6話 命を養う果実
いきなり身軽になって、どことなく浮き足立った気持ちを抱えたまま、三人はロビーの隅にある休憩スペースへ移動した。
喫茶店は別にあるので、ソファと机が置かれているだけの簡素なものだったが、手入れの行き届いた美しいソファは
早船鶴真が手ずからメニューを持ってきて、温泉同好会の面々にウェルカム・ドリンクの説明をする。コーヒー、日本茶、冷えた果汁など、多彩なラインナップの中でも特に三人を惹き付けたのは
駅からここまではバンで運んでもらって楽をする事が出来たが、旧設備のローカル線で長時間揺すられてすり減った体力はまだ回復していない。三人とも、ホットの柚子茶を頼んだ。
注文を聞き届けると、鶴真は「では、私は車を戻してきます」と一礼してロビーを離れた。
途中、フロントに立ち寄って、受付の従業員にいくつか指示を出してから外へ出て行く。その後ろ姿を見ていて、利玖はふと、鶴真も何か武道を
剣道の有段者である兄・佐倉川
数分後には、白い調理服と和帽子を身につけた初老の男が、梓葉の分も含めて四人分の柚子茶を運んで来た。
「いやあ、〈湯元もちづき〉にいらして柚子茶を所望されるとは、さすが梓葉お嬢さんのご友人はお目が高い」
そう話しながら、机に湯呑みを並べ終えると、男は片膝立ちの姿勢のまま
「料理長の
顔を上げた能見は、さっと、並べた湯呑みを手で示した。
「まずは是非、そちらを召し上がってください。はるばる潟杜からこんな山奥まで来ていただいて、さぞかし体もお冷えでしょう」
言われたとおりに、息を吹きかけて冷ましてからひと口すすってみて、利玖は驚いた。
柚子の皮だけではなく、甘みそのものに深いこくがある。蜂蜜のような上等の蜜を使って作られているのだろうか。こっくりとしたその甘みが、はじけるように爽やかな柚子の香りと調和して、飲むほどに頭が冴えていくような心地がする。
「これは、美味しいですね……」
利玖が呟くと、能見は目尻に皺を寄せて笑った。
「〈湯元もちづき〉の柚子はね、特別な物なんですよ。神様が年に一度だけ分け与えてくださる、命を養う果実だと考えられているんです」
神様、と聞いて、利玖の横にいた廣岡充がわずかに顔を上げた。しかし能見はそれに気づかず、「ま、その辺りは明日、ゆっくりとお話しさせていただくとして……」と言って、フロントに向かって合図を送るように手を振った。
それを見た女性従業員が、革張りのメニュー・ブックを能見の元に持ってくる。能見はにやっと笑って、それを三人の前に開いて見せた。
「うちの旅館で美味いのは、柚子だけじゃ御座いません」
能見は料理の写真を一つずつ示しながら、今夜の食卓に並ぶ予定の品々について説明を始めた。
山椒を使ったタレを塗ってこんがりと焼いた鶏肉や、辛味のある青菜と牛肉を一緒に煮込んだ味噌鍋など、想像しただけでぐうっと腹が鳴りそうな料理の説明を聞くうちに、利玖達はいつの間にか湯呑みを握りしめたまま前のめりになって、能見の持つメニュー・ブックに釘付けになっていた。
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