第2話

「だってね、黄檗おうばく先生って、左手がないじゃない」

「うん」

 背中をとんとんしてくれるみつくん。なんてやさしい子かしらん。涙が止まらなくなるじゃない。

「そうするとね、奥さんがいるかどうか解らないのよ。あ、えっと、蜜くんのお父さんも、左手に指輪してるんじゃない?」

「うん、うーん?」

 よく覚えてないらしい。

「今度見てみるといいよ。だからね、私、病院の中村なかむら先生に相談したのよ」

 中村先生は、黄檗先生の友人である。小児科医だが、私のカウンセリングも担当してくれている。なりふりは構っていられなかった。

 黄檗櫻哉おうばくおうやを落とすためには、どうしたら良いのか。

 中村先生曰く、あいつの家はいろいろあるから、交際の申し込みなどしたら怒りかねない。本気なら、結婚の申し込みをしろとアドバイスされたのだ。

「私、言うとおりにしたのに…」額に手を置いたまま、天を仰ぐ。

「中村先生のバカー!」

「あいつは悪くないよ」

 ご本人登場である。何かの映画かと錯覚せんばかり。

「袴、かっこいい…」

「かっこいいよね!」

 本人としては、片腕でも着やすいので和服なだけらしい。別に、日本の伝統うんぬんでは決してないとのこと。

 目の前まで来る。私の手を取り、立たせる。

深町小町ふかまちこまちさん」よく通る声である。何故なら、武人だから。

「ひゃい!」あっ、舌噛んだ…。「う、は、はい…」

 見上げると、珍しく口をパクパクさせている。かと思うと、抱きついてくる。

「はいー?」

「あ、あの…。私は蜜くんの父親ではないので」

「くっ…。知っています」

 歯を食いしばる。肩に手を置かれたまま、目を合わせる。

「目と腕がないし」「知っています!」食い気味に。

 それから、外まで手を引かれて。

「あのね、私と結婚するということは大変なことなんだよ」

 黄檗家の子供は、身体のどこかが欠損している。だから、まだ年若い君がどうのこうのと。私は、だんだんイライラしてきた。手の中のお茶をイッキ飲みして、ペットボトルをぶん投げてやった。

「…えっ?」

 ペットボトルと私を交互に見る。私は、舌打ちした。

「うるせえな。私が嫁に行きたいって言ってんだから、答えはイエスかノーだろうが。どっち? ほら、どっち?」

 襟を掴んで、ガクガク言わせる。……。ドン引きである。

「はい。お願いします…」そう言って、空を見上げる。場違いな笑い声。「本当だったんだ。父の言っていたこと」

 手を離すと、腹を抱えて笑い転げている。らちが明かないので、ミネラルウォーターを買ってくる。ふたを開けて、手渡す。

「ん、ありがとう。ごめんね。つい、昔話を思い出してしまって」

 それは、黄檗先生のご両親の馴れ初めだった。

 娘だった黄檗母は、展示会場で黄檗父の書を一目見て気に入った。どうやら会場に本人が居るらしい。彼は、車椅子に乗っていた。膝から下の脚が二つとも、未発達なのである。膝かけはしてあったが、事情はすぐに知れた。

 あなた、あの書をお書きになったのですって。

 ええ、まあ…。

 とても素敵です。書も、あなたも。そう言っ手を取る。

 尽きましては、あなたの妻になることをお許し下さい。

 青年の顔がさっと青くなる。来た。ついに来たのだ。この日が。

 青年もまた父から求婚の話を聞かされていたのだ。人生で最も困難な日々の始まり。手足が無いことがどうした。そんなの、我が家では当たり前だ。あるいは、いつか必ず来る女難のためにこそ、五体不満足は用意されていたのではないかと思えるほど…。

 青年は、さっと車椅子から飛び下りると、四つんばいで全力逃走したのだった。しかし、そのくらいで諦めていては、私は生まれていない。

「惚れた男の、子を生すため」母は古武術を習い始めたのだった。

「はあー、私、先生のお義母さまと意気投合できる気しかしません」

「だろうね」先生は、苦笑した。

 そして、一年後。

 どうか私をあなたの妻に。

 一年前の繰り返しになるかと思われた。ところが娘は、古武術の天才だったのだ。あっという間に、青年を捕える。そうして、ひょいと腕の中に抱え上げた。

 あら、まあ。可愛らしい赤ちゃんだこと。どうです。私なら、介護も子育ても立派に勤めてみせます。

 青年は、陥落したのだった。


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