。いや、待て。これじゃあナンパと変わらない。普通にメモ帳を渡せばいいだけじゃないか。でも、それでいいのか僕。この機会を逃したら次はないかもしれないんだぞ。

そんな自問自答を続けている内に住宅街を抜けてビル群が建ち並ぶオフィス街に辿り着いていた。沿岸部に建てられたこの街は、地下トンネルを抜けると雰囲気ががらりと変わる。教室の窓から見ていたのはそんなオフィス街の一角だ。グリーンカーテンに覆われたビルの隙間から見える青々とした空、その元をスーツ姿の人々やAI車両がせわしなく行き交っている。

 メモ帳を届けるだけなのにこんなところまで来てしまうなんて。これじゃあストーカーと間違われても言い訳のしようがなかった。

「しかも見失ったし……最悪だ」

二十メートル先の女の子一人尾行できない自分の間抜けさに思わず肩を落とし、溜息を漏らしてしまう。するとそのとき、誰かが僕のことを呼んだ。「加藤君」

「ここで何をしているの?」

 どきりとして振り返ると、その声の主はアンドロイド女子高生、武村ミオだった。彼女は、僕の頭から足までを一通り見て、それから一歩前に近づいてくるとこちらの顔を凝視してくる。まずい、尾行していたのがバレてしまったか。教室とは何処か異なる雰囲気の彼女、その強い眼差しから逃れるようにして僕は、ポケットからメモ帳を取り出す。

「こ、これを届けようと思って……」

お近づきになろうという真の目論見は、もう諦めるしかなかった。

 僕が言うと彼女は、強張らせていた眉を弛緩させメモ帳へと手を伸ばす。しかし、メモ帳に指先が触れるか触れないかのところで、どうしてかその手を止める。

「加藤君、メモ帳の中身だけどもしかして見ちゃったかな……」

 弱々しく不安気な声、彼女はやや俯きながらそう言った。

「えっと、その……ごめん。名前書いてあるかと思って」

「そっか……ここまでわざわざ届けてくれたんだね」

 僕が思う以上に申し訳ないことをしてしまったのかもしれない、嘘でも見ていないと言うべきだっただろうか。彼女の沈んだ表情に嘘をつけなかった後悔を感じていると、僕の手からメモ帳が離れていった。彼女は受け取ったメモ帳をブレザーの内ポケットに入れて、それから教室にいたときのような穏やかな表情を浮かべる。「ありがとう」

 言われて数秒後、何だか僕は胸の内側がむずがゆくなった。そんな僕がどんな表情をしていたのかは分からなかったけれど、彼女はこちらを見て、くすりと笑う。

 ほんの一メートル先で、彼女は小さく首を傾げた。

「加藤君、これから時間あるかな。お礼もしたいし、よかったら遊びに行かない?」


        ※


 太陽こそ見えないが美しい青と白の空、静かに響く波の音、目前に広がる人工浜辺の白い砂、向こう岸に見える東京のビル群、それを差し置いて最も目を引くのは雲のように白いレインボーブリッジだろう。

「わーお、あんなに大きいんだね! 初めて見た」

 言って目を輝かせるアンドロイド女子高生ミオ、彼女に連れられた場所は沿岸にある船着き場、レンタルフェリーの受付所だった。彼女が受付でのやり取りを難なく済ませ、僕らは自動運転の小型船に乗り込む。彼女は、操作盤にはめ込まれたタブレットを触りながら、目的地を選んでいるようだった。「どこに行くの?」ゆらゆらと揺れる船の上で二人きり、僕はタブレットを覗き込むようにして横目に彼女を見る。「こことかどうかな」

「うん、良いと思う」

 彼女は液晶画面の光を瞳に映しながら、頬を覆っていた黒髪をかきあげた。そして露わとなる彼女の耳から顎先まで続く細い輪郭線、通った鼻筋、飴色の大きな瞳、その相貌もさることながら、どうして人間の男子という生き物は、女子高生の足に魅入ってしまうのだろうか。こと僕に関しては、恋人を作ることも下手をすれば友達を作ることさえ諦めているのに、潜在的意識の部分でその脚部を求めてしまっている。

「すごく、良いと思うよ」ありのままの感想をつい漏らしてしまった。

「え、ああうん……じゃあ、ここにするね」目的地を設定された小型船は、ゆらゆらと動き出し、数分後に天井板を自動で折り畳み、開放的な船旅を演出する。海のど真ん中で座っているという非日常的な景色、頬を撫でるささやかな風、ふと訪れた静寂の中で時間と風景が流れていく。間もなくレインボーブリッジの真下を通ろうとして、その影にミオの顔が半分重なったとき彼女は言った。「そう言えばさ加藤君って、携帯電話もってないんだよね」

