第三節 「『無名だから』とか関係ない」
午後七時を過ぎた頃、陽太は自宅へ着いた。寝室へバッグを置き、ダイニングテーブルの椅子へ腰掛けた。
「ふぅ…」と陽太が息をつくと、陽太の隣で小学校三年生になる妹の
「お兄ちゃん、どうして強いチームに行かなかったの?」
純粋な妹の眼差しが兄を見つめる。
「ねえ、どうして?」
陽菜の問いに陽太は少し間を置き、こう答えた。
「上を目指すためだよ」
陽菜は変わらず無言で陽太を見つめる。すると、サラダが盛られた皿をテーブルへ置いた希が陽菜にこう言葉を掛ける。
「お兄ちゃんはね、強いチームを倒したいの」
陽菜の視線は一瞬だけ希へ。
「強いチームを?どうして?」
陽太へ視線を戻し、尋ねる陽菜。
「ねえ、お兄ちゃん」
陽菜の問いに、陽太は。
「強いチームに勝ったことがないから。まあ、俺は試合にはほとんど出られなかったけど…。でも大丈夫。レギュラーになって絶対勝ってみせる!」
そう答えると、無意識に立ち上がった。
陽菜はまるで「倒せるの?」と言うかのように陽太をじっと見つめる。
すると、朝刊を読んでいた健司が陽菜の様子を見て、彼女にやさしくこう言葉を掛ける。
「陽菜、お兄ちゃんを信じろ。絶対勝つ」
この言葉で陽菜は健司を見つめる。健司の言葉に説得力があったのか、陽菜は「うん」と応える。そして箸を持ち、サラダを食べ始めた。
希は夕食をテーブルへ並べ終えると腰掛け、健司の耳元でこう尋ねた。
「いいの…?陽太、プレッシャー感じたんじゃない…?」
すると健司はやさしい表情を浮かべ、囁くようにこう話す。
「大丈夫。やってくれるさ。まあ、すぐにとはいかない。吉体大附属は最強の学校だ。そう簡単に勝たせてくれるわけない。そんなこと本人が一番分かってるだろう。だがな、あの声と表情から何かが伝わってきた。きっと陽太がチームの中心になる。そして、勝利をもたらしてくれる。俺はそう信じている」
「陽太がチームの中心に?」
「小学校、中学校時代は全国とは無縁だったが、キャプテンとして全国で活躍した子やプロの特別指定選手に認定され、大活躍してプロで名を轟かせた子を俺は数多く見てきた。皆、良いものを持っている。大事なことはそれをどうやって皆に気付かせるかだ。『無名だから』とか関係ない。皆、その子の能力に気付いていないだけだ」
希が陽太へ視線を向けると、美味しそうに牛丼を頬張っている姿が目に映った。陽太にはどのような能力があるのか。希は自身へ問うた。
希の様子を見た健司は続けた。
「まあ、お前はまだ気付いていないだろうな。いずれ気付くさ。陽太の能力に」
味噌汁の器を持った健司。
「陽太の能力…。か…」
健司の言葉に説得力を感じたように小さく頷く希。
健司は小学校一年生から中学校三年生までを対象としたサッカースクールのコーチを務めている。だからこそ出た言葉だった。
陽菜と希が健司の言葉に説得力のようなものを感じたのはそのためだ。
希は頬杖をつき、やさしい表情を浮かべ、小さく頷いた。
翌日。陽太が帰宅すると、希がスポーツ雑誌を読んでいる姿が目に飛び込んだ。
「珍しいね。お母さんがスポーツ雑誌を読むなんて」
陽太が言葉を掛けると、希が尋ねる。
「ねえ、どういう場合がオフサイドになるの?」
希はサッカーのルールを何となくしか知らない。これまで、詳しく知ろうともしなかった。その希がルールを詳しく知ろうとしている。
「オフサイドは…」
希は真剣に陽太の説明に耳を傾ける。
説明を終えた陽太は希に尋ねる。
「どうしたの?急にルールを勉強したがるなんて」
すると、希は微笑みを見せるだけで何も言わず、そのままキッチンへ立った。それと同時に、健司が帰宅した。
「おかえりなさい」
希の言葉に健司は「おう」と応え、夕食の準備をしている彼女の後姿を見つめる。その時、健司はいつもと違う希の様子に気付いた。
「楽しそうだな」
健司は希に尋ねた。
「そう?ふふふ」
希はそう答えると、焼けた餃子を皿へ盛った。健司は希の後姿をしばらく見つめ、椅子へ腰掛けた。
すると、テーブルへ置かれたスポーツ雑誌の表紙が健司の目に映る。健司はスポーツ雑誌を手に取ると、再び希の後姿を見つめた。
「なるほどな…」
健司はそう言葉を漏らすと、口元を緩める。その姿を見て、陽太が尋ねる。
「とうしたの?お父さん」
健司は視線を陽太へ。
「陽太、お前は良いものを持っている。俺には分かる。絶対活躍出来る。大丈夫だ」
健司が答えると、陽太は静かに頷いた。
翌朝。陽太がダイニングのドアを開けると、希がハミングをしながら朝食を作る姿が目に映る。
すると。
「お父さん。体作りにはどんなメニューがいいのかな」
朝刊を読む健司へ尋ねる希。
「張り切ってるな」
「うふふ」
希は笑みを浮かべる。
希の表情が示す意味。
それは。
陽太のサポート。
陽太が椅子へ腰掛けると、健司は朝刊を読みながらこう呟く。
「絶対活躍出来るぞ…」
その言葉を聞き、陽太は戸惑ったように希と健司を見つめていた。
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