第4話

 緊急事態という言葉通りの事態に遭遇したのは、あれが人生で初めてのことだったかもしれない。大体、テストの一週間前だったり、朝寝坊しそうになったときだったり、冷静になれば、そんなに大したことのない状況に限って、その場の勢いや雰囲気で緊急だなんて言ってしまうことが大半だ。だけれど、今回ばかりは、真面目に緊急事態だった。

 何せ、突然に友人が倒れたのだから。

 それもアンドロイドの友人。

 救急車を呼ぶべきなのか、警察を呼ぶべきなのか、はたまた何もしないでおくべきなのか、いや、そもそも携帯電話を携帯してないじゃん僕、という点で混乱した話は、さておいて。

 結局のところ僕は、彼女のカチューシャ型携帯電話を借りて武村博士に連絡を取ったのだった。電話を掛けてワンコール、すぐに武村博士と繋がる。

「ああ、君が加藤君なのだろう。何が起きたのかは、分かっているよ。迎えを出そう」

 そんな落ち着き払った第一声、それこそが彼女が僕個人に向けた初めての言葉だった。


        ※


 日野宮高校付近の沿岸部に建てられた巨大な箱型建築、その名もタケムラテクノロジーアンドロイド開発研究所。外観から内装まで建物の全てが白一色であり、受付のカウンターに置かれた観葉植物が必要以上に目立っていた。防犯対策なのか自動扉以外に透明なガラスは見当たらず、扉にしたって一つ一つに顔認証やら指紋認証のセキュリティが設けられていて、想像以上にハイテクな施設だった。凡そ僕みたいなアナログ人間とは一生涯縁のない場所だと思われたその受付、真っ白な壁にもたれ掛かる男子が一人。

 それは、僕だった。

 時刻は、二十三時二十四分、僕の腕で時を刻む赤い時計がそう示している。

「ミオ……どうしたって言うんだよ」

 静謐な夜ではあるけれど、僕の心は決して穏やかなものではない。先ほど研究員らしき人にミオが運ばれたきり、一時間近く何の音沙汰もないのだ。しかし、そんな僕の呟いた声は、誰に拾われることなく自動扉から差し込む月明かりに溶けてなくなった。

 故障だろうか、こんなとき僕に知識があれば心当たりの一つや二つ思い浮かんだのかもしれないけれど、今はこうして彼女の身を案じることしかできないのが歯痒い。あまりのどうしようもなさに思わず、大きな溜息が一つ漏れた。

「か、加藤君……!」

 そのとき自動扉とは反対の方向、受付のさらに奥で誰かが僕を呼んだ。やっとミオが戻ってきたんだ、そう思って視線をそちらに向けるも、そこにいたのは。「奈々子先輩……?」

「今、叔母さんから、あ、えっと武村博士からミオさんの状態について話を聞いてきた」

 黒のスラックスと白衣に身を包んだ彼女は、どうやら僕よりも先に研究所を訪れていたようだ。しかし、ミオが倒れて、そして僕がここに来るまでの間に大した時間は掛かっていないはず、それなのにどうして奈々子が先に。まるで、前もってミオが倒れることを予測していたんじゃないかと、そんな気がしてならなかった。

 疑心暗鬼、僕は、自分が思っている以上に冷静さを欠いているのかもしれない。

 無意識のうちに凝視していたのだろう、奈々子が僕の視線に気付いて、怯えた様子で目を逸らすと言った。

「こ、ここには、学校が終ってすぐ、き、来てた、よ。叔母さんから話があるって言われて」

「そう、ですか……あの、それでミオは?」

「く、詳しく調べてみないと、わ、分からないって……で、でも安心して。叔母さんの作る機械は、簡単に壊れたりしない、から。そ、それから、これ」

 言って手渡されたものは、携帯電話、スマートフォンだった。

「長期メンテナンス……らしいから、一応。私とミオさんの連絡先が入ってる」

 メンテナンスが明けたらすぐに連絡が出来るようにということだろうけれど、ただ待っているだけだなんて。第一、どうして博士が出てこないのだろう、僕に話せないくらい状況が深刻なんじゃ。

 ミオ、これじゃあ良い休日なんて過ごせそうもない。

「か、加藤君」

 数時間前までは、この時間が続けばいいと、そんな風に感じていたのに。

 それなのに腕時計の針は、二十三時半を回っている。「ね、ねえ!」

「え?」

 迷路のような思考から僕を引きずり出したのは、奈々子の緊張した声だった。

「す、すす、少し、外、歩こうよ」


        ※


 午前零時、夜の海辺は、静かな波の音で満たされている。足取りの悪い砂浜のせいか、頬を撫でる風も向こう岸に見える東京の夜景も、時間そのものがゆったりと流れているように感じられた。奈々子が僕を連れ出したのは、気を遣ってくれたのかもしれない。ここは、研究所内よりも自分を落ち着かせられる場所だった。とは言え、奈々子が頻繁に足を取られて転びそうになるため、ときどきハラハラもしたが、「うわぁっ!」ついに転んだ。元々、運動神経が良いようには見えなかったけれど、予想通りだったらしい。

