20話 翡翠色の瞳の少女

 利玖が、せっかくだからと誘われて参戦したボードゲームの初戦を順調に勝ち進み、残りの面々が下位争いをしているのをゆったりと紅茶を飲みながら眺めていた、その頃。

 史岐は、この上なく嫌々やらされている、という表情で理学部棟の廊下を歩いていた。


 事の始まりは、十分ほど前にさかのぼる。

 西門前の停留所から、路線バスに乗って駅前に向かうサークルのメンバを見送った史岐は、早足で来た道を戻っていた。

 行き先は、温泉同好会の部室がある第一部室棟。目の前まで来たら連絡を入れて、今、部室で仲間達とボードゲームをしている利玖に下りて来てもらい、桑爪探しを最後まで手伝えなかった事を詫びてから、少し立ち話をして、駅前の打ち上げ会場に向かう段取りだった。

 ライブが終わった後、史岐のスマートフォンに一通のメッセージが届いていた。差出人は利玖で、本文には、今回の騒動がどう決着したかが簡素に記してあった。

 桑爪は持ち主に返す事が出来た。その際に、自分は怪我などを負っていない。要約すればそんな所だが、要約しなくても文字数はほとんど変わらない。

 要するに、こちらの心配は不要であるから、バンドサークルのメンバと心置きなく楽しんでこいと言ってくれているのだが、だからと言って無事を確かめもせずに、離れた駅前までのこのこ出て行って酒を飲む気にはなれなかった。

 最初は打ち上げ自体を欠席する気でいたのだが、終幕を飾ったバンドのボーカルが来ないとわかった時のメンバの反対は相当なもので、海の向こうから飛来した有翅類の大群もかくやといった壮絶なブーイングが巻き起こったのを、

『まあ、こいつは今ちょっと難しい局面にいるから、用が済んだらちょっと顔見せに寄ってもらうって事にしようや』

という折衷案で、何とか柊牙が収めてくれたのだった。彼の為にも、あまりここでのんびりとはしていられない。

 昼はあんなにごった返していた西門通りも、今はほとんどの屋台が店仕舞いをして、割り箸、丸められた包装紙、煙草の吸い殻、その他諸々のごみと、日々積もる落ち葉が渾然と混ざり合い、灰色の塊になって隅に吹き溜まっている。

 その真ん中に、ぽつんと小柄な影がひとつ立っていた。

「よお」

 声を聞いて、史岐はぎゅっと眉を寄せた。

 行く手に立っているのは、利玖に飲酒を無理強いしようとした、あの癖毛の学生だった。

「神保研究室、ってとこに行きたくてさあ」

 小刻みに首の角度を変えながら癖毛の学生は話す。

 それは、どこか、獲物の気配を探る肉食の動物を連想させる動きだった。

「行き方知ってたら、教えてくれない?」

「知らない」

 史岐は素っ気なく答えて脇を通り抜けようとしたが、癖毛の学生は「おっと」と腕を広げて立ちはだかった。

「そう言わずにさあ、昼間の件は悪かったって。俺だって反省してるから、あのちっちゃい子じゃなくてお前の方に頼みに来たんじゃん」

 史岐は足を止めると、激しい嫌悪を込めて彼を睨みつけた。

「脅しのつもりか?」

「え、何が?」

 しばらく無言の睨み合いが続いた。

 利玖がまだ温泉同好会の部室に残っている事を、この学生が知っているはずがない。自分を揺さぶる材料として適当な事を言っているだけだろう。

 しかし、こんな時間に神保研究室を訪ねる用があるという事は、普段からそれなりの頻度で理学部棟に出入りしているのだろうし、そうなると、ここで自分が下手に彼の恨みを買ったら、いつかそれが、利玖の身に理不尽な報復として降りかかるかもしれない。

 華奢な史岐でも軽々と肩車が出来てしまうくらい、利玖は体が小さい。学内での目立ちやすさから言っても、取っ組み合いになった時の勝率の目算から言っても格好の的である。

 実際には、利玖は攻防どちらに回っても、相手の意識の隙を突いて上手く自分の身を守る術を知っていたし、何より理学部棟にはもう一人、佐倉川匠という、冬のねぐらから出てきたヒグマよりも恐ろしい男がうろついているので、最終的にどちらが痛手を負う事になるかは明白であるが……。

 それでも、少しでも利玖に危害が及ぶ可能性があるのなら、史岐はそれを無視出来なかった。

「……しょうがないな」

 史岐は舌打ちをして、渋々頷いた。



 癖毛の学生はへらへらと史岐の後をついてきた。

 なにやら上機嫌の様子だが、聞くに堪えない低俗な事ばかり話しているので生返事を続けていたが、神保研究室の前まで来た時、耐えかねて史岐は「あのさ」と言った。

「よく知りもしない奴からこんな事を言われたくないだろうけど、女の子に無理やり酒を飲ませるなんて事、しない方がいいよ」

「なんだあ、あのちっちゃい子にちょっかい出されて鶏冠とさかに来たのか?」


 癖毛の学生は喉の前で手もみをしている。

 だらしなく開いた口から、針のように尖った歯が見えた。

──あんな八重歯、昼間見た時には、なかったような。


「あの子もぷりぷりしててきが良さそうだったなあ。ああ、喰いたかったなあ。けどよう、わがままは言わねえよ。もう一人の方だって酒の肴にはぴったりだ。しゃぶればしゃぶるほど骨から味が出る」


 ノックをしようと持ち上げた手が、その位置で止まった。

 理学部棟の通路に沿って体の両側に広がっていた、世界として認識できるごく狭い空間が、端の方から飴細工のように急激にねじれ、すぼみ、あっという間に意識の外に追いやられて、自分では捉える事が出来なくなる。