「教室でそう言っていたけど、あれってどうしてなの?」

 え、ええっと。

「こ、この前、大雨で水没しちゃってさ……」

「あ、そうなんだ。じゃあ直ったら連絡先交換しよう!」

 そう言って、にっこりと笑う彼女。なんて眩しすぎる笑顔なんだ、こんなの惚れちまうよ。

「そういえばね、私の携帯見て欲しいの!」

 そう言って彼女が赤く輝いていたカチューシャを外すと、次の瞬間それは折られていた折紙が元の形に戻るようにひとりでに展開され、背景まで透き通った液晶画面と赤いフレームをもったスマートフォンへと変形した。何だ、何だこれは、アンドロイドの秘密道具か。

「驚いた? これ結構便利でさ、もっとすごい機能があるんだあ。ねえ目を瞑ってみて」

 彼女の言う通り目を瞑ると、それとほぼ同時に小型船も停止したのかエンジンの駆動音が聞こえなくなった。またしても訪れた静寂、波の音と彼女の布が座席に擦れる音がして、彼女の甘い匂いを感じる。彼女と僕の距離が近くなったのは分かったが、一体どういう状態なのだろうか。そんなことを考えていると柔らかな肌の感触とひんやりとした温度を右頬に感じた。「え、あの武村さん?」

「ミオでいいよ、加藤君。確認だけど、本当にメモ帳の中身を見たの?」

「ごめん、さっきも言ったけど見た」

 恐らくは彼女の指、五本の細くてかたい感触がくすぐるように頬を上から下へ滑り落ちていく。ざわつく心臓と力む背筋、何だかよく分からない汗が額に浮かんでくる。

「そっか」耳元で聞こえた細い声、滑り落ちた指先が僕の首筋でぴたりと止まる。

「残念ね、あなたとはもっと違った形で仲良くなれると思っていたのだけれど」

 今までの透き通った声とは打って変わり、妖しげで蠱惑的な抑揚のある太い声。そして彼女は僕の鼓膜に囁いた。「痛くないようにしてあげる」

 瞬間、僕の首筋に走った衝撃。思わず瞼を開けると、彼女の右手に握られたスマートフォンから青白い電流がばちばちと音を立てて空気中の四方八方に飛び交っていた。「スタンガン……?」見たものを見たままに呟く僕。視線を上げると目と鼻の先に彼女の顔があった。しかし、その表情は先程のように穏やかな微笑みではない。飴色の瞳、その瞳孔を大きく開き、戸惑う僕を前に恍惚とした笑みを浮かべている。

 戦慄。咄嗟に僕は首筋に触れている彼女の手を払いのけようとして、しかし身体が思うように動かないことに気が付いた。「うふふっ、無駄よ」彼女が愉快そうに笑う。

「言ったでしょ? この携帯結構便利なの、あなたの首から下の筋肉は麻痺して動かないわ」彼女は、細くしなやかな手で僕の首を鷲掴み、そのまま席を立つ。そして身体の重量などまるでお構いなしに僕を軽々と持ちあげ、彼女は一歩、二歩と小型船の外、足場の存在しない海面へ近づいていく。助けを呼ぼうにもここは、人目につかない橋の下だ。

 全て計算されていたということか。

 足元は海、宙ぶらりんの状態、動かない身体、僕の生死はあっという間に彼女に委ねられていた。「顔を真っ赤にして随分と苦しそうね」

「席に……降ろしてくれ」息苦しさに悶えつつ僕が答えると、彼女は一層笑みを深めブレザーのポケットから半透明の小箱を取り出した。そしてそれを僕の眼前に見せつける。「画鋲よ。この席、何だか華やかさに欠けると思わない?」ぱかり、と小箱の蓋を開ける彼女、次にしようとしていることを想像して、全身に鳥肌が立った。

 ばらばら、からから、雲の隙間から差し込んだ陽光を受けて金色に輝く画鋲。彼女はまきびしのようにそれらを席に撒き散らしたのだ。「これでもまだ、席に座りたいのならどうぞ?」とんだ鬼畜野郎じゃないか。

「反抗的な表情ね、好きよそういう顔。でも勘違いしないで、私も好きでこうしているわけじゃないの。元はと言えば、情報保全の観点から電子上ではなく紙媒体にメモを取った私の責任だもの。とは言え、本当の目的を知ってしまったあなたを放っておくわけにはいかない」

 そういう顔が好きなのに、好きでこうしているわけじゃないなんて。しかし、見え見えの嘘にツッコめるほど僕には余裕がなかった。秘密、本当の目的って何だ?