「大丈夫ですか? ほら、手」

「手……う、ううん。大丈夫、ありがとう」

 一瞬、戸惑うような表情になって彼女は、僕の差し出した手には触れず、そのまま立ち上がった。再び彼女が歩き出して、仕方なく、その手の平に残った虚しさを僕は握り締める。彼女と学校外で時間を共にするのは、初めてのことだ。それもあって、彼女がどのような距離感で関わり合うことを求めているのか、正直なところ掴みかねている。そんなことを考えていると少し先を歩いていた彼女が振り返らずに言った。

「か、加藤君は、何か、私に聞きたいこと、ある……?」

 聞きたいこと、聞くべきこと、考えて最初に浮かんできたのは、武村博士が僕と直接会って話をしてくれなかったことだ。

「え、えっと、それは、その、あの人も私と同じで、人と話すのが苦手、だから、かな」

 で、でも、と彼女は続ける。

「わ、悪い人じゃないよっ。だって、あの人がアンドロイド開発に乗り出したのも、か、過労で母を亡くしたのがきっかけだし、ほ、本当に心から研究と向き合ってる。け、研究所のみんなも、だから叔母を尊敬、してる……ミオさんのこと、安心して託して欲しい」

 人と話すことが苦手、だからこそ自身の研究に打ち込み誰かの役に立とうとしている。そんな人物像が奈々子と重なって、武村博士イメージしやすかったのかもしれない。

「そうなんですね、お母さんを亡くされて」

 何より、奈々子の庇いたい人が悪い人だなんて僕には思えなかった。

「母を亡くした話はみんな知らない。だから内緒、だよ」

「わかりました」言った僕の声は、気が付かないうちに柔らかなものとなっていた。僕らの間に流れていた空気も、弛緩したように思う。もしこれが本当なのだとしたら、それは奈々子が僕の緊張や不安を和らげようと努力してくれたお陰だろう。そんな気がして、再び聞こえるようになった波の音の中、先輩との距離を一歩詰めて隣に並んだ。「この砂浜の奥に、良い場所があるの」

「この先にですか? へえ、どんな場所なんだろう。気になるなあ」

 この砂浜の向こうにそんな場所があったなんて、夜間で視界が悪いというのもあるのだろうけれど、ここから見る限りでは太陽光発電のパネル群と船着き場、あと雑木林くらいしかないように思える。ふうむ、奈々子の秘密のスポットといった感じか。

「そこはいつも静かで、か、考え事するときとか、私もよく行く、よ」

 そう話してくれた彼女に連れられ辿り着いた場所は、雑木林を抜けた先にあった岩場だった。そこは、比較的小さな岩が点々と足場を作っており、差し込む月明かりが岩と岩の間でたゆたう水面を照らしている。この場所が外から見えないようになっていたのは、東と西を囲うように存在していた雑木林と太陽光発電のパネル群が壁になっていたからだろう。

 まさに隠れスポットと呼ぶに相応しい場所だった。だがしかし。

「奈々子先輩……ここ」

「そ、そう、なんだ……夜になると、か、カップルで、溢れちゃって」

 目前に広がっていた景色、それは両手で数えきれないくらいの恋人たちの姿。いちゃいちゃいちゃいや、ホログラム通話も物理的にも。反リア充細胞が埋め込まれていない僕でさえ、一歩踏み出すことに躊躇いを覚えるレベルだ。

「さ、さすがに引き返しましょう」

 そんな僕の撤退宣言に、しかし奈々子は、

「だ、駄目っ! きょ、今日こそ、が、頑張る!」

「え、ええっと?」頑張るって何を?

 僕の頭の上に浮かんでいた疑問符など気にも留めず、言って奈々子は、岩場へと足を踏み入れようとする。そうして踏み出した一歩を呆然と見ていた僕だけれど、それはあまりに迂闊だった。

「う、うわぁっ!」

 こちらの想像よりも、その小さな一歩は、海水に触れるか否かの高さにある岩の湿った側面に着地し、当然ながら砂地でさえ足を取られるような彼女が、上手く踏ん張れるはずもなく、次の瞬間にはその華奢な身体がひっくり返るような形で宙に浮いていた。

 浮いていたのは、一瞬のこと。

 僕が反射的に動き出す頃には、落下を始めていた。

「奈々子先輩っ!」

 走り出して、少なくとも岩場よりは安定しているだろう浅い水面に片足を突っ込む。なに、片足くらいどうってことない。なんたって僕は、昨日だけでも二回以上全身びしょ濡れになっているのだ、覚悟が違うね。

 そんな僕の咄嗟の決断力が結果に繋がったのか、彼女を背中から抱きしめる形で無事に転倒を防ぐことができた。まさに間一髪、見たところ彼女に怪我は見当たらない。被害があるとすれば僕のお気に入りのスニーカー二足くらいだが、夏の暑さにかかれば半日も掛からないだろう。神は、もう僕に全身びしょ濡れにならなくていいと、そう言っているみたいだ。「大丈夫でしたか、奈々子先輩」

