サンシャーラ
阿部登龍
サンシャーラ
盛夏極まる白鷺の月、蒼天。
無聊げに煙管をふかす若い娘。ツチウマに荷を牽かせる逞しい男、浅黒い顔の老婆に隻腕のリュート弾き。産着を脱いだばかりらしき赤子と母。タマラの街を見晴らす緑豊かな丘を一列にのぼってゆく者たちがあった。 茹だるような炎天、そろいの黒衣は異様なれど、齢も性も、眼や肌の色もてんでばらばらなかれらに通ずるのは、身にまとった黒染めの衣だけであった。
そしてまたその一点のみが、かれら――ともすると血族にまさるほどの紐帯でむすばれた者たちを、この大陸でとくべつな地位に就かせている。黒衣の民。名をサンシャーラ。大陸じゅうの崇敬を一身に浴するかれらを、人びとはそれ以上の畏れを込めて呼ぶ。
墓守、と。
青草の丘を一群れの風が駈けくだる。サンシャーラがいっせいに空をふり仰ぐ。そこここから掲げられた白い幟が、長く、細く、翩翻とひるがえり、太陽の反射してまばゆく光った。
弔旗であった。
そうやって、私は、私の大切なひとを奪われる。
街を囲繞する石壁に立ち、ユーリはしずかな怒りとともに地平を睨んだ。
応じるように谺したのは、心の底を掻き撫でる低く重々しい響き。ユーリのまなざしの先、朝霧に掠れた地平に姿を現したのは、巨大な、灰色の墓石だった。それはのっそりと、這うような速さで、タマラの街へと向かってきていた。
サンシャーラがやってくる。
私から奪いにくる。
地のはてから射し込んできた曙光が朝靄を切り払い、墓石の東側をじりじりと這いのぼってゆく。サンシャーラ。それは行歩する墓石、爬行する福音。はじめのセダが、混沌から世界を引き上げられたときに定めし、唯一絶対の掟、その具現。
十三の月が三たび滅びるあいだ、サンシャーラは大陸を巡り、死者を連れてゆく。服も書物も玉石も、剣も絵画も裁縫道具も、価値ある物も取るに足らぬ物も、かれの遺したあらゆるものを連れてゆく。わずかな記憶さえ、やがて時が洗い去る。
それこそが、この世界にかけられた呪い。
許されるか。そんなものが許されてたまるものか!
ついに黎明の光が、墓石の全景を包んだとき、石壁の上に少女の姿はなかった。
妹の死は、両親が死んでから三度目の白鷺の月の十六だった。
サンシャーラの弔問は、白鷺の十七。それはつまり、納骨堂におさめられた妹の体をサンシャーラの石の御手が奪い去るまで、一日の猶予しかないということ。
計画が浮かんだのは、シーラが息を引き取り、親戚たちが目を交わしあったときだった。面倒なことになった。その目は云った。
元より外来者であるユーリの母も、そんな女を娶った父も、街では異端者だった。だから今またこうして、考えうるおよそ最悪の日に妹が死を迎えたときも、三年前と同じように、彼らはユーリの前でさえ嫌悪の表情を隠さなかった。
略式の葬儀が、よそよそしく執り行われた。喪主をつとめたのは見知らぬ男だ。参列者の前で男はおざなりな弔辞を述べた。彼女は式場の隅でそれを聴いたが、男が妹の名を言い淀むにいたり、踵を返した。これ以上妹を冒涜されれば、耐えられそうにない。固く握った拳の合間に血がにじんだ。
街を囲む石壁の外をユーリは知らなかったが、少なくともタマラに於いて葬儀とは婚礼や他のいかなる儀礼よりも盛大だ。
死者は三日をかけて弔われる。最初の晩、人びとは死者を前に死を悼み生を語らい、特別の料理を饗し酒を交わす。二日目の朝、彼らは連れだって街外れの納骨堂に向かう。楽団により音楽が、詩人によって弔いの詩が捧げられ、人びとは死者のため山ほどの花と悲しみを贈る。それが終われば最後の一日は家族のものだ。納骨堂の冷たい土の上に遺体を横たえ、死者にまつわる一切の品々を納め、長い夜を過ごす。
そうしてはじめて、人は二度目の死を迎える。
「けれど妹にはなにも与えられなかった。なにひとつ。詩の一篇も詠われず、大好きだった金鳳花の一輪も供えられず、この子は死ぬことさえ許されなかった」
ユーリは答えた。それでもって相手を振りほどかんとする荒々しい口調だった。しかし烈しい敵意を突きつけられた当の少年はといえば、まるで動ずるようすもなく、黒いベストのボタンをゆびさきで弄んでいる。ユーリは舌打ちし、一歩ふみだす。