 握りしめた拳の内側に汗が浮き上がった。

 勢いよく吐き出された、なま温かい呼気が首の後ろにかかる。

 木製のプレートが一枚、ドアに掛けられているのを、史岐は間近で見た。接着剤を使って小枝を文字の形に仕立ててある。日本語で、何か書いてある事はわかるのに、それを読む事が出来なかった。

 金鐘を弾いたような高い耳鳴りがずっと響いていた。

 息が震えるのを押し殺しながら、史岐は、ゆっくりと振り向いた。

「お前……、何だ?」

「早く開けてくれよう。ああ、この匂い、たまんねえ」

 そう話す学生の肌から徐々に血色が消え、水棲の爬虫類のような鱗が生えた表皮に変わる。

「何でだか、俺じゃ触れねえんだ、それ。お前がぷらぷらしてて助かったよ」

「訊いた事に答えろ」

 にやにやと笑みを浮かべたまま史岐の背後に立っている妖が、手を前に出し、何かひねるような動作をした。──まずい、と思った時には、もう制御が効かなかった。

 史岐の右手は、別の生きもののようにのたうち、ドアノブを掴んで回していた。

 とっさに、史岐が開いたドアの隙間に体をねじ込ませると、妖は巨大な水掻きのついた手で史岐の頭を押さえ、逃げられないようにしてから折り曲げた膝を腹にぶち当てた。

「がっ……」

「大人しくしてろよう。お前みたいに肉が硬そうな奴でも、好んで喰う奴が──」

 倒れた史岐の体を悠々と跨いで研究室に入って行こうとした妖は、突然「ごぶ」と変な声を出して動かなくなった。

 ねばついた液体がぼとぼとと落ちてきた。

 むくろの流れ着いた水辺のような、異様ななまぐささが鼻をつく。

 蹴りを受けた胃がぐうっとねじれて、中のものを吐き出しそうになるのを堪えながら、史岐は壁を支えにして立ち上がった。

 息を整えながら、ドアに縫い付けられている物体を見る。

 ほんの数分前までは、同じ大学に通う生徒だと信じて疑いもしなかった。

 今はもう、その在り方を正確に言い表す言葉さえ、見つけられない。

 眼球は、タイムカプセルから取り出された玩具のロボットのようにくすんだ黄色で、頭の後ろを叩いたら飛び出るのではないかと思うほど大きい。隆起のない鼻の下には平べったいくちばしがあって、顔はその分だけ横に広がっていた。

 そして、それよりも少し下。

 人間で例えるならば、喉仏にあたる部分。

 そこに、刃渡り二十センチメートルほどの短刀が刺さっていた。

(……なんだ、これ)

 妖の生き血をすすったかのように、短刀は、闇の中でも蠱惑的な輝きを放っている。

 その輝きに目を惹き付けられて、史岐は気づくのが一瞬遅れた。──つまり、これを放った何者かがいる。


 研究室の奥から、ガシャッと古紙の束が崩れるような音がした。

 次の瞬間、史岐は、猛然と飛び出してきた何者かに首を掴まれて押し倒されていた。

 したたかに後頭部を打ちつける。

 しかし、床がビニル製だったのが幸いして、衝撃の大部分は軽減された。

 不意をつかれて体勢を崩したが、のしかかっている重みはそれ程でもない。おそらく、相手は女。それも若く、筋肉もついていない。

 そう判断した史岐は、勢い任せに体を跳ね起こして反撃に出ようとしたが、顎の前に突きつけられた刀の切っ先を見て息をのんだ。

「動かないで!」

 美しい瞳が史岐をきつく睨む。吸い込まれるような、透きとおった翡翠色だった。

「あなたの、命までは取りません」

「僕は食事をしに来た訳じゃない」史岐は答えながら、痛みに呻いた。「……頼むから、どいてくれないか。さっきそこに、思いっきり膝蹴りを食らったんだ」

 少女は身じろぎせずに、かすかに眉根を寄せて史岐を見つめている。

 それを睨み返しながら、史岐は、痛みのせいで表情が歪んでいる事に感謝していた。これなら多少の動揺が顔に表れたとしても、そうやすやすとは見抜けまい。

 馬乗りになって自分を押さえつけているのは、昼間、理学部棟の前で見かけた、和装の少女の出で立ちをした妖だった。

(さて、どうする……)

 思考は存外にクリアに保たれている。

 蹴りを食らった時に軽いショックを起こして血の気が引いたのが、冷却剤代わりに機能しているのかもしれない。

 殺すつもりはない、という言葉はおそらく真実。その気があれば、邂逅した瞬間に、彼女は史岐の喉笛を掻き切る事が出来た。

 こちらは、人を喰っている妖ではなさそうだ。もしそういう類の妖であれば、程度の差はあれ、生身の人間を前にすると欲を抑えきれない。しかし、この少女から、そういったおぞましい気配はしない。──それに、この刀。

 人が鍛え、しばしば退魔の道具としても用いられる日本刀を、好んで使う妖はそう数多くない。

(……どこかに、使役主がいるな)

 史岐が、その結論にたどり着くのを待っていたかのように、研究室の中から声がした。

「放してあげなさい、柑乃かの


 静かで、冷徹な、男の声。

 史岐には聞き覚えがあった。


 室内履きのサンダルの底を引きずるような足音が近づいてくる。

 柑乃、と呼ばれた妖の少女は、まだ刀を下ろさずに史岐に向けていた。

「喉から妙な気配がします」

「知っている。脅威になるような物ではない」

いもうとのにおいも、わずかにさせていますが……」

「うん。利玖の知り合いだからね」

 ドア枠に手をつき、佐倉川匠は、柑乃に取り押さえられたまま愕然としている史岐を見下ろした。

「大変そうだね、史岐君」

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