「とぼけても無駄よ、メモ帳に書いてある計画を見たんでしょ? さあ、大人しく“武村アオイ”の情報を全て吐きなさい」

「だから……何の……話だ!」

 肺の中に残っていた空気を吐き出し、僕は声を絞り出す。同時に感覚を取り戻した腕で彼女の腕を引き離そうと抵抗を試みる。「計画のことなんか知らない!」

「へえ、あなた、変わっているのね。大抵の嘘は、心理学データに基づいた検索と検証によって見抜けるものだけれど、表情筋をコントロールできるのかしら? 嘘をついているようには見えないわ。でも惜しかったわね、その言葉を信じることはできない。尾行してきたことに説明がつかないもの」

 その飴色の瞳には、嘘発見器でも備わっているのだろうか。よく分からないが、後をつけていたことは、バレていた。とは言え、僕は嘘をついているわけじゃない、隣の席の女子生徒と交流を深めようとしただけだぞ。

「それとも己の下心のままに後を付けてきたのかしら?」

「そんなわけないだろ!」

下心なんて微塵もない。

 数十分前のことを上手く思い出せないが、僕に限ってそんなことあるわけがない。

 本当さ。「お前が忘れ物をしたんだと思って、届けようと思っただけだよ。つまり、これは僕の善意百パーセントだ!」

「あら、善意ねえ? その割には、下心という単語に反応を示したように見えたけれど? まあいいわ、どのみちあの殴り書きを見た以上生かしておくつもりはないし、荒っぽい手になるけれど脳内の記憶を強制スキャンして」

 荒っぽい手? 強制スキャン? よく分からないけれど、記憶を読まれるのは、まずいまず過ぎる。僕には、命に代えたって読まれたくない数時間前の記憶があるんだ。「ちょっと待て!」

「あら、どうしたの? 命乞い?」

「な、殴り書きだって? 僕は、一ページ目に書いてあったお前の名前しか見てないって!」

 僕が言い放つと彼女は驚いたように口を開き、その瞬間こちらの首を鷲掴みにしていた手の力が緩まった。最悪のタイミング、その腕を引き剥がそうと抵抗していた力が彼女の腕力を上回り、僕の身体が宙へ投げ出されてしまう。落下する直前、反転した世界で彼女が小さく呟いた。

「最初の一ページだけだったの?」


        ※


「へっくしょん! あーさみい」

 海へと吹き抜けていく風が、濡れそぼったカッターシャツと僕の上半身を密着させる。気色悪い感触と凍えるような寒さにくしゃみが出てしまった。五月の海がこれほどにまで冷たかったなんて。「水も滴る憐れな男、申し訳ないことをしたわ加藤君」ミオは、僕に対し申し訳なさを感じているのか砂浜に腰を下ろし、こちらを見向きもせず、なおかつ興味なさげに呟いた。申し訳ないって本当に思っているのだろうか。「驚いたわ、私の口先だけの言葉を見抜くなんて」マジかよ、お前のせいで僕は死ぬところだったんだけど。

「何よ、その目? まさか、私に復讐しようと……いいでしょう、相手をしてあげます」

 言って頭のカチューシャに手を掛けるミオ、とんだバーサーカー野郎だった。

「早とちりするな、復讐なんて考えてないよ。でも、ちゃんと謝ってくれたっていいだろ。現に勘違いだったわけだし」

「だから、溺れているあなたに手を差し伸べて助けようとしたじゃない。それでおあいこ」

「お前が差し伸べたのは手じゃなくてスタンガン機能付きの携帯電話だろ!」

 お陰で僕は、トドメを差されるところだった。

「わかった、分かりました。確かに人間の脆さを把握しきれなかった私に非があるようね」

 大きく息を吐いて立ち上がったミオは、軽くスカートに付着した砂を払いこちらと向かい合う。こちらを見据える飴色の瞳、僕は緊張を隠せず視線を泳がせてしまった。

「あの、加藤君」

 表と裏、どのようにして声を使い分けているのか、彼女は自己紹介を思い出させる柔らかな声で僕を呼んだ。「は、はい」それにはこちらを向かせる意図があったのか定かではないが、自然と泳いでいた視線が彼女の顔に戻る。

「私、今日のこと」

 汗ばんできた手、握りしめていたズボンの裾が少し蒸れてきた。おまけに心臓の音まで大きくなっている。告白されるわけでもないのに、何を緊張しているんだ僕は。

 そして、形の良い彼女の唇が動いた。

「やっぱりやめたわ。だって私、悪くないんだもの。悪いのはあなたよね」

「え? ど、どういうことだよ」

「私、学校を出てからずっと加藤君に付き纏われて」

「そ、それはメモ帳を」

「通学路から三キロ以上も離れたここまで逃げてきたのに、まだ追いかけてきて」

 痛いところを突いてくるミオ、僕が怯んだのを好機と見たのか彼女は、顔を赤くして今にも泣きだしそうといった風に両手を目元にあてる。そのまま震えた細い声と恐怖に揺れる瞳を僕に向け、一歩後ずさった。「わ、私……とっても怖くて……」

「先生と加藤君のご家族に相談するか、本人に謝ってもらわないと学校に行けないよお」

 まずい。クラスメイトや先生は、恐らく僕が根暗でコミュ障なことを察し始めているから相談されてもいいとして、僕のことを自慢の孫だと言っているおじいちゃんとおばあちゃんに知られるのは駄目だ。町内の老人会に二度と顔を出せなくなってしまう。

