18話 思い出話をするような

 バッターボックスの裏に広がる、なだらかな起伏のついた芝生によじ上って、利玖は適当な所に腰を下ろした。

 空を見上げると、普段、街中で見る物よりも数段密度の高い星空が、視界いっぱいに広がった。

 揺らめくように不規則に瞬く一つ一つの光の色味の違いまで見て取れる。わずかな街明かりでつぶれてしまうような小さな星々まで姿を現しているので、よく名の知られた星座を見つけ出すのがかえって難しいほどだった。

 荘厳な銀河の一端にひたすらに向き合っていると、炉に火が入ったように、少しずつ意識に質量が戻ってきた。

 仰向けになって全身で夜空を受け止めたら、もっと気持ちが良さそうな気がしたが、借り物の服ではそんな真似も出来ず、限界まで首をめぐらして星を数えていると、後ろから足音が近づいてきた。

「熊野先輩のライブ、来なかったのね」

 ぬっと、頭上から阿智茉莉花の顔が覗き込んだ。彼女も、浴衣ではなく、濃い色のニットとジーンズに着替えている。

「よく、ここにいるのがわかりましたね……」

 利玖が呟くと、茉莉花は無言で背後を指さした。

 温泉同好会も間借りしている第一部室棟が、野球場のすぐ裏手にあった。来る時は足元ばかり見ていたから、こんなに近くまで来ていた事に気づかなかったのだろう。

 ざっと見て、七割ほどの窓に明かりが灯っている。二階にある温泉同好会の部室にも、誰かいるようだった。

「皆でボードゲームしてるの」茉莉花が話す。「大丈夫よ。あなたに会う事は言い置いてきたけど、ここにいる事は誰も知らないから」

 茉莉花は利玖の隣に腰を下ろすと、頬杖をついて視線を流した。

「聞いたわよ。知らない人から落とし物探しを頼まれて、てんてこ舞いだったんだって? ライブに間に合わなくて泣くぐらいなら、人助けなんか放って置いて見に行けばよかったのに」

「泣いていません」

「あら、本当」茉莉花は頬に手を当てて、驚いた、というジェスチャ。「後ろ姿はすっかり泣いていたけど」

「意味がわからないです……」

「まあ、まあ。そんな利玖にお土産があるから、ご覧なさい」

 茉莉花はもったいぶった手つきでスマートフォンを取り出した。

「何ですか?」

「見てのお楽しみ」茉莉花は、スマートフォンを横に傾けて画面に触れた。「えっと……、出番が最後で、三曲だから、この辺り?」

 画面をためすがめつしながら、茉莉花は慎重にシーク・バーを操作し、画面の右端近くで指を離した。


 薄暗い室内を映した動画が再生される。

 音声付きのデータらしい。ドン、ドンと腹に響くバックグラウンド・ミュージックがかすかに聞こえる。

 それほど広い場所ではなさそうだ。画質が粗く、外光が十分ではないせいか、頻繁にピントがぼやける。しかし、カメラが捉えている三、四人の学生には真っ白な強い光が当たって、そのせいでかえって目鼻立ちが判然としなかった。

 中央にいるのは、タータン・チェックのミニスカートを履いたショートヘアの女子生徒。初めのうちは元気よく飛び跳ねていたが、やがて他のメンバとタイミングを合わせて一礼すると、全員揃って画面の左手にはけていった。

 カメラは同じ場所を捉え続けている。

 そこに、見覚えのある人物が姿を現した。


「ちょ──、ちょっと待ってください!」

 思わず利玖が叫ぶと、茉莉花は「なあに?」と含みのある笑みを浮かべて映像を止めた。

「まさか、撮ったのですか?」

「ううん。わたしも熊野先輩のライブには間に合わなかったの」茉莉花は楽しげに体を揺らしている。「でも、撤収作業中の会場で、広報活動の為にライブの様子を撮影していた学生を見つけてね。後で動画配信サイトにアップロードする予定のデータを、ちょっと賄賂わいろを渡して先に流してもらったってわけ」

「賄賂……?」

「これよ」

 茉莉花は、鞄から取り出したカードの束をマジシャンのように片手で広げた。

 それは、汁粉の試作を作った日に利玖が開封を手伝ったアニメ・キャラクタのカードだった。表面に施された、芸能人のサイン風のホログラム加工が、液晶のバック・ライトを反射して輝いている。

 利玖は、途中で彼女達の顔と名前を一致させるのを諦めてしまったので、記憶に残っているのは最初に見た数人だけだったが、そのうちの一人が茉莉花の手札にはいなかった。

「赤髪の子がいないでしょう?」

 茉莉花が先回りして言う。

「ええ。確か、わたしが最初に開けた袋に入っていたはずですが……」

「それはね。撮影係の学生がこう、自分のスマートフォンで撮った映像を確認していたんだけど」茉莉花はエル字型に伸ばした両手の親指と人差し指でディスプレイのような形を作った。「何とかワンフレーズだけでも見せてもらえないもんかしら、って駄目元だめもとでそばに寄ってみたら、彼のスマートフォンのケースに赤髪の彼女が描かれてるじゃないの。──あとはもう、とんとん拍子よ」