そう思っている矢先、突然に僕身体は突き飛ばされた。

「さ、さ、触らないでっ!」

 何が起きたのかを理解したとき、僕の身体は水面に吸い込まれるように落ちていき、

「マジかよ……」

 気が付くと水面下から月を見上げていた。

 あーあ、日付が変わったのに。どうやら僕は、今日も運が悪いらしい。

「ああ、ああ、ご、ごめんなさいっ!」

 しかしまあ、何だか強引に抱きかかえた僕にも配慮が足りていなかったかもしれない。猛省すべき点だ、謝意を伝えようとして口を開くと海水のしょっぱい味がした。想像以上の塩辛さに、ごほごほと漫画みたいな咳が出てしまう。すると奈々子が、泣き出しそうな顔でこちらに駆け寄ってきて、首がとれるんじゃないかという勢いで頭を下げてきた。それは何だかヘッドバンキングしているみたいで面白い光景だ。

「わ、わわ、私って駄目な人間だあ。い、いつも、た、助けてもらっておいて、ひ、酷いこと……そもそも私の足が、も、もっと長かったらこ、こんなことには、な、ならなかった、よね。か、加藤君も、そ、そう思ってるはず……わ、私の短足に、あ、呆れてるはず」

 そこなんだ、足のことなんだ。

びしょ濡れの僕を差し置いて、持ち芸のヒステリックを起こしたと思えば、何だか面白過ぎる被害妄想を働かせているようだった。可愛い女の子が泣きそうになっている、こうしてその姿を見ていると謎の背徳感がわいてきた。

「先輩のせいで僕はびしょ濡れですけれど、どうしてくれるんですか」

「ああ、ああああ、あああああっ! 後輩の服を濡らしちゃうなんて先輩としても人としても、ぜ、絶望的に終わっちゃってるよね! も、もう、いっそ、ここでタオル代わりに自分の服だけ残して、身投げすれば、す、少しは挽回、で、できるかな。で、でも、か、加藤君、私の服なんかで、体拭きたくない、よね。と、とりあえず、死んで考え、よっかなあ」

 ここまで来ると想像を超える被害妄想力だ、死んで考えるなんて台詞生まれて初めて耳にしたかもしれない。とは言え、大粒の涙を流し始めた彼女を虐めるのもここらで潮時だろう。これ以上は、可哀想で見ていられなかったし、本音を言うと何だか面倒臭くなってきた。

「先輩、落ち着いてください。言うほど僕は別に気にしてませんから」

「ほ、本当に……? た、短足だって思ってない……?」

「思ってない、思ってない、全然思ってません。短足でも豚足でもなければ、先輩の足は、れっきとした人間の物ですよ」

「に、人間だなんて褒め過ぎだよ……や、優しいんだね。やっぱり」

 そう言って徐々に落ち着きを取り戻した奈々子は、何だかちょろかった。

 結局のところ、岩場から撤退することにした僕らは、明かりの消え始めた海岸沿いの街を歩いて研究所へ戻ることに。街が寝静まっても、横目に見える海の様子は変わらず静寂そのものだ、そう思って波の音に耳を澄ましていると奈々子が、呟くように言った。「私ね」

「こ、この前、男の人に乱暴されかけ、て、から、さ、触られる、のが、ちょっと、怖くて」

 五月のこと、彼女は男子生徒に暴力を振るわれかけていた。それで男性が苦手になってしまうことには、納得がいくのだけれど、それならばどうして僕とこんな場所へ来たのだろう。不思議に思って尋ねると、

「か、加藤君となら、い、行けるかなあって、お、思って……だけど」

 駄目だなあ私、そう言って彼女は、力なく笑った。

 どうして、気になって僕は言う。

「僕とならって思ってくれたんですか?」

 僕は、別に特別なことをしたわけじゃない。彼女の虐めを解決したのは、ミオだ。

 奈々子は、考えるように唸って、言った。

「初めてだったから、かな」

「初めて……? それは助けようとした人ってことですか?」

「ううん。虐めに気付いて助けようとしてくれた人は、な、何人かいた、よ。だけど、ね、私が拒絶しても、それを許して、傍にいてくれた人。加藤君が初めてだった」

 だからきっと、と彼女は続ける。

「吹っ切れて、頼ってもいいかなって思ったのかも。でも失敗して、挙句の果てには、酷いこと言っちゃった……優しいから許してくれたけど、傷つけちゃった、よね?」

 傷ついてなんかない、そんなありきたりなことを返そうとした。

 だけどそれは、彼女が突然立ち止まって意を決したように言った「あのね、加藤君」という声に止められてしまう。

 街灯の光に照らされた彼女の表情は、冴え渡る銀の月のように真っすぐで綺麗で儚げ。

「こんなこと聞くのは、気持ちの悪いことだって分かってるけど、い、一回だけ」

 僕は、彼女の言葉に耳を傾ける。

「か、加藤君はっ、わ、私のこと、へ、変だとお、お、お、思って、き、きき」

「うん、ゆっくりで、大丈夫」

 緊張した様子の彼女を宥めるように僕は言う。意味があるのかどうかは、分からない。

「き、嫌いに、な、なったりしない……?」

「……」

「あ、あれ……?」

 こちらが黙り込むと明らかに不安そうな表情になった奈々子、そんな彼女の様子に自然と笑みがこぼれてしまった。「な、何で、笑うのっ!」

「ごめんなさい、面白くてつい……でもまあ、正直なこと言うと」

「う、うん」

「変だとは思います。いつも一人で機械いじってるし、女子高生らしくないですよね」

 感情が表に出やすいタイプなのかもしれない、僕が言うと奈々子の表情が顕著に曇った。思いのほか僕たちは似ているのだろう、自分という人間が変に思われていないか、嫌われているんじゃないか、意識するほどではないことも本気で気にしてしまう人間性。

