22話 拝殿の娘達

 自分がいる世界が狭いがら玉に閉じ込められて、水の底に沈められたような感覚がした、という。

 檸篠ねじの市にある潮蕊うしべ大社の境内で経験した事を、利玖はそう語った。


「最初はただ、耳鳴りがしているのだと思いました」

 利玖は話しながら、片手を自らの耳に当てた。

「だけど、何かが違う……。体の内側で起きている異変というよりも、外から気圧のような力がかかって、鼓膜に違和感が生じているような感じがしました。ちょうど新幹線に乗っていて、トンネルに入った時のように」

 徐々にその感覚が強くなり、思わず下を向いて目をつぶった。

 そして、再び目を開けた時には、世界が一変していた。


 がらんとして風が抜けるばかりだった拝殿はいでんに、何十人もの若い女性が平伏ひれふしている。

 彼女達は皆、揃いの白装束を身につけ、額から垂らした布で顔を隠して、上座に向かってひざまずいていた。


 激しい雨が降っているらしい。

 足元の地面が、みるみる水を吸ってぬかるんでいく。

 肌にも服にも、冷たいしずくが染みとおり、一気に体が冷えた。

 拝殿の向こうに見えていたはずの境内は灰色に煙って、他の社も木立も、霞んで見えなくなっている。

 奇妙な事に、雨音は聞こえなかった。


 拝殿の娘達は誰一人として身じろぎをしなかった。

 土を焼いて作った人形に色を塗って、かつらを被せ、服を着せて並べたようだった。それくらい彼女達からは、生気や温度というものが伝わってこない。

 拝殿には屋根があったが、娘達は皆、川底から引き上げられたように、髪にも衣にも重く水を含んでいた。

『上がらないのか』

 突然、背後から声をかけられ、はっと振り向いた先に、見慣れない少年が立っていた。

 娘達とよく似た装束姿で、髪は真っ白に透き通っている。しかし、それは魚の白身のように、かすかに赤みを帯びた生々しい色合いだった。

 少年は階段を上って拝殿に入ると、おもむろに傍らを指さした。

『ここに、お前の場所が用意してある』

 利玖は首を振った。少年の指さした場所には、すでに別の娘が額衝ぬかづいていたからだ。

 そして、たぶん、自分は神社の関係者ではないから拝殿に立ち入る事は出来ないし、人違いをしているのではないか、というような事を言ったと思う。

 それを聞いた少年は、歯を剥き出して笑った。

『そうだな……、お前の為に空けておいたのに、此奴こやつが割り込んで来たのだ』

 少年の手が伸び、娘の顔を覆っている布を少しだけ持ち上げた。

 その瞬間、利玖は思わず目を背けていた。──生きている人間ではない、と思ったからだ。

 血の気のまるでない頬に、泥にまみれた髪がにかわのようにこびりついている。わずかに開いた唇からは、暗い口の中が覗いていた。

『どうした、そばで見てやらんのか。お前のよく知る娘であろう。腕につけている、この飾りも……』


 そこまで聞いた途端、匠の顔色が変わった。

 利玖も、匠の態度の変化に気づいたのだろう、わずかに先を言いよどむような素振りを見せたが、それを振り切って、まっすぐに兄の目を見た。

「青い玉を繋げて作ったブレスレットでした。一箇所だけ、他と異なる飾りが通してあって、寺社などで頒布されている腕輪念珠かと思いましたが……、あれは……」利玖は一瞬、目をつむって記憶をたどった。「たぶん、尾鰭おびれだと思います。材質まではわかりませんでしたが、白い素材で作られた、クジラの尾鰭のようなモチーフが付いていました」

 匠は、きつく口元に当てていた手をゆっくりと下ろして、訊ねた。

「別海先生からは、史岐君が名前を呼んだおかげで戻って来られた、と聞いたけど」

「……そうかもしれません。ですが、はっきりと思い出せないのです」

 利玖は左の手首をさすっていた。娘は、そちら側の腕にブレスレットを着けていたのだろう。

「ブレスレットを見た時、異様に心がざわつきました。美しさに惹かれた、というのもありますが、それ以上に……、恐ろしかった。自分が忘れている、本当は忘れてはいけない大切な何かに蓋をしている物が、少しずつずれていくような気がして……。無意識に、もっと近くで見ようとして、階段に足をかけた時、ふいに誰かに呼ばれた気がしたんです」

 その声は、夕立が迫り来る気配のように、はるか遠い所から、しかし、確かな存在感を伴って響いてきた。

 声の主を探して天を仰いだ瞬間、体を包んでいた息苦しさと、ほの暗い空気が、大きな翼で払われたように消え失せた。

 気づいた時には、利玖は、別海医師に肩を抱かれて元の陽射しの下に立っていた。

 史岐が駆けつけたのは、そのすぐ後の事だった。



 話を聞き終えた匠は、しばらく地面に目を落としていたが、やがて、つっと利玖を見据えた。

「瑠璃だったのか?」

 利玖は、首を振った。

「見えたのは、口元だけでしたから」

「そうか……」

 匠は、無造作に手で顔を拭おうとして、指先が眼鏡のフレームにぶつかると、思い出したようにそれを外した。そして、片手に眼鏡を握ったまま、夢をみているような声で語り始めた。

「毎年、海開きの日が来るのを、自分の誕生日よりも楽しみにしているようなひとだった。夏休みに入って、剣道の稽古もない日が続いた時には、わざわざ日本海の方まで潜りに行っていたから、高校の授業で簡単な木工品を作る事になった時、海の生き物をかたどった物を作ってやったら喜んでくれるだろうか、と……」

 匠の手に力がもるのが、史岐にもわかった。

「……まだ、着けてくれているんだな」

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