41話 仕事はこれから
時折、たどたどしい弾き方になりながらも、ほぼ安定して聞こえていたピアノの旋律が、歌唱のないソロ・パートに入った途端にテンポが乱れた。
柊牙は静観していたが、弾いている本人──真波の妹・
「歌詞がついてない所だと、リズムも取りづらいよな」柊牙は手を伸ばして楽譜をめくり、最初のページを開いた。「メトロノームは使ってるか?」
冬也は首を振った。小柄で、大人しそうな雰囲気の少年で、丸眼鏡という特徴が共通している為か、どちらかと言うと実母の理津子よりも真波に似ている印象が強い。
ひと回り近く年の離れた小学生が相手である事を意識しながら、柊牙は「そっか」と言葉を次いだ。
「俺もたまに、失敗するんだけどな。普段は『大体このぐらいかな』って感覚で合わせられても、演奏するシチュエーションが変わったり、見ている人間の数が増えたり、あとは、自分の体調が良くなかったりすると、簡単にリズムの捉え方がわからなくなっちまう。
機械で測った正確なリズムを頭と体に覚え込ませておくと、ソロ・パート以外の伴奏も安定するだろうし、学校が始まったら、音楽の先生に頼んで貸してもらいな」
冬也は、こくん、と頷くと、鉛筆を握り、柊牙に言われた事を楽譜の余白に書き込んでいった。
ハリルロウとつごもりさんへの対処を終え、全員が疲労困憊で迎えた元旦の朝、事情を知らずに息子を連れて佐倉川邸を訪れた真波の妹・
しばらくすると、彼女は真波を連れて応接間に入っていった。真波の気持ちが少しでも落ち着くように茶でも飲みながら、姉妹でゆっくりと語り合っているのだろう。
理津子の息子・冬也は、二か月後に行われる小学校の卒業式でピアノの伴奏を務める事になっており、佐倉川邸にも楽譜を持参していた。それに気づいた真波が、理津子とともに応接間に移る時、洋間にピアノが置かれているから練習に使ってくれて構わない、と伝えたので、彼は楽譜を持って洋間に移動した。
大晦日から佐倉川邸に滞在していた人間は、皆、ほとんど徹夜をしたようなものなので、真波以外はまだ居間に姿を見せていない。明け方前に客間へ戻った時には史岐が一緒だったが、朝になって柊牙が起きた時にはもうどこかへ出かけた後だった。佐倉川利玖と二人で行動している可能性がざっと見積もって七十パーセントほどある、と思ったので、現在地を尋ねる連絡は控えている。
何をすべきか、考えあぐねてぶらぶらとしていると、廊下で理津子とかち合って呼び止められた。
「冨田君、大学でバンドやってるんだって?」
セミロングの茶髪をさっぱりとしたポニーテールにしている理津子は、垢抜けた服装で、栗色がかった大きな瞳が印象的だった。
「もし良かったら、冬也のピアノも見てもらえないかな。わたしは習った事がないから、さっぱりわからなくて」
柊牙は、自分のスマートフォンにインストールされているメトロノームのアプリを起動させると、テンポの設定を課題曲に合わせてからピアノの脇に置いた。
本体のスイッチで少し音量を上げてから、画面に表示されているボタンに触れる。カッチ、カッチ、と規則正しい電子音が流れ出した。
「音、邪魔にならない?」
冬也が頷くと、柊牙は微笑んで椅子の背もたれに体を預けた。
「じゃあ、これに合わせてもう一度弾いてみよっか。俺も後ろで見てるから」
冬也が前のめりになって楽譜に顔を近づけ、メトロノームの音に合わせて課題曲を弾き始めるのを確かめると、柊牙は、そっとシャツの襟の中に指を潜り込ませた。
軽く引っぱるだけで外れるように、脆い糸で襟の内側に縫い付けてあったテープ状の布が手の中に滑り出てくる。
佐倉川邸を訪れる事が決まった時に槻本美蕗から渡された、この布は、史岐にも存在を伏せていた『霊視封じを無効化する』為の道具だった。
(課題曲の長さから考えて、四分くらいなら自由になるか……)
ハリルロウの鎮魂が終わった後、再び匠に着けさせられた霊視封じの革紐をぴったりと包み込むように、柊牙は慎重に手首に布を巻きつけていった。
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