 僕は、そんな自分のことがずっと嫌いだった。

 けれど、

「僕は、そんな奈々子先輩のこと嫌いになったりしませんよ」

 今は、そんな面倒臭い、ネガティブな自分がいても良いのだと思っていた。

アンドロイドの彼女が、そう言ってくれたから。

「寧ろ、自分がどう思われているのか不安になってしまう先輩には好感が持てます」

 だから僕は、今の自分のことを気に入っている。

「ほ、ほんとに……?」

「ええ、本当です」

 そう答えると奈々子は、俯きながら、しかし緊張で強張らせていた表情を崩して言った。

「あ、ありがとう、嬉しい、な」

 缶コーヒーみたいにぬるくなった空気、自然と僕の表情も綻んで自分から話し出してみようと思った。そうして僕らは研究所まで歩く、話していたようで話していなかった趣味やこだわり、教室のクーラーが壊れているとかそんな他愛のない会話のやりとりを夜の闇に響かせながら。

 研究所の前で別れる直前、奈々子が世間話をするみたいにこんなことを言った。

「こ、今年の夏が明ける頃には、克服、したいな。男の子が苦手、なの」

 奈々子が頬を赤らめ、何かを訴えるような目で、ちらちらとこちらの様子を窺う。まるで拾ってきたボールをもう一度投げて欲しそうな犬だった。「どうしたんです、急に」

「と、ということでっ!」

 何だ、何だ、いきなり手を挙げて叫び出すなんて。

「か、加藤君には、そ、それをて、て、手伝って……欲しい、の」

 言い終わる前にしぼんでしまった彼女は、それでも一応、自信なさげに手を差し出してきた。そしてその手の中には、見覚えのない薄桃色の小さな紙が握られている。

「遊園地に、行きたいです」


        ※


 彼女は、黒い髪をいつもポニーテールにしていた。まるでそれが自分のアイデンティティであるかのように譲ろうとしない。

 小学生の頃の話、僕は周囲の人間がどんな髪型をしていようと一向に気にしないタイプだったが、ゲームセンターで会う彼女に関してだけ言えば、他の髪型も見てみたいと、そう思っていた。理由はよく分からないけれど、多分好きだったんだ、彼女のこと。だから一度、そんな僕の要望を彼女に伝えたことがあるのだけれど、

「いーの、これが一番、可愛いから」

 却下されてしまった。

 そうして、期待していた返事がもらえなくて僕が俯いていると、彼女が言った。

「んー、どんなのが好きな髪型?」

 言われて僕は、降ろしたのも見てみたいって答えた記憶がある。

「じゃあ、次会うときまでに啓一君は、髪切っといてねー」

「え? なんで?」

「短いほーが好きだからっ」

「う、うん。分かった」

 確か、こんな会話だった。

 僕らが交わした最後の会話。

 その後、彼女が髪を降ろしてゲームセンターに来てくれたのかどうかは分からない。

 両親の離婚が決まったのが直後のことで、色々な手続きとか祖父母の家へ顔を出しに行ったりしているうちに時間が過ぎて、そのまま、彼女と会うことのないまま、僕は東京へ引っ越したから。

 この頃、あの日の彼女を、頻繁に夢で思い出すようになった。

 思い出して目が覚めると、決まってお腹が痛くなる。

 僕がいなくなった程度のことを彼女がどう思っていたのかなんて分からないけれど、無意識のうちに自分だったらと、心境を当てはめて考えてしまう。

 ごめんなさい、酷いことをしてしまった罪の意識がまず初めに僕を苛んで、体の中で黒い何かが蠢きだす。一分、十分、十五分、それ以上の長い時間、それは僕の中で蠢いて最後には別の感情へと姿を変える。そうして心に残る感情は虚しさだ。

 他人の心を想像して、はっきりとしたことは分からずに疲れ果てた僕は、いつも天井の暗闇に虚無を見る。こんな風に。

 意味なんてあるのだろうか、こんな風に誰かのことを考えるなんて。

 時間が流れてしまえば、どうせまた思い出さなくなるだろうに。

「ミオ」

 僕にとって特別な意味をもつその名前を呟いて、しかしそれは暗闇の中に虚しく溶ける。

 いつかきっと、この特別も溶けてなくなる。

 けれど今は、そうなってしまうことが怖くて、逃げるように僕は。

 視界を閉ざした。


        ※


「か、加藤君。え、ミュージカル終わったよ……」

 真っ暗闇に照明が灯り、その眩しさに目を覚ますと僕の隣には、制服に身を包んだ美少女の姿があった。僕としては私服姿を期待していたが訪れた遊園地の制服割引を適用させるために仕方なく、ということらしい。

「ふぁあ、眠い……あ、寝ちゃってましたね」

 遊園地内にあるミュージカル劇場、他の観客が感想を口にしながら出口に続く細い通路へ流れていく様子をぼんやりと眺めていると、悲しいことでもあったのだろうか、奈々子が大きな溜息を隣で漏らした。「どうかしました?」

