21話 罠を仕掛ける

『片付けるからちょっと待っててね』

と、研究室を見学に来た学生でも出迎えるような口調で言うと、匠は柑乃かのを連れて研究室に引っ込み、そのまま半時間ほど出てこなかった。

 せめて立って待っていようと思ったが、どこからも物音がしなくなって、自然な静けさが訪れ、

(どうにか、助かったのだ)

と思った途端、気が抜けて史岐はずるずると壁際に座り込んでしまった。

 誰も廊下を通りがからない。

 頭上の蛍光灯は、もうずいぶん長いこと使われているのだろう、ジー……、と耳障りな音を立てていて、時折ぷつっと光が消える。

 頭が異様に重かった。

 血が下がっている気がする。

 後ろ向きに壁に頭を預けているといくらか楽だったので、史岐は、途中で一度スマートフォンを取り出した時以外、ずっとその点滅を眺めていた。

 やがて、研究室からは、匠が一人で出てきた。

「お待たせ」

 彼は片手を差し出して、史岐が立ち上がるのを助けた。

「歩ける?」

「ええ、何とか……」

 匠は「よし」と言って頷いた。

「じゃあ、外で何か食べながら話そうか。昼から研究室に籠もりきりでね。もう、空腹で倒れそうだよ」



 外に出ると、匠は煙草に火を点けた。

 最初の一口を深々と吸い込み、それから煙とともに、

「別海先生から連絡があってね」

と言った。

潮蕊うしべ大社で利玖が良くないものに目をつけられたかもしれないから、しばらく用心していてほしい、と……。祭りの夜なんて、妖が潜り込むにはうってつけだからね」

「それで、柑乃さんに見回りをさせていたんですか?」

「うん。だって、僕が始終物陰から様子を窺っている訳にもいかないだろう?」

 必要に駆られたらやるだろうな、と思ったが、それを口にする無謀さは持ち合わせていない。史岐は素直に頷いた。

 風が心地よく冷えていた。

 理学部棟の中にいる間は、服に染みついたなまぐささがしつこく臭って、息をするのもままならなかったが、外に出るとようやく人心地つく事が出来た。

「あの妖、研究室の中にご馳走があるような口ぶりでしたけど、餌でも用意しておびき寄せたんですか?」

 匠は勢いよく煙を吹き出して笑った。

「利玖の親友を餌呼ばわりとは、君も大概振り切れているね」

「え?」史岐はぎょっとして立ち止まる。「親友って、まさか……、阿智茉莉花さん?」

「誤解しないように」

 匠は、煙草を持ったままホールドアップの姿勢。たなびく煙の向きが変わる。

「阿智さんだけどね。夜になって、あの妖が意思を伝える媒体にした酒の影響が強く出始めていて、一人で西門の辺りをふらふらしていたのを、柑乃が見つけて連れて来たんだ。今は解毒の薬が効いてよく眠っている。あと一時間もすれば、起き上がれるようになるんじゃないかな」

「あの騒ぎで、よく目を覚ましませんでしたね」

「研究室の奥に仮眠スペースがあるんだけど、狭い分、遮音性能を高めてあるんだ。まあ、僕が自分で使う為に、こつこつ手を掛けたんだけど……」

「一人にして大丈夫でしょうか?」

「柑乃を残してきてあるよ。入り口の魔除けもそのままにしてきてある。心配はないだろう」



 図書館を通り過ぎた所で左に曲がった。広場を右手に見ながら、昼間は利玖と二人で下った道を、今度は逆方向に匠と上った。

 食堂の中は真っ暗で、入り口には営業時間外である事を示す札が立っていた。匠は、ちょっとの間それを見てから、階段を引き返して、下で待っている史岐の元に戻ってきた。

「当てが外れた」

「この時間じゃいつも閉まってますよ」

「うーん、そうか……、それにしても、屋台まで全滅とは……」

 来る途中に見かけた屋台は、どれも店仕舞いをして空っぽになっているか、赤ら顔の学生が開店休業状態のまま酒盛りを始めているかのどちらかで、まともに食べ物を売っている所には巡り会えなかった。