「質問には答えたろ、どいてくれるか」
「きみには心底、同情するけれどね。そうゆうわけにはいかないんだ」
どこからくる余裕か、少年は彼女に向かいほほえみかける。溶けそうな笑み。やわらかな金髪、けぶる睫に縁どられた紫檀の眸。こんな時でなければ見惚れただろうか。
「ぼくにも仕事がある。いまやってる、これがそうさ」
少年は軽く手をひろげる。
サンシャーラ。いまいましき墓守ども。
「だったらなんで聞いた、逃がしてくれるつもりがないんなら」
言いながら、ユーリは隙をうかがった。少年は華奢だ。普段の彼女なら相手にもならなかったろうが、禁を破り、妹を抱えて納骨堂から這い出てきたばかりでは、常のように体力任せとはいかなさそうだ。
「いやあね、興味がわいたんだ。わかないわけがない。ぼくら墓守の目前で墓を暴こうという不埒の輩、それもそれが、こんなにかわいらしい女の子とは」
「絞め殺してやろうか」
「照れてんのかい」
からかうように言ったあと、少年の表情は変わる。
「だけど盗っ人は盗っ人だ。返してもらう。すべての死は、サンシャーラのものだ」
ユーリは少年の動きにいつでも対応できるように身構えた。
それが失敗だった。
「うん、抱き心地もいいな。山猫みたいだ」
耳元で声。認識したのは、蜘蛛脚みたいな腕がユーリの灼けた躰を捕らえたあとだ。赤子をあやすようにユーリは抱えあげられ、四肢はぐったり垂れ下がる。力は入れる端から発散し、身じろぎも満足にできはしない。
「なにしやがった!」
情けない恰好。自覚しながらも吼える。
「大人しくぼくの話をきいてくれるなら、教えてもいい」
「どのみち大人しくするしかないんだろうが」
「あはは、そうだった」
少年はぞっとするほどきれいな歯並びでわらう。
「世界にセダの掛けた千万の錠前……サンシャーラはだれしも一人ひとつ、それをひらく鍵をもらう。ぼくの鍵は抱擁――人は抱擁を拒むことができる、という鍵穴にそれは一致する。だからぼくは、どんな意志も力も無視して他者を抱擁できる」
「みみっちい。てめえのクソの穴と同じだな」
「やあ口が悪い」
唐突に、彼はユーリを地面に投げだした。咄嗟に身をひねって四肢をついた。少年は「ほんとに猫みたいだ」とわらった。ふたたび立ち上がったユーリは、それ以上の抵抗をしなかった。
「賢明だ。きみじゃぼくは仆せない」
少年はシーラを抱きあげると、満足げに言った。不遜な物言い。しかしそれは紛いなき真実であって、だからユーリは口を噤んだ。それに、と彼女は思う。タマラの青い丘、苔むした石の納骨堂を背に、金の髪の少年はシーラの繊い体を、まるで絹をあつかうように抱えあげる。それはまさに一幀の絵画だ。
シーラ。美しかった。彼の腕のなかの少女はいつにまして。タマラの日射しに洗い晒されたユーリと違い、豊満で深い漆黒の髪。いまは静かにとじられている濃緑の眸、その合間からくだる鼻梁の先で愛らしくほころぶ脣。なにより、肌。朝のシーツみたいに清潔で、骨のようになまめかしい白い肌。病熱を帯びた額を拭いながら、ユーリはいつも、父譲りの赤銅色の肌を羞じた。
けれど。いまその膚の奥には、なにもない。
不正だ。という思いがひときわに高まる。ずっとそうだった。両親を亡くしてよりこれまで、ふたりは不当に搾取され、収奪されてきた。そうしてついに、妹はその内面すらも奪われ、姉は半身ともいえる彼女のすべてを掠め取られようとしている。濡れた冷気に満ちた朝のタマラの丘の上で、みずからの拍動に合わせ、逆巻くような怒りが躰へ沁みわたっていくのをユーリは感じた。
やがて末梢にいたって、それは発火する。
「ああ。きみは、そうか――」
つぶやきが、ユーリの耳にとどく。
そのとき、少年のひとみが覯たものはこうだ。
墓土と草露に汚れたヘンリーネック、
麻のズボン、牛革のサンダル、
それらをまとった、強靱な両肩、二の腕、手指、長い頸、胸、腰、腿、くるぶし。
朝の光に、使い古された銅鍋のように輝くしなやかな躰。
それらすべてを、輪郭を、たちのぼるハロウがかたどっている――
一塊の、灼けた熱風が彼の身を打って、地に叩き伏せた。