「そう、よね。私と観る映画なんて、面白くない、よね。加藤君も、この女優さんみたいな、妖艶で、か、髪の綺麗な人の方がいい、よね。私みたいな、くせ毛をパーマで誤魔化してる、に、偽ストレートより、本物が好き、だもん、ね……」

 言って、偽ストレートセミロングの栗色髪をいじる奈々子だったが、相変わらず被害妄想の方向が意味不明だった。

「安心してください、僕は偽ストレート派ですから。ミュージカルは、面白かったんですけれど先輩が隣にいると思うと気が休まり過ぎて眠ってしまいました」

「ほ、本当……? え、ミュージカルはどこが良かった?」

「そうですね、特にタイトル『いつになったら彼女を作るの?』は、かなり挑戦的なワードでした。先輩の選定センスには、驚かされるばかりです」

本当に。チケット見たときは、先輩が僕のこといじってんのかと思ったくらいだ。そんな僕の気持ちなど露知らぬ奈々子は、心なしか頬を染めて笑った。

「え、えへへ。優しいんだ、ね」

 不意打ち、予想外の可愛らしい表情としぐさにたじろいでしまう。いかん、いかん、気持ちを切り替えて僕は言う。

「あの、僕たちは先輩の苦手意識を克服するためにここへ来たわけですけれど、何か指標というか具体的な目標みたいなのは、あるんですか?」

「目標……そうだ、ね。て、手を繋ぐとか、どう、かな?」

 手を繋ぐ……か。

「加藤君……?」

 夏だから、次第に二人の手が汗ばんできて、それでも手を離すタイミングが分からなくて、気付けば三十分、いや一時間くらい繋いじゃったりして。

 想像していたら、何か緊張してきたな。

「だ、大丈夫……?」

「え、ああ……いや僕は大丈夫ですよ。そんなことよりも先輩」

 なにはともあれ、ここは遊園地。

「僕に惚れないでくださいね」

きっと、うまくいくだろう。

 僕は軽口を叩いて誤魔化した。


        ※


 沈みゆく陽と園内アナウンス、観覧車から見える閉園三十分前の遊園地は、帰りを惜しむ恋人たちや疲れて眠る子供を連れて帰る親の姿で溢れている、けれど、少しずつ、少しずつ、確かにその姿は――今日が終っていくのだと、ふとそんなことを思った。

「ご、ごめん、ね。手、繋げなくて……」

 物憂げな表情をしている。窓の外を眺めながら、奈々子が言った。

景色が孕んでいる寂寥感、それは一日が過ぎて行くことを止められないのと同じくらい、僕にはどうしようもできない感情だ。自分がもっと上手くやれていれば、きっとここから見える景色にも、違った感情を抱くことができたのだろう。

 要するに、僕らは失敗した。

 遊園地のアトラクションをきっかけに、気が付いたら手を繋いでしまう作戦は、僕の誤算によって失敗したのだ。

「で、でもさ」

最初に入ったお化け屋敷では、そのホラーな雰囲気を利用して、自然とスキンシップが発生することを期待していたが、そもそも奈々子は怖がる素振りさえ見せなかった。どころか演出装置の仕組みに興味津々で、結局怖い思いをしたのは僕だけだ。

「わ、私は、す、すごく」

 その後の、ジェットコースターも空中ブランコも、切り札だったホログラムとプロジェクションマッピングを組み合わせた異世界の冒険も、色っぽい展開が起こることは一切なく、普通に純粋に無邪気に遊び回ってしまった。

「楽しかった、よ。加藤君は……?」

「もちろん、僕だって楽しかったです」

 だけれど、それは。

「よ、良かった……何だか、ね、あっという間に感じた、よ」

「僕も、同じです」

 奈々子と過ごした時間は、想像していたよりも、ずっと楽しいものだった。

 それこそ、時が経つのを忘れてしまうくらいに。

「そ、それに、ね。手は繋げなかった、けど……その、私、ど、どき、どきも、ちゃんとしたんだ」

 ほど良い緊張に包まれた時間と、無意識に口元が綻んでしまう穏やかな空間。

 奈々子と話していると、こんな時間がずっと続けばいいと、そう思ってしまう瞬間が何度もあった。

 彼女も、同じことを感じてくれているのだろうか、窓に映る横顔を見てふと不安になる。

 けれど、その不安さえもが心地良くて、胸の奥がじんわりと温かくなる。

「だ、だから、つ、次は、ちゃんと――」

 こんな気持ちになったことは、以前にもあった。

「先輩、もう、良いんじゃないですかね」

 その気持ちのことを以前の僕は、「気になる」と、そう呼んでいて、そしてそれは、ミオに対して抱いていた特別な感情だったはずで。

「男性が苦手で、スキンシップが出来なかったとしても、今日の先輩は楽しそうだったし」

 それなのに僕は、同じ感情を奈々子にも抱きかけている。

「それで充分だと思います。だからもう――」

 ずきりと胸が痛む、その傷口から温かな熱が漏れ出して、自分でも分かるくらいに心の中で虚無が広がっていく。

 僕が感じていたことは、特別でも何でもなかったんだ。

「――あ、あのねっ!」

 客観視、必死な様子でこちらの言葉を遮った奈々子のことをどうしてだか僕は、酷く落ち着いて見つめていた。

「つ、次の日曜は……う、海に行きたいな」

 奈々子が立ち上がって、僕を真っすぐに見て言う。

 涙に揺れる瞳と震える声に、しかし僕の心はうまく機能せず、無感情のままに答えた。

「もう、終わりにしましょうか」


        ※


 日曜日の朝、切タイマーをセットしておいた冷房が時間通りに仕事してくれたお陰で、自室のベッドで眠っていた僕は、全身汗まみれで目が覚めた。極めて不快な感触と冷房の掛け過ぎを禁じている親の言いつけの間で悩み、葛藤した末に冷房を起動させることに決める。