 階段の傍らにある自動販売機で、匠は野ざらしの灰皿に煙草を捨てた。

「そういえば、君はどこで酒を飲まされたの?」

「屋台です。元々籍を置いていた誰かに成りすましたのかな……、学生に化けて、他の部員と一緒に酒を売っていましたよ」

 史岐は、その屋台があった位置を探そうとしたが、昼と夜でずいぶん構内は様変わりしているし、怒髪天をく状態で離れたのであまり記憶が定かではなかった。

「初めは、利玖さんに飲ませようとして、断りづらいように大人数で煽ったりするから、つい腹が立って……」

「君が飲んだ?」匠が面白そうに訊く。

 史岐は顔をしかめて、頷いた。

「軽率な行いだったとは、思います。だけど、先に理学部棟の近くで柑乃さんを見かけていて、ああ妖が紛れ込んでいるな、と思ったから……、その、部分的にフィルタをかけた、というのかな。とにかく、妖の気配を拾いづらい状態だったんです」

「ああ、なるほど。君はそれが出来るのか」

 匠は、指の関節で眼鏡を押し上げた。

「いいね、器用で……。僕は、この眼鏡がないと駄目なんだ」



 食堂裏の小道に入って、少し進んだ所で史岐は立ち止まった。

 右手には、立方体の食堂の建物がそびえ、わずかに残った構内の明かりを遮っている。反対側には柵を挟んで、車道に並走した歩道があったが、人影は見当たらなかった。街路灯が近くに立っているが、歩道を照らす為に付いている物なので、明かりはここまで届いて来ない。

 物体の輪郭が崩れ、溶け落ちていくような暗闇に、白くて長い、のっぺりとした形が浮かび上がっていた。小道の奥に作られた駐輪スペースの屋根だ。二ブロックしかない空間に、原付が一台、自転車が二台停まっている。

「どうしたの?」

 声をかけられたので、史岐は原付から目を離して匠を見た。

「このまま行くと北門だな、と思って」

「ああ……」匠は一瞬、前方を見る。しかし、すぐに史岐に目を戻した。

「それがどうかした?」

「出て、少し歩いたら市営のコインパーキングがある。匠さんの車も、そこに停めてあるんですか?」

「…………」

「記憶処理を出来る医者が、あなたの御実家にもいるはずだ」

 匠からの返答はなかった。

 代わりに、彼は空を仰いでため息をつく。


 煙草を捨てるのが早過ぎた、と書いてあるような横顔。

 その心情は、史岐にも理解出来る。


 やがて、匠はゆっくりと首を振って話し始めた。

「僕だって、こんな事態は想定していなかったんだよ。魔除けをかいくぐる為に連れて来られた人間が、よりにもよって、僕とも利玖とも面識があって、しかも熊野の跡取りである君だなんて」

「驚いたな。本当に実行するつもりだったんですか?」史岐は口元を斜めにした。強がっている、という自覚はある。「そこまでする必要がありますか? 殺しといえば殺しだけど、どのみち、法では裁けない事です。そもそも、最初に手を出してきたのはあっちの方で──」

