第2話
「こんにちはぁ」
僕の前に彼女は現れて僕に話しかけて来た。僕はなんと言えばわからずあたふたしていた。こういう僕をコミュ障と言うと知ったのはすぐだった。
「今日もお疲れ様です」
常に微笑みを絶やさない彼女に僕は初めて安らぎを覚えた。勿論常にと言うのは言葉の綾だ。時には頬を膨らまして怒ったり、涙を流さないように必死に堪える姿も可愛い。正直涙目の彼女にクるものがあった。本人にその自覚はないのだろうが、妙に色っぽく煽情的で、時々嗜虐心に苛まれることもあった。もっと泣いた顔がみたい。その度に僕は邪念を振り払うように頭がもげそうな程首を横に振る。
話しを戻そう。そんな彼女は料理もうまい。先日もハンバーグが上手に出来たと嬉しそうに話していた。僕は「美味しそうだね。早く食べたいな」と返すと彼女ははにかんで「えー嬉しい」とはしゃいでいた。本当に可愛い。
そんな彼女が先日某遊園地に行きたいなと上目遣いで頼んできた。何度か行ったことがあるらしく、久しぶりに遊びたいと言うのだ。暫く忙しくて何年も通えていないのがたまりにたまってストレス寸前だと小首を傾げて言った。それはあまりにも可哀そうだと思い僕は直ぐにでも連れて行ってあげたくてバイト先に一週間程休む旨を伝えた。上司は怪訝な顔をしていたが、遊園地に彼女と行くんですと伝えると「そういう
休みの一日目と二日目を彼女に内緒で下見のために遊園地に行くことにした。一度も行ったことのない。一生縁がない場所だと思っていた。ああいう楽しいところは仲良しの親子や、気の許せる友達、いちゃつける恋人と共に行くところだ。僕にもその縁が回って来た。俄然やる気がでた。何も知らないよりちょっとでも知識がある方がいい。どうせなら現地に赴いてデートまでに確認しておいて損はないだろう。スマートにエスコートするためにも必要なことだとパークのチケットと早朝の電車のチケットを取った。
想像以上に騒々しく僕は一歩踏み入れただけで頭がくらくらとし三十分もしないうちにベンチに腰を掛けて休む。賑やかしい音楽、でかい着ぐるみ、四方八方から聞こえる騒がしい笑い声、どれもこれも大袈裟で気が狂っているのではないかと思う。
僕が此処にいるのは場違いだ。頭の奥でここはおまえのいる場所じゃないと誰かが囁く。
胃液がこみ上げてトイレでえずいた。
どうしよう。これでは彼女を楽しませられない。喜ばせたくてチケットも準備したのに。どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしようどうしようどうしようどうしよう———
空っぽのになった胃を擦りながら息を整える。頭頂部から頬に、首に、背中にと汗が流れる。Tシャツがぴたりと張り付くのが気持ち悪い。此処に居ても仕方がないので外に出る。またあの狂ったような非日常が眩しい日の光と共に僕を焼き尽くそうとした。僕はどうにか元の世界に戻ろうと、人の流れから逆らうようにかき分けて外に出る。出入り口で手に判子を押され「再入場の際はこちらを見せてくださいね」と軽やかな声と張り付いたような笑顔付きで言われた。
—――二度と来たくない。
帰りの電車で彼女になんと言えばいいか模索した。正直に一緒に行けないと言えば、楽しみにしていたのにと怒るだろうか。一緒に行きたかったと言えば彼女は良いよと言ってくれる気がする。がっかりするだろうけれど凄く優しいから僕に気を遣って許してくれるはずだ。僕は浅い呼吸を整えるために何度か深呼吸をして彼女の笑顔を思い浮かべる。早く帰って本物の彼女に会いたい。
家に帰って夜の九時、僕は彼女に正直に話した。二人分のチケットを買ったけれどどうしても肌に合わない場所だから行くのは諦めて欲しいと。彼女は笑っていた。でも硬直した笑みだった。僕は見逃さなかった。彼女は眉を顰め口端をひきつらせていた。その顔を知っている。見たことがある。そうだ、近所の大人や同級生が僕に見せる、化け物を見るような眼、近づくことを警戒し、排除しようとする。
呼吸が浅くなる。治まっていたはずの汗が再び流れ出す。彼女に拒否反応を示されたら僕は生きていけない。
僕は洗い物が溜まり、ゴミだらけのキッチンの棚から、長年使われていない鈍らになった包丁を取り出した。鞄に入れて履きつぶされた靴を履き家を飛び出す。まっすぐ、脇目もふらず彼女の家に向かう。電車に乗って五駅、駅から徒歩二十分、賃貸マンションの一階、どうせドアを開けてはくれないだろう。僕はベランダの手すりを超えて窓ガラスを包丁の柄で思いっきり叩きつける。彼女を殴りつける予行演習のようだ。昔父親が家で暴れた時に割れた窓ガラスと同じ音がする。懐かしさに笑みが零れた。
当の彼女はすっかり青ざめた顔でいる。
「え、え、どうして、嘘でしょ」
恐らくこう言いたいのだろう。すっかり怯えた彼女は声にすることもできず口をパクパクさせていた。僕が包丁の柄を握った拳を振り上げると、椅子に座っていた彼女は身体を捩って逃げ出そうとした。しかし腰が抜けてしまっているのか立つことも出来ず四つん這いで玄関の方へと逃げる。そんな速さでは無論逃げ切れるわけがない。僕は彼女の髪をひっつかみ押し倒した。彼女の喚き声や泣き声で、怒りの頂点に達していた僕の心は穏やかさを取り戻し、そして酷く高揚した。頭の中で父が母に振るっていた暴力を思い出しながら彼女に打ち付けた。
彼女が抵抗するのをやめて僕は手を止める。ひとつ大きくため息をつくと空腹を覚えた。そういえば何も食べていない。でも食べる気力も起きないほど疲れている。僕は先に寝てから考えようとベッドに寝ころんだ。
明日はどうしよう。休みが残り五日もある。
今すぐに決めなくても良いか。起きてからゆっくり考えよう。
重くなった瞼を閉じた。ベッドの中で溶けるように寝入った。
遠くでサイレンの音がする。まだ寝足りないよ。
僕の彼女が死んだ 桝克人 @katsuto_masu
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