しかし、「冷房つけて」そうエアコンに向かって命令しようと口を開いたそのとき、枕元に投げ置かれていた携帯電話が突然息を吹き返したみたいに音を鳴らした。

「ぶよぶよっ、してるよっ」

 他人から借りた携帯電話の着メロをいじるなんてどうかとも思ったが、返すときに元に戻せばいいだろう。そんなこんなで着メロは、ぶよぶよのテーマソングだ。相手は多分奈々子か、いや、あんな断り方をしておいてもう連絡なんて来ないだろう。だったら誰だ。

「もしもし、私よ。私、私。誰かなんて名乗らなくても分かるわよね、私、私」

 やはり奈々子じゃなかった。女の人みたいだけれど聞き覚えのない声、誰だろう。

「私よ、私、私。別の女と遊び惚けている内に友達の存在も忘れてしまったのかしら」

「ええっと」

 友達だって? おいおい、これってもしかしてオレオレ詐欺ならぬ私、私詐欺なんじゃ。

オレオレ詐欺、それはこの世界に携帯電話が普及して以来、古来より進化し残り続けている特殊詐欺の代表的手法だ。最近は、変声マイクの普及により老若男女問わず標的にされていると聞いていたが、まだ十八歳にさえ達していないうら若き男子高校生である僕が狙われるなんて。

 だが、そうはいくまい。なんたって僕には友達がいないのだから。

「失礼ですけれど、お掛け間違いでは?」

「確かに失礼したわ、ごめんなさい。あなたには友達なんていなかったものね」

 当てずっぽうだとしてもなんて非常識な詐欺師なんだ、この世の中には触れてはならない事実だってあるというのに。何だか頭にきて僕は、枕元の携帯を手に取り電話を切ることにした。けれど、そこでようやく液晶画面を目にした僕は、

「あれ……ミオ!? でも、声が」

 着信相手の名前に、アンドロイド女子高生の名が表示されていることに気が付く。一体全体何が起きているのだろう、もしや彼女の携帯電話がハッキングされているのではないか、戸惑う僕を前に携帯電話の向こうから深い、深いため息のような声が聞こえた。「はああ」

「言っておくけれど加藤君、携帯電話を通して聞こえる声は、実際の声とは異なるわ」

「ええ、そうなの?」

「固定電話のように有線タイプの物は、原理的に糸電話と同じで声をそのままの波形で伝えているのだけれど、携帯電話のように無線タイプの物は、全て機械が作り出した合成音なのよ。その工程は、音声を収音時にそれを音源とフィルターに分解し、それから固定コードブック、分かり易く言うと音の辞書から限りなく本物に近い音源を二の三十二乗、四十三億通りの組み合わせから探し出し、そうして選び出した音源をフィルターに通すことで相手に声を届けている」

「すげえな、知らなかったよ」

「その作業速度は、零点零二秒毎。私たちがこうして無駄なお喋りをしている間も、携帯電話は、せっせと音を作り出しているというわけ。電話機として生まれなくて良かったわね」

「……そう言われると何だか、話すのが申し訳なくなるな」

「いいえ、その逆よ。こうして無駄に、不必要に、ごたごたと語彙を並べることで、抗う術を持たない彼らに重労働を強いているのだと思うと、結構優越感に浸れるもの」

 ろくでもない貴族のような口ぶりだった、最低過ぎるよ。けれど、その言葉を彼女に届けることにも携帯電話へ労働を強いているのだと思うと気が退ける、とりあえず僕は、言葉を体の内に留めておくことにした。

「というところで、こんな博学披露も下級機械虐めもここまでにして、本題なのだけれど、今日は、私の退院祝いとうことでお出かけをしましょう」

「退院……? メンテナンスが終ったってことか? 結局、原因は何だったんだよ?」

「ただの充電切れとアップグレードよ、心配するほどのことじゃないわ」

「アップグレード……?」

「私の身体でいやらしいことができるようになったのよ」

「いやらしいこと……?」

「そうよ、性的な部分に感覚が備わったの。端的に言って、性感――」

「やめて、やめて! 十八禁になっちゃうよ!」

 フフフ、冗談はさておいて、と彼女は続ける。

「今日はデートをしましょう」


        ※


「奈々子先輩……一体どうして?」

「え、ええっと、その、あ、あの、きょ、今日は、み、ミオさんに誘われて」

 僕らの街から電車に揺られること九十分、鎌倉駅で降りて徒歩数十分、そうして辿り着いた場所は、多くの人々が賑わう白い砂浜を通り抜ける風が潮の匂いを運び、眩しい太陽と光が揺らめく青い海だ。