 匠が一歩詰め寄った。

 史岐は息をのみ、後ずさる。

 もっと距離を取った方がいい、と体が叫んでいた。

 体格も、腕の長さも、幾分匠の方にリーチがある。それに、剣道の有段者である匠と違って、史岐にはろくに体術の心得がない。

 しかし、極度の緊張が作り出した不可視の糸に全身を雁字搦めにされたように、体の自由が利かず、ほんのわずかに靴底を後ろにずらすのがやっとだった。


 匠の片手が伸びる。

 その瞬間、匠の背後で、原付の影に身を潜めていた人物が砂利を跳ね上げて飛び出した。


 史岐の前に飛び込んで、庇うように両腕を広げると、利玖は空をふり仰いで叫んだ。

「出てきてください!」

 聞いた事もないような必死の声だった。

 誰かを探している……、柑乃だ、とすぐに気づいた。

 匠は、驚きに目を見開いたまま立ち尽くしていたが、利玖が手にしているスマートフォンの液晶のバック・ライトがついている事に気づくと、舌打ちして史岐を見た。

「どうりで、素直について来ると……」

「もう一人の方はどこですか?」

 利玖が訊く。

 彼女の目は、まだ匠を捉えていない。

 自分は襲われる心配がないと油断しているようにも、彼に注意を向けるよりももっと他にすべき事がある、と暗に主張しているようにも見える。

「聞いていたのならわかるだろう? 神保研究室だよ」

「いいえ。食べ物を探すという名目で、怪しまれずに連れて来るのなら、この辺りが限界です。だけど、北門とコインパーキングの間は、百五十メートルほど離れています。いくら兄さんでも、意識のない史岐さんを一人で運ぶのは困難です。その点、もう一人、誰か別の人と……、たとえば、年恰好の似た若い女性と一緒なら、楽に事を進められますし、はたから見ても、酔い潰れた学生を友人達が介抱しているようにしか見えないでしょう」

 利玖はそこで言葉を切った。

 息を吸い、それに、と言って匠を睨む。

「一対一だと思わせておいて、後ろから誰かに不意打ちさせた方が、抵抗も最小限で済みます」

 兄妹は、無言で睨み合った。

 その間、利玖は一度、後ろに下がろうとするような動きを見せたが、途中でそれをやめ、片手で史岐の体を探って引き寄せた。他でもない自分の言った事だから、史岐が背後から急襲される可能性が低くない事に気づいたが、それを防ごうとすると、今度は兄から守れなくなってしまうと思ったのだろう。

「……わかったよ」

 そう呟いて先に目を逸らしたのは、匠だった。彼が片手を掲げ、指先を回すような仕草をすると、それほど離れていない上空で風を切る音がした。

 見上げた月明かりの中を、軽やかに銀髪の少女が舞い降りて来る。

 着地の時、全く音がしなかった。

 まるで、精緻なホログラムを見ているような錯覚。

 史岐は思わず、柑乃の足元に目をやって、影が落ちている事を確かめた。

「貴女が柑乃さん?」

 表情を変えずに匠の傍らに寄り添った柑乃に、利玖が訊ねた。柑乃は、黙って頷いた。

 その時、体に触れている指先に、一瞬だったが、ぎゅっときつく力が籠もるのを史岐は感じた。

「すぐに神保研究室に戻って、茉莉花を守ってください。少なくとも、彼女が無事に自分の家に帰り着くまでは、気づかれないように……、いえ、気づかれても良い。とにかく、彼女の身に危険が及ぶ可能性がなくなったとわかるまで、そばを離れないでください。自分だけでは対処出来ないと思ったら、すぐに誰かに知らせて、助力を仰いでください」

 柑乃は何も答えない。

 わずかに頭を下げただけで、横目で匠を窺っている。

「行ってくれ」

 匠が命じると、柑乃はひとつ頷いて、史岐達の方を見もせずにその横を駆け抜けていった。

「あの頼み方だと、柑乃にはちょっと荷が重いんじゃないかな」

「説明をしてくれますね?」

 匠の言葉を無視して、利玖がたたみかける。

「説明も何も」匠は肩をすくめた。「おまえが聞いていた通りだよ。檸篠ねじのでちょっかいをかけてきた奴が、ここまで追いかけてきた。……ああ、これは利玖には言わないでくれって頼まれていたんだっけ……、まあ、いいか……。史岐君は関係ないよ。たまたま、運悪く巻き込まれただけ。立場的には阿智さんと変わらないね。彼女にしても、適切な処置をしたし、もう元凶はたおしたから、この後さらに何かが起こるという可能性は限りなく低いと思うよ」

「よく、わかりました」

 利玖は、片手を上げて匠を遮ると、うつむいて息を整えた。

 パーカーのフードから覗くうなじに、月光と街路灯が混濁した青白い光の粒が落ちて、いつもよりも一層あえかに見せている。今にも高い音を立てて砕けてしまいそうな緊張と恐怖が、その内側にある事が伝わってきた。

 どんな思いで、物陰に身を潜めていたのだろう。それを思うと、他に方法が思いつかなかったとはいえ、これほどの恐怖を与える形で、自分達の間で繰り広げられたなまぐさいやり取りに彼女を巻き込んだ事を、今更ながらに史岐は激しく悔いた。

 やがて、利玖は顔を上げ、きっぱりと言った。

「兄さんは勘違いをしています。……わたしが潮蕊大社で見たのは、柑乃さんです」

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