「え……、じゃあ、あのカード一枚だけで?」

「そうよ」

「……本当ですか?」

 わらしべ長者の総集編もかくやといった都合の良い話を、利玖は、いぶかしがらずにいられなかった。

「どうせ明日か明後日には、全世界の人間が見られるようになる代物だもの。たいして問題ないんでしょ」

 茉莉花は、大事そうにカードをまとめて鞄に仕舞った。学園祭は明日もあるので、どこかで交渉を有利に運ぶ切り札として使う腹なのかもしれない。

「それにね、物の価値は、それを欲する者が決めるのよ」



 冷たさを深める星空の下、茉莉花は動画の一時停止ポーズを解除した。

「どうしよう……、どきどきしてきました」

「まあ、可愛いこと言うようになっちゃって」茉莉花は揃えた指を口に当ててにんまりとする。「安心しなさい。眩暈めまいを起こして倒れたって、わたしが匠さんの所まで背負ってったげるから」

 史岐達のバンドが披露したのは全部で三曲。いずれも、過去に国内でリリースされた音源のカヴァーだと茉莉花が説明する。

 一曲目は、利玖も街角で耳にした覚えがある数年前のヒット・ナンバだった。知名度の高さと、オリジナル音源のボーカルと史岐の声が近い事が選出理由の一つだろう。アレンジもほとんど加えられていなかった。

 二曲目は、一曲目と似た曲調だったが、利玖が初めて聞く曲だった。茉莉花によると、昨年放送されて人気を博したドラマのエンディング・テーマらしい。実家にいる時の暇潰しぐらいでしかテレビ番組を見ない利玖には縁遠い存在だった。


 二曲目の演奏が終わると、一曲目の後よりもやや長く間が取られた。

 史岐が舞台袖でペットボトルを取って、水を飲む様子が画面の隅に映っている。幅広のストラップでベースを吊っている冨田柊牙が彼に歩み寄って、何か言い交わすのも見えた。


 史岐がステージの中央に戻ってくると、ぱらぱらと手拍子が起こり、やがてそれがアンコールを乞う声と一体になって会場を揺らし始めた。


 彼らに応えるようにギターが、ぎゅーんとかき鳴らされる。

 手拍子も歓声も止み、一瞬の静寂が、がらのプレートを挟み込んだようにステージと観客席の間に降りた。


 そして、思い出話をするようなリズムでドラムが始まった。


 のびやかなメロディライン。

 歌詞は素朴な日本語で綴られている。これも、利玖は初めて耳にする曲だったが、史岐が前の二曲に比べて歯切れの良い発音で歌っているのもあって、ほとんどの歌詞を聞き取る事が出来た。

 机や教科書という単語から、おぼろげにそれが卒業を題材にした曲である事がわかる。だが、直接時節を示すような表現は用いられていない。


 打ち寄せる波のような心地良いベースラインに耳を傾けていると、時折、まぶたの裏に琥珀色の光がちらついた。

 それは、暮れなずむ空のように果てしない印象ではなかった。ブランディの満ちたグラスでひそやかに揺れる氷のような、ぬくもりを感じさせるのに、退廃的で、内に向かって閉じたような沈黙を秘めた、惹き込まれずにはいられない光だった。


 不思議だ。

 無垢とも呼べるほどに純真な思いを、飾らない言葉で伝えるこの曲が、どうして心に届いた時には、こんなに屈折をくり返して複雑な色合いをまとっているのだろう。


 もう少し状況や心情を限定して、歌詞を書いてしまったら、その日々が遠くなってしまった者の心には、単に懐かしさを想起させる以上の物にはなり得ない。

 逆に、技巧を凝らそうとして、洒落た文言の一つや二つ盛り込んでしまったら、それは映画のように『誰かが書いた物語』として再構築されて、メロディの後ろに自らの記憶を映したフィルムが回っているのを見るような狂おしい感傷をかき立てるには至らない。


 まだ、かろうじて繋がっている事を感じられる程度に年月の隔たりが浅く、そして同時に、二度とその日々は戻らない事がわかっている者にしか、この曲は作り出せない。



「……史岐さんは、好きで、歌っているのですね」

 ぽつっと芽吹いた、陽射しのように熱を持った思いを、利玖はそのまま口にした。

「当たり前じゃない」茉莉花もそうささやき、唇をほころばせる。「そうじゃなきゃ、大トリなんて任せられないわ」

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