 そんな広い浜辺にあるビーチパラソルの下で僕は、予想外の再会を果たした。

 ビキニ姿の美少女二人と海水浴に、本来ならば泣いて喜ぶべき状況なのだろうけれど、今の僕としては、反応に困るところだった。

「い、嫌、だった、よね……」

「そんなことは……ないですけれど」

 何を話し出せばいいんだ、気まずさを感じてミオに視線をやると、しかし目を逸らされてしまった。もしかして僕と奈々子との間にあったことを知っているのか、だとしたら。

「ミオ、一体何のつもりだよ」

「何のつもりも何も、遊びは人数が多い方が楽しいもの。奈々子さんも、そう思わない?」

「え、えと、えと……そ、そう、だ、ね」

 確信犯だった、僕が言葉にしなかった「どうして奈々子を呼んだのか」という疑問に答えられている。「さて」ミオは、奈々子の答えを聞いて頷くと一人パラソルの下にシートを敷いて横になった。一体全体放置された僕らは何をすればいいんだろう、さりげなく奈々子の方に視線をやるも、僕と同様に彼女もあのことを引きずっているらしく目を合わせようとはしてくれなかった。そんな僕らに向かって、サングラスを掛けたミオが言う。

「加藤君、海に来たのだから泳ぎに行ったらどうかしら。奈々子さんとね」

「……ミオは、泳がないのか」

「遠慮させてもらうわ、私が海水に浸かったら体の中が錆びてしまうもの」

 だから、とサングラスを軽くずらしたミオは、こちらを覗き見て続けた。

「二人きりで楽しんできて」


        ※


気にしているのは僕だけなのか、泳げないミオがパラソルの下で一人風を浴びているのを遠目に見て、何だかなあと溜息が出る一方で奈々子は、波打ち際で準備体操と海水の温度に身体を慣らしている。「でもまあ」

気にしていたって問題が解決されるわけじゃない。少しずつでいい、そう思って僕が奈々子の方へ近づくと、それに気が付いた彼女が振り返った。

「そ、そう言えば、じゅ、準備体操しなくていい、の?」

「ああ、僕は体操しない派なんですよ。こう見えても運動は出来る方というか」

 運動神経が良いからといって準備体操を省いていいとは、ならないのだろうけれど、僕は面倒臭さからそう答える。可能であれば体育の授業もこれで乗り切りたいくらいだ。

 そんな僕の言葉をどう受け止めたのか奈々子は、遠慮がちにこちらを見て言った。

「も、もしかして、泳ぎに自信あるって、こと?」

「え? ああ、まあ、それなりには……苦手じゃないって程度ですけど」

「そ、そうなんだ……じゃ、じゃああんまり自慢にならない、かもだけど、私も得意」

 じゃあさ、と奈々子は言う。「勝負しよう、よ」

「ゆ、遊泳エリア奥に魚除けの浮きが見える、でしょ? あ、あそこまで競争とか、どう、かな」

 そう言って彼女が指さした先、ここから五十メートルほどの距離か、そこには確かに波に揺られる黄色の浮きがあった。まあこれくらいなら、僕は奈々子の誘いに首を縦に振る。「いいですよ」すると会話に慣れてきたのだろう、彼女の頬が、ぽっ、と赤くなって自然な流れで話を続けてくれた。

 ルールは簡単だ、浮きに背を向けた状態から心の中で十秒数えて試合開始。先にゴール地点である浮きに触れた方が勝者で、ここから先が奈々子の提案した追加ルール。

「ま、負けた方は、か、勝った方の言うことを、ひ、一つ、聞く、の」

 何だか面白そうなルールだと思って、僕はそれを受け入れることにした。

「さ、先に何をさせたい、のかだけ、き、決めて、おこう? そ、その、叶えられない、ようなこと、だったら、お、お互い、嫌、だから」

「それも、そうですね……うーんと」

 どちらから言うべきなんだろう、こういうのって。考えていると奈々子が言った。

「か、加藤君から……お願い」

「僕がして欲しいことか……何だろうな。ああ、そうだ」

 この前のこと謝らせて欲しい、そして許して欲しい、僕がそう言うと彼女は、驚いたように目をぱちくりさせて、やがて口元を綻ばせた。

「無欲、なんだ、ね」

「え?」

「ううん、何でもない。いい、よ……じゃあ次、私の、番」

 そこで彼女は、一度大きく息を吸って、

「加藤君は、ミオさんのことが、す、好きなのか、教えて、欲しい、かな」

「……」

 どう答えるべきなのか迷って、けれど僕は、思いのほか落ち着いたままに考えて答えた。

「いいですよ。じゃあ、勝負、しましょうか」

 そうして僕らは、一、二、三、互いの位置について十を数える。

 十秒経過、そして。

 舞い上がった水飛沫、どうして僕の気持ちを知りたいのだろう、僕は彼女の言葉の意味を考えてしまったせいでコンマ一秒、出遅れてしまう。

 思っていたよりもずっと速い、奈々子が水泳をやっていたということは、彼女から教えてもらっていたが、ここまでとは。気が付けば数メートル以上、普段の彼女からは、想像もつかないようなクロール泳ぎで僕との差が広がっていく。

 マジかよ。

 追いつけない、波の強さが原因なのかどれだけ身体を動かしても押し返されてしまう。そうこうしているうちに、奈々子が浮きへ到着し、こちらに振り返ると、僕を見て驚いたように目を見開き、そして笑った。