「わ、分かったよ。ごめん、だからその、泣くなよ……な」

 途端、彼女は先程の態度など嘘だったようにけろっと真顔に戻って言う。

「涙なんて流さないわ、アンドロイドだもの。上面の感情に騙されるなんて愚かね」

 うわあ、こいつ、うぜえ。それはそうと、あの手帳には何が書いてあったのだろうか。

「私が学校へ行けなくなってしまうような情報が書かれているの」

 それと、と彼女は嗜虐的な笑みを浮かべて続ける。

「見た人も学校へ来られなくなるような情報ね」

「……」

「冗談よ、あなたって驚くと随分と間抜けた顔になるのね。ただ個人的には見られたくなかったというのが本当のところ。でもまあ、私があなたにしたことを考えると、そのお詫びとして教えてあげたっていいわ。加藤君って口は堅そうだし」

「そりゃ、どうも……?」

「あらうっかり。私としたことが間違えた。加藤君って話すような友達いなさそうだし」

「お、お前……」くそっ、間違いじゃないと否定できない自分が悔しくて情けなさ過ぎる。言って彼女は、悔しさに歪んでいたであろう僕に余裕の眼差しを向けて続けた。

「各学年に三十人、友人関係を築くこと。それから、一人、恋人を作ること」

「恋人……? 何で?」

 アンドロイドが? その言葉は呑み込んだ。

「ええ、そうよ。そこまで出来れば証明くらいにはなるでしょう、私が人間と同等の存在だとね。はっきり言って、そのノルマが最も難しいと思っていたのだけれど、ちょうどいいわ」

 そう言って、彼女は、僕を真っすぐに指さして言った。

「加藤啓一君、私の恋人になりなさい。いいえ、恋人になって」

 僕は、即答する。

「嫌だよ」

 そして、どうして、と言わんばかりに揺れていた彼女の瞳に僕は言う。

「別に、僕のこと好きじゃないだろ」

 そんな上辺だけの繋がり、僕には必要ない。そこまでは口にしなかったけれど、正直なところ僕には、友人作りや恋人作りなんて向いているとは思えなかった。

 はっきり言って僕は、捻くれているし、ネガティブ思考の塊みたいな奴だ。

 第一僕は、友達一人助けられないような人間なんだから。

 だったら始めからそんな関係、持つべきじゃないよな。

「そう、確かにあなたの言うことも一理あるわね。そんな関係に意味はないわ」

 あっさりと、彼女はそう言って、しかし、

「けれど、きっと加藤君のことだから、私と友達になるのも嫌なのでしょうね。だったら」

 吸い込まれそうなほど美しい飴色の瞳で僕を貫く。

「あなたをしもべにします」

「しもべって、何で僕が」

「そう、拒絶するのね。ならば、法的な力をもってしてあなたを従わせなければならないわ」

 刹那、ミオの白い指が僕の細腕を掴み、抵抗する間もなく引き寄せられる。甘い香りが鼻孔を通り抜けると、次の瞬間僕の右手に触れた柔らかい何か。状況を理解するまでに三秒かかって、僕の手は今、ミオの制服の上、その胸部を押し付けられている。やや控え目に見えた彼女のそれは、しかし、僕とは比べ物にならないほど確かな存在感をもっていた。

 空気よりもずっと柔らかいのではないだろうか。

 いや、それは言い過ぎだが、そんな余韻に浸ってしまうまでもが彼女の策略だったに違いない。はっとして視線を彼女の顔へ向けるとにやりと下卑た笑みを浮かべていた。そして駆け引きは、ほんの一瞬のうちに行われる。僕が彼女の胸部から手を放そうとするも、強い腕力で固定されてびくともしない。嘘だろ、こんな形で僕のファーストタッチが奪われるなんて。ミオが泣き叫ぶように言った。

「きゃあー! 誰か助けてー! ストーカーに胸を触られましたあ!」


        ※


 海辺を離れ学校付近の繁華街、大勢の人が行き交う商店街の中を進む。隣を歩くミオは、上機嫌なのか鼻歌を歌いながら案内役の僕よりも数歩先を歩いていた。

「本物の交友関係を築くためには、互いのことを知る必要があると思うの。よって手始めに加藤君のことを知るために、あなたが考えた最強の遊び場、この街で一番退屈しない場所へ連れて行ってもらおうかしら。これは命令、拒否権? それって何、おいしいの?」

 危うく人生にトドメを刺されるところだった僕は、法律という刃を首筋に当てられ、いや当てられたのは胸だが、ともあれ仕方なく彼女のしもべとなることに。自由だけが取り柄の十代のうちに他人に、それもアンドロイドなんかに絶対服従を誓うことになるとは思いもしなかった。「二つ目の命令は靴の裏でも舐めてもらいましょうか」こういった関係を望んで形成する人間がいると言う話は有名だが、僕にそういう趣味はない。隣を歩くミオの要求に睨みつけることで返答すると、わざとらしく彼女は溜息をついた。「つまらない男、調教が必要ね。まあ半分冗談だけれど」半分だって? どちらが冗談なのだろう。

