第3話

 屋上で、後輩とお昼休憩をとることになった。

 その日は、他の部署が野球大会を開催しており、その時に振舞われたわかめとしらすを混ぜたおにぎりで食中毒が発生したと大変な騒ぎであった。しかし、時間の経過とともに聞こえて来た続報で、倒れた者たちは皆、前日に飲み会を開いており、体力が回復しきっていない状態での運動によって熱中症になっていただけであることが分かった。これで問題となったのは、大量に余った、罪なきわかめとしらすのおにぎりである。

「先輩、今ならおにぎりいくつでももらえるらしいですよ。私、取ってきますから屋上で待っててくださいよ」

 私は後輩に指を三本立てて見せた。

「承知しましたっ。じゃあ、先輩はお茶を僕の分も買っておいてくださいね」

 結局、持ち出しは私だけではないか。

 屋上のベンチに座って待っていると、後輩はビニール袋におにぎりをいっぱい入れて笑顔で走って来た。

「お待たせしました。いやぁ、タダで食えるのに、取りに来た人、全然いなかったですよ。皆、金持ちな上にバカですよね」

「わかめとしらすとおにぎりが嫌いな人が多いのかもしれない」

「じゃあ、わかめとしらすとおにぎりしかない世界になったら、私たちは生き残れますね」

 それは理屈として通るのだろうか。

 私が考えようとしたところで、後輩はラップで包まれたおにぎりを三つ渡してきた。

 ラップの向こう側であるにも関わらず、おにぎりは美味しそうに見えた。しかも、ラップも丁寧にまかれており、作った人間の丁寧さを感じられる。ラップが破れないように、摘まむようにして剥がしていき、大きく頬張った。

 食中毒の濡れ衣を着せた者たちの罪が万死に値するほどの美味しさである。

「先輩、このおにぎりめっちゃ美味しいですね」

「そう思うよ」

「私、最近離婚したんです」

 おにぎりを吹き出しそうになった。

「唐突だね」

「まぁ、前兆はあったんですけどね。すれ違いとか色々」

 青い空、白い雲、美味しいおにぎり。

 そして。

 離婚話。

 全く合わない。

「私、理系で、元妻は文系だったんですよ」

「まぁ、君が理系なのは分かるけども」

「文系と理系って、相性が悪いと思いませんか」

「どういう意味」

「なんというか、文系の理屈と私たちみたいな理系の理屈って、平行線っていうか。議論がちゃんとできないっていうか。文系の理屈って感情がベースにありますけど、理系の理屈って事実がベースにあるじゃないですか。立ってる位置が違うから、ルールも違うので、会話にならないんですよね」

「じゃあ、なんで結婚したの」

「いつか合うと思ったんですよ。だって、私が正しいのは間違いないし」

「そういうところじゃないの」

「まぁ、一理あるとは思いますけどね。先輩のところも奥さん文系ですよね」

「まぁ、そうかな。数学は嫌いとか言ってたけど」

「でも、仲は悪くないですよね」

「まぁ、ねぇ。僕はそう思ってるけど、奥さんがどうかは分からないよ」

「寂しくはないんですか」

 寂しい。

 久しく探したことのない感情だった。

 僕は返事を考えながら一個目のおにぎりを食べ終えると、二個目のおにぎりのラップを剥がそうとするところで動きを止めた。

「それは、分かり合えない寂しさってことかな」

「そうです」

「あぁ、なるほど」

 ラップを剥がして、二個目のおにぎりを少しだけ食べる。

「ないわけじゃないかもね。一緒にいて、伝わっていないなぁと感じることはある。その時の感情に名前を付けるなら、確かに寂しいが適切かもしれない」

「そうなんですよ。私は、まさにそれが嫌だったんです。夫婦になったわけだし、お互いのことを生涯のパートナーだと思い合ったということじゃないですか。なのに、本当は何も知らなかったし、その隙間を埋めようとしても伝わりにくい文系と理系という関係だった」

「いやいや、文系と理系とか、そんな簡単な分け方では決まらないよ」

「でも、理系同士だと伝わりやすいことってあるじゃないですか」

 確かに、仕事という点で言うなら理系と呼ばれる人たちとやった方が効率がいいし、ストレスなくできる。もちろん、これは、今までの積み重ねによって得られた経験であり、私個人のものなのですべてに当てはまるとは言えないだろう。

 でも、後輩の発言を否定する気にもなれない。

 あぁ、寂しいという気持ちがほんの少しだが湧き始めている。

「私は離婚した経験とか、今までの人間関係からも、やっぱり理系は理系、文系は文系同士の方が良いと思うんですよ。会話や議論の前のすり合わせだって、そこまで必要ないから手間もかからなくて済むじゃないですか」

 妻の顔が思い浮かんだ。

 笑顔ではなかった。

 そう言えば、最近、笑い声も聞いていない。

 僕は三個目のおにぎりを後輩に渡すと、大きく息を吐いて腕を組み、少しばかり俯いた。

 地面は鼠色のタイルでそこかしこが欠けていた。隙間から名前も知らない草が顔を覗かせており、小さな白い花も咲いている。

「先輩、変なこと質問しちゃってすみません」

「本当に、変なことを質問してきたなぁと思っているよ。でも、考えるに値する内容だとも思う」

 後輩がおにぎりを食べる音が横から聞こえてくる。

「別れた妻なんですけど、おにぎりを握るのが凄く下手だったんですよ。ちょっと思い出して、しんみりしちゃいますね」

 では、何故もらってきたというのか。

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