 純粋で影のない喜々とした笑み、思わず見惚れてしまった僕は、一瞬だけ体の動きを止めてしまう。それがいけなかったのだろう、沈み始めた身体、足を慌てて動かすと変に力んでしまい、痛みが走った。

「ヤバいっ! 攣った! うあ」

 そんな僕をさらに波が襲う、痛みに耐えかねて叫んでしまったがために大量の海水が肺へ入り込む。止まらなくなった咳と、半開きの口から容赦なく流れ込んでくる水により、呼吸が乱れる。乱れ、混乱、ここは遊泳エリアであり、冷静になれば焦る心配はどこにもない。しかしけれど、あまりの苦しさと突然のことに僕は、手足をばたつかせもがき、体を横転させてしまい、気が付けば全身が水中に飲み込まれていた。

 目と鼻と口、穴という穴から水が入り込んでくる。もう、わけが分からなかった。

 苦しい、想像を絶する苦しさに意識を保てなくなりそうだった。

「諦めちゃいけない」

 意識を手放す直前、死にたくない、そう思った。


        ※


 突然咳が出たらしい、覚えはないが自分の苦し気な声が聞こえて、それを理解する。

 ぐわんぐわんと視界が揺れている、その中心にぼやけながらも見えたのは、艶やかな唇と潤んだ瞳、端にある青は空だろうか。

 感覚、はっきりとはしないが胸の辺りに誰かが手を置いているらしく、やんわりとその重みを感じる。確か僕は、海で泳いでいて、それで、溺れて、マッサージを、心臓の、受けているのか。

「加藤君」

 音、そのとき聞こえてきたのは、目の前の誰かが泣き出しそうな声で呟いた「……ほんとに良かった」だった。僕は、この人に助けられたのかもしれない。

けれど、髪色も匂いも、頬に触れた肌の感触も、今は意識が朧気で判然としない。それどころか目を開け続けられそうもなく、自然と視界は暗闇に呑まれていった。

「やっと目を覚ましたのね、加藤君」

 夕暮れ、僕が瞼を開けるとビーチパラソルの下で、夕陽を眺めて佇むミオが隣にいた。あれからどれくらい時間が経ったのだろう、空の色を見たところ数十分程度では済まなそうだ。漠然と自分の意識が失われていた間のことを考えていると、帰り支度を済ませたらしいミオが立ち上がって言った。

「あなたは、どこまで憶えているの。今日のこと」

「それがあんまり。溺れたことは憶えているんだけれど、ミオが助けてくれたのか?」

 一体誰が、僕を助けてくれたのか。僕の名前を呼んでいた辺り救急隊員ではなさそうだったけれど、誰なんだろう、お礼も伝えなければならないし、気になるところだった。

 尋ねて、しかし僕を一瞥して彼女は、何も言わず手荷物をもって歩き出した。ビーチを出て行こうとしているのだろうか、何だかそっけない。慌てて服を着て、海水パンツも履き替えるべきか迷ったのだけれど、もう随分と乾いていたからそのままにミオの背中を追った。「そういえばさ、奈々子先輩は?」

 その背中に話しかけると、彼女は立ち止まってくれたが振り返らずに答える。

 いつにも増して冷めた声だった。

「奈々子さんよ」

「えーっと、だから奈々子先輩はどこに?」

「無呼吸状態になっていたあなたを助けたのは、奈々子さんよ」

 意識が失われていた間、僕はそんな状態になっていたのか。しかし、無呼吸状態になっていたのならば、授業で習った程度の知識しかない僕にでも分かる。

心臓マッサージだけでは、適切な処置とは言い難い。

 つまり奈々子は、男性に触れることさえ出来なかったはずの彼女は、僕に。

「あまり長い時間ではなかったけれど、あなたが目を覚ますまで人工呼吸を続けていたわ」

 それから、とミオは続ける。

「この件に関して私は、何もしていない……いいえ、何も出来なかった。泳げないし、呼吸も出来ないから、だから、それだけ」

 言い直してミオは、再び歩き出していた。

 やらなかったのではなく、出来なかった。そのことに彼女が何を思って、どういった感情を抱いているのか僕には分からなかったけれど、妙な引っ掛かりを覚える。「待ってよ」

「どうしてそんなに、その、そっけないんだよ」

 緊張、握りしめた手が汗ばむ。

「僕の勘違いかもしれないけれど、奈々子先輩のこと気にしているなら、あれは事故だろ」

 言葉が返ってくるまでの間、心臓がいやにざわついて落ち着かなかった。

 見えない、彼女が何を思ってそんな態度で僕に接するのか。

 その掴めない心に対して、はやる焦燥感が僕の足を動かした。

 落ち着きたい、安心したい、そんな願望は、しかしけれど、


「そうね」


 返ってきた言葉は、たった一言だけだった。

 返事がなかった方がまだ良かったのかもしれない。彼女が無視をしていたのならば、その後ろ姿を追うことが出来たのかもしれない。

 けれど、彼女の声に混じっていた拒絶の色が僕の足を止めて、それからどれだけ手を伸ばしても、その背には届かなかった。

「ミオ……どうして」

 濃霧が、僕の頭の中を埋め尽くしていった。

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