「もちろんつまらない男というのが冗談で、調教は今後じわじわと時間をかけて行っていくつもりよ。それでもまあ、加藤君がどうしてでも調教を拒むと言うのなら選ばせてあげる。つまらないという称号を一生涯抱えて生きるか、調教の末に生まれ変わるか」

「何だよそれ、生まれ変わったらどうなるんだよ」

「犬になれるのよ、私専用の。呼ばれて三歩以上は全力ダッシュで集合」

 うわあ、絶対に嫌だ。「頼むから、つまらない男にしといてくれ」

「では、あなたの選択を無視して調教します」

「何でだよ!? 僕に与えられた選択権は!?」

「勘違いしないでよね。嫌な方を選ばせてあげる、という意味での選択なんだからね」ツンデレ構文で説明してくれた彼女だが、最も重要なデレ部分が一切含まれていなかった。そんな戯言みたいなやり取りを続けること二十分、僕が彼女を連れて行った場所は、商店街を抜けて車通りの多い十字路の向こう、五階建てビルの一階から三階に入っているゲームセンター「アーケードズ」。

「ゲーセンなんて東京じゃなくてもあるじゃない。どうせ行ったってつまらないわよ」こだわりの強い観光客みたいな不満を漏らすミオに僕は言う。

「取り消せよ、今の言葉」

言ったというより無意識に呟いていたと表現すべきか、僕はこれまで他人のあらゆる発言には関与しない主義を貫いてきたが、アーケードズに対するにわかな不満発言を看過できるほど落ちぶれちゃいない。

「アーケードズは、ただのゲーセンじゃない。二〇四三年現在においてアーケード媒体から大手ゲーム会社が撤退し、絶滅危惧種とされているアーケードゲームを専門的に配備しているコアなゲームセンターで、格ゲーマーや音ゲーマー、そして何より全国のぶよぶよリストが憩いの地としている聖域なんだぞ。それをミオはつまらないと言ったな?」

「そ、そんなにムキにならなくてもいいでしょ。ゲーセンなんてどこも同じなんだし」

「いいや、アーケードズは違うね。例えるなら林檎とバナナくらい違うんだよ、ミオはバナナを指さして林檎と呼ぶのか? その程度のAIを搭載して世界初だのなんだの言っているんだとしたら僕は、ミオがアンドロイドであることを絶対に認めない。世界がそれを認めても僕は認めないね」

 そんな世界が許されるなら、地球の一つや二つ、破壊してでも創り直すべきだ。

「分かったわよ、ついていくから……あなたって少し、いえ、だいぶ面倒くさいのね」

 捲し立てる僕に押し負け、呆れた様子で彼女が中へと入っていった。でもまあ、自分が面倒臭いことくらい分かっている。それでもアーケードゲームのことだけは、小学校から続けている趣味ということもあり命を賭しても守らなければならない僕の矜持なのだ。

 そのためにならどんな屈辱的汚名を浴びせられたっていい。

「すごい……こんなにたくさんのアーケードゲームが」

 四方八方から聞こえる機械音、ゲーム媒体の発する熱でやや蒸し暑い建物内、子連れ家族やカップルで賑わう一階のクレーンゲームコーナーを抜けて、僕らはビデオゲームエリアの二階へ辿り着く。階段を上ってすぐに出迎えてくれたのは、二千年初期から残り続けている音ゲーやコンシューマーゲーム機にも移植された有名パーティゲーム、レトロなシューティングゲームから最新の格闘ゲームたちだ。僕が通い詰めているぶよぶよは、このフロアの最奥にある。

「そういえばミオは、ぶよぶよやったことある?」

「ないわよ」即答だった。

「面白いの?」

「まあ、ぶよぶよが合うかどうかは分からないけれど、ゲーセンに来てつまんなかったって言う人はあんまりいないかな」

「ふうん。思いのほか楽しみになってきたわね」

 やれやれ初心者狩りになってしまうな、そんな戯言を呟きながら肩を回していると突然ミオが立ち止まり、彼女を一歩置き去りにしてしまった。何があったのだろう、僕は一度彼女の表情、驚いたように大きく見開いた目を見て、その視線の先を確認する。そこにあったのは、何の変哲も小学校以来変化もない向かい合う二台のぶよぶよアーケード機体だった。そして次の瞬間にミオは、その場で飛び跳ね弾むような声ではしゃぎ出した。

「わぁーぶよぶよだあ! ねえ、見て見て! 啓一く――」

 もはや別人なのではないか、そう思ってしまうほどの言動の変化に言葉が出てこないでいると、突然にミオは、自らの口を塞ぎその場でしゃがみ込んだ。ゲーム機の赤い光を浴びながら彼女は、明らかに視線を逸らし言った。「な、何でもない……こっち見んな」状況が呑み込めず、「大丈夫か?」と僕がその顔を覗き込むと、彼女はぷいっと顔を背ける。何だか、それは少し可愛かったのでもう一度覗き込むことにしよう。しかし、悪ふざけが過ぎたのか僕を待っていたのは、可愛らしい横顔ではなくこちらの顔を鷲掴みにしようとする彼女の手だった。

 そしてミオは、僕の顔面を片手で鷲掴み、そっと耳元でささやく。「次見たら殺す、わかった? 私のしもべ」「ふぁい……わ、我が主さま」

「良いお返事ね、では……レッツぶよ勝負、といきましょう」


        ※


「まだやるのか?」

 液晶画面に表示されたコンテニューの文字を見て、僕はミオに尋ねる。

「す、少しは手加減しなさいよ! 初心者なんだから!」

 あらゆる競技においてAIが人間の能力を超えて行く現代社会、タケムラテクノロジーの最新技術が詰め込まれているはずのミオは、正直なところ初心者以下の腕前だった。プログラムの学習段階にあるのかもしれないと、そんな彼女の主張を信じて対戦すること九戦目、全て僕の勝利という結果である。十年以上プレイしている僕の方が経験値的に有利というのもあるのだろうけれど、それにしてもこんなに弱いプレイヤーと出会ったのは初めてだ。「もう一回、次は負けないわ」おまけに負けず嫌いな性格らしく、彼女は十枚目になる百円玉を躊躇いもなく投入した。勝ち続けている僕には、一切問題ないことだけれど彼女のお金はタケムラテクノロジーの経費から落ちているのだろうか。

「いいよ。気が済むまでやろう」

 何だか、懐かしい感じだ。初心者だった頃、小学生時代の僕を見ているような気分。東京へ引っ越して以来、あの頃のぶよぶよ仲間とは会っていないけれど、こんな風に僕の気が済むまで付き合ってもらってたっけ。「あいつ、元気にしてるかな」

 呟いて、液晶画面と向かい合う。落ちパズルゲームの王道ぶよぶよは、通称ぶよぶよと呼ばれる全五色の顔付きグミをデトリスのようにマス目のついたエリア内で、同色を四つ揃えて消すゲームだ。敗北条件は、ぶよが画面の上まで積み上がってしまうことだが、ここで重要なのが同色ぶよを消すと相手エリアに送り付けられる色のないグミ、お邪魔ぶよで相手エリアを圧迫することだ。色の異なるぶよを計算して積み上げ、大連鎖を狙う。上級者同士の戦いではぶよぶよキャラクターたちの派手な必殺技演出と共に互いの連鎖が衝突し、パズルゲームとは思えないほど手に汗握る時間を体験できる。

「でもまあ、滅多にそういう相手とは出会えないけどね」

 十戦目も、間違いなく僕が勝つ。ぶよぶよは、途端に上達するようなゲームじゃない。僕でさえ、何度も負けて必死に型を憶えて応用技を身に着けて、十年かけた今でさえまだ完璧じゃない。

 結局、あいつには勝てないままだったしな。

唯一のアーケードゲーム仲間、そんな懐古に思いを馳せていると、

「相変わらず中盤戦がなってないね、啓一くん」

 明らかに僕へ向けられた言葉が画面の向こう、ミオが座っている反対側の機体の方から聞こえ、それは先ほどまでの不機嫌な声ではなく、どこか楽しそうで心なしか懐かしい彼女の声色だった。

そんな彼女の言葉の内容「中盤戦だって?」初心者がまず口にしないような単語を彼女が言ったことに違和感を覚え、ふと画面右にある彼女のぶよエリアを見る。

「本線とは別に小連鎖を……? まさか」

 本線、決定打となる大連鎖を構築しながらその傍らでミオは、相手の本線構築を妨害するための小連鎖まで組み上げていた。それは、初心者や中級者が簡単にできるような芸当ではなく、上級者の中でもプロと呼ばれるプレイヤーが成せる技だ。完全に油断していた、慌てて僕は、ミオの放った小連鎖に対応すべくぶよを組むも間に合わず、画面頭上から降ってきたお邪魔ぶよにエリアを圧迫される。続いてミオが放った大連鎖により、一瞬にして僕のエリアは、お邪魔ぶよに埋め尽くされ、涙を流すキャラクターと敗北の二文字が映し出された。にわかには信じられない光景に言葉が出てこない。

「あら、大したことないのね」反対側の機体から顔だけを覗かせるミオ。僕は何も言わず、財布から百円玉を取り、コンテニューを選択する。油断と慢心、それが原因だろう。そうでなければ僕が培ってきた十年の技術をこんな一瞬で越えられるわけがない。

 高機能AI、あまりにミオが人間っぽいせいで忘れていた。たった今対峙しているのは、僕の日常を変えてしまった高度な文明技術なのだ。

「そうだよな、そうだ」僕は大きく息を吐き、彼女を同格の敵として再認識する。負けるわけにはいかない、趣味とは言え唯一と言っていい僕の特技なのだ。

 しかしながら。「どうして勝てないんだ」

 何度やってもミオに勝つことができなくなってしまった。僕の弱点である中盤戦、小連鎖に対する対応力で差を付けられてしまう。努力、経験値、時間、もはや僕が積み上げてきたもの全てが無意味であると言われているよう。

「あれあれ、弱すぎるわね加藤君。リベンジなら受けて立つわよ」

 圧倒的な才能の差あるいは、AIの学習能力、いんや何でもいい。気が付いたときには僕の手は操作盤から手が離れていて、

「……僕の負けだよ」

 諦めの言葉を口にしていた。


        ※


「次は、あれで。あのクレーンゲームで勝負をしましょう。先に手に入れた方が勝ちよ」

 一階クレーンゲームフロアの隅、ぶよぶよで火照った体をベンチにて休ませていた僕ら。突然にミオが指さした先には、大きな赤ぶよぶよぬいぐるみが景品となったクレーンゲームがあったのだが、いやお前鬼畜かよ、そうツッコみたくなるほどに、泣きそうな顔で小さな女の子が指を咥えてショーケースの中を眺めていたのである。おまけに、

「お父さん、あたしこれ欲しいよお」

「ごめんな、お父さんこういうの苦手だから」

「欲しい、欲しい、欲しいったら欲しいのっ」

 そんな二人の会話がここまで聞こえていながらにミオは言う。

「見たところ景品の在庫は、残り一つで、しかも他人が欲しがっている。そう思うと唐突に欲しくなってきたわ、最終決戦にはあれが相応しい、加藤君も異論はないわね?」

「ミオってさ……性格悪いって誰かに言われたことない?」

「良い性格をしていると、そう言われたことならあるのだけれど」

 絶対それ逆の意味で言われてるだろっ、ますます友達になれそうもないよっ、そんな確信過ぎるツッコみが出来るほど強い心を持っていなかった僕は、ひとまず心の中で消化してからミオに答える。

「とりあえず僕は、やらないよ。大体勝負って、さっきぶよぶよで勝ったじゃないか。勝ち越しは譲ってやるよ」

「そう言いながらも、あなたとっても不機嫌な顔してるじゃないの。いじけているのを隠しきれていないわよ、挽回の機会を与えてあげようという優しさを素直に受け取りなさい」

「……」

 事細かに見透かされていた……。いや、そんなことはさておいてだな。

「それでもやだよ、金ないし」

 もちろんお金がないというのは、勝負を断る口実であり、そもそも最終決戦云々の前に僕みたいな小心者には、この哀れな少女の眼前で景品を手に入れる度胸も根性も腐り切った性根も、いや、言い過ぎたかもしれないけれど、とにかく出来るはずがなかった。

 けれど、そんな内面さえも見透かしていそうな真っすぐな目でこちらを見つめて来るミオ、何だかそれが嫌で目を逸らしたそのとき、

「あ、あの……お二人にお願いごとがありまして……私の代わりにこの子にぬいぐるみを」

 マジかよ、お父さん!

「これで、お金の問題はなくなったわけだけれど、やるわよね、加藤君?」


        ※


――僕って面倒臭い奴だよな、その面倒臭さが自分で嫌になる。

 十六年ほど生きてきた僕だけれど、小学生の頃はもう少しまともな性格をしていたように思う。人にありがとうと感謝を伝えられれば、それを正直に受け取るだけの素直さも、自分に対する肯定感も、ちゃんと持ち合わせていたはずだ。けれど、いつからこうなってしまったのかな。

「そんなに落ち込むのなら、取れるまで諦めなければ良かったのに。二百円程度で申し訳なさを感じていては生きていけないわよ」

 茜色に染まった東京の住宅街、田舎と比べれば背の高い住居がびっしりと隙間なく建てられている景色の中に点々と存在する小さな公園でミオと僕は、その大きな体には似合わない小さなシーソーに跨り、いやに寂しげな音を聴きながら揺られていた。

「落ち込んでなんかないよ、落ち込む理由なんてないだろ。ただ」

 全くその通りだ、けれど、自分で言っておきながら僕の心境は、相反している。

 僕らは結局、二人揃ってぬいぐるみを取ることが出来なかった。

「あの子が可哀想だなって、そう思っただけだよ」

 機体のショーケースに張り付いて、最後までぬいぐるみを見つめていた少女。

 ものすごく欲しかったんだろうなって、ゲームセンターを出てから後悔するみたいに思った。その程度、別に気にするほどのことでもないのだろうけれど、希望を持たせるだけ持たせてしまったことが申し訳なくて、何というか、結局のところ、やっぱり僕は落ち込んでいるのかもしれない。

「ありがとう、お兄ちゃんたち」

 お父さんに、そう言わされていた彼女の切なげな表情が頭の中に残って、消えてくれない。夜眠って朝起きたら、きっと忘れてしまうのだろうけれど、その程度の小さなことに気を取られてしまう僕って、はあ、大きな溜息が出た。

「嘘が下手なのに嘘をつこうとするのね、変わってるわ」

 そんなことを面と向かって、しかも仏頂面で言われてしまった僕は、彼女の表情の向こうにある感情を少しだけ想像してしまう。アンドロイドの心、存在するのかどうかも怪しいところではあるけれど、今のところ彼女のことを人間だと勘違いしてしまうくらいには、僕なんかよりもずっと真っ当な心を有しているように見えたのだ。

「お前さ、僕といても楽しくないだろ。手帳届けたこととか、その、船でのこととか気にしてるんなら忘れていいよ」

 彼女のことを気遣って言った。けれど、言い終えてその気遣いがまさに自分の面倒臭い一面そのものだと気が付いてしまう。どうしてこんなことを言ってしまったんだろう、と彼女の表情に遅れて思って、けれど、その言葉を取り消せないことに後悔した。

「加藤君」

 自分のネガティブさが嫌になる。

「……何だよ」

 その心は、プログラムされた心は、こんな僕に何を思うのだろう。不安になった。

「あなたって面倒な人ね」

「……」

 そうだよな、その通りだよ。いつからか、僕は面倒な人間になっていた。いつからだろう、両親が離婚した頃からかな。引っ越し先で上手く馴染めずに、気が付けば一人でいることが当たり前になっていて、そんな自分を面倒で変な奴だなあとどこか俯瞰的に見るようになっていた。

 相手にどう思われているのか、客観的に思考するようになってからは、いや、ネガティブに思考するようになってからは、そんなことばかり考えている。

 あーあ、面倒臭い。酷く自分が面倒臭いね、携帯電話を携帯していないなんて言い回しも、今どき携帯電話なしで生きてしまえる自分も、何だか時代に取り残されているみたいで、周りは僕のことを変人だと思っているんだろうな。

「自分でも面倒臭いことくらい分かってるよ」

 悪い思考の仕方だと、深く考え過ぎは良くないと、周囲の人間には、そう言われ続けてきた。「でもさ、仕方ないだろ」

「直んないんだから。申し訳ないね、こんな僕の愚痴みたいなのに付き合わせちゃって」

「それが、加藤啓一君」

「そう、これが僕だよ。ネガティブで卑屈で、言葉をこねくり回すだけが取り柄なのさ」

 きっと彼女は、僕のことを否定するだろう。

 きっと彼女は、僕のことを拒絶するだろう。

 きっと彼女は、僕のことを許容しないだろう。

 帰って寝よう、今日も僕は、そんなことを思った。

けれど、

「それは、あなたの美点よ」

「は? 何言ってんだよ、面倒臭いだけだろ」

 彼女は首を横に振って言った。

「自分のことを面倒臭いと、そう思ってしまうのは、それだけあなたが他人の立ち位置になって自分を考えられている証拠よ。その上で悲観的になってしまうのは、仕方のないこと。だって人間は」


 だって人間は、どれだけ考えようと他人の気持ちを本当の意味で理解できないもの。


「だから不安で、面倒臭くて、大抵の人は考えることをやめてしまう。悲観的になる前に打ち切ってしまう。だから、加藤君の心が痛むのは、それだけ他人に対して熱量をもって接している証拠なのよ。もう一度、言うわ」

 そこで、彼女は一度言葉を溜めて、微笑んでから言った。

「それは、あなたの誇るべき美点よ」

「……何だよ、それ」

 こんなことを言われたのは、初めてだった。僕はずっと、面倒臭がられて嫌われて、遠ざけられてきたのだから。そんな自分が嫌で、駄目な奴だと思って、変わり者だと思って、ずっと一人でいた。

 それなのに。

「ネガティブが悪いことだなんて、そんなのポジティブな人間のエゴよ。私が人を選ぶのだとしたら、ほんの少し捻くれていて、不器用だから上辺だけの付き合いが出来なくて、けれど、人一倍の熱量で関係をもってくれる人を選ぶわ。約束する」

 だから、彼女は手を差し伸べて続ける。

「加藤啓一君、友達になりましょう。その方が、私たちの学園生活はきっと賑やかになる」

 真っすぐな目と直截的な言葉。

差し伸べられたそれらにさえも、断る理由を一々と探してしまう僕だけれど。

 僕だったはずだけれど、

「いいのかよ……僕はさ、ほんの少しなんかじゃなくて、かなり捻くれてるんだぜ?」

 ぶっきらぼうに言って不安を隠しながら、それでもいつもよりは前向きな言葉を返す。

 すると彼女は、変わらない言葉の強さで答えた。

「そちらの方が、ずっと楽しそうね。望むところよ」

だから僕も、その手を取って、

「よろしく、アンドロイドのミオ」

 彼女に、他人に歩み寄った。

 人間関係の最初の一ページ目、自ら歩み寄った記念すべき一人目、

「あなたの望む、本物の関係を築いていきましょう、人間の加藤君」

 それは、性格が悪くて、けれど、どこまでも真っすぐなアンドロイドの女の子だった。


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