次に彼が意識を取り戻したとき、既に少女の姿はなかった。残された跡は、青草を灼き、踏み倒し、彼の許まで達した、一筋の太い轍のみ。頬をひとなでして少年は丘を下りはじめた。
ひとけのない街路にサンダルの足音がひびく。サンシャーラの弔問日は外出が禁じられる。だからこれほどの禁を犯しても、妹を連れ出すのはたやすかった。目指すのはふたりのキャビン。死者が財を遺せぬタマラの住宅はみな共用物で、キャビンは中でも最低級にあたる住居だ。
追ってくるだろうか。
くるだろうな。
世界にセダの掛けた錠前――では、あれは。あのとき大気を奔ったのは。
私が彼に振るったのは、いかなる力、いかなる錠前をひらく鍵だった? 力はそれが發した刹那、二人を固く結び、だからユーリは少年の抱擁、その力と、自分のものが同質であることを既に理解していた。
腕のなかの妹を見る。そのゆるされたような寝顔が、ユーリの歩みを後押しする。
キャビンまではまだ距離があった。
ねむっていた蛇が身を起こした。最初はそんなふうだった。白いシーツの敷かれたベッド。その中心から光はのび上がり、キャビンの天井に達した。鋼板が熱で撓む。天井のランプがカチンと壊れた。それからはあっという間だった。四方の壁から煙の粗い粒子が渦巻いて噴出し、火焔がユーリと、シーラの体ごと、キャビンを不可逆的に圧縮していく。
みずから作り出した惨禍のなかにユーリは立ち尽くした。
妹の死装束を引き裂いた火を、彼女は覯た。縮んだ筋が骨を圧し折る音を聴いた。やわらかい脣が炭化して捲れ上がり、白い歯がかわいらしくむき出しになるのをみつめた。脂がはぜる馨しい匂いは、肋に乗ったうすっぺらな乳房からだ。この上なく鋭敏になったユーリの感覚器は、それらの官能を余すことなく受け止めた。荒れくるう火の熱は、しかし清水のように躰を撫でた。
ほどなくしてキャビンは、灰と、ぐずついた金属の塊へと変わった。ここが二人の家であったことを示すのは、もはやユーリの記憶だけだ。それらもいずれは忘却の向こうへ押しやられるだろう。黒くちぢれた構造――かつて妹の肉体を構成した粒子たちは、そのなかにまぎれてもう弁別不能になっていた。
「火葬」
「なんだそれ」
「きみのしたことだ」
「名前をつけたやつがいるのか。こんな……莫迦げたことに」
ああ、と少年は答える。キャビンの残骸を踏む音が、ユーリの前までやってくる。
「……どうして、私は死ねなかった」
黒いベストを視界のはしに捉えながらたずねる。
「この力でなけりゃ、よかったのか」
「いいや。ただ、人は二回、死ぬことはできないってだけだ」
「私が、もう死んでるとでも」
笑い飛ばすはずの声は震えた。
「そうだ。ぼくらの力は、死者にしか通じない。ぼくが抱擁できたのは、きみが死者だからだ。きみの妹はきみの両親といっしょに死んだ。だからきみが見たのはきみ自身の葬儀で、きみが燃やしたのは、ユーリ。きみ自身の躰だ」
ユーリは頸を振って、吼える。
「莫迦げてる! 死者にしか通じないなら、なんで私の力はあんたに」
「ぼくが死者だから」
サンシャーラとは、死者のことだ、ユーリ。さとすように少年は言う。
「とくべつな想いを持って――それはたいてい、強い未練や、なにより怒りだ――死んだ者は、死してから、墓守の役割をあたえられる。きみやぼくのように、その想いに応じた力を手にして」
丘をのぼる葬列
喪主の男は死者の名を言い淀む
納骨堂の冷たい床にむすめの屍体は横たえられる
白い額、身が灼けるような羞恥と嫉妬
怒り、怒り、向けるべき鉾先のなき怒り
力は想いに応じて与えられる
そして、どこまでも終わることのない虚空への滑落――
かつて五官を励起させた閃光、その記憶が雑じりあい、ユーリを震撼させた。自分の躰をかたちづくる石積みが、それらを繋留する力が、バラバラにほどけて組み替わるような。それは底しれずおそろしく、同じくらい甘美な時間だった。
「私はあの子を憎んでた……」
火。世界に、自在に火を放つ力。
それこそがユーリのなかのゆがんだ想いの証明だろう。
「憎しみも怒りも、愛の形象のひとつだよ」
「勝手なことを!」
「まあ、お好きに」
見透かしたような顔で肩をすくめる。
「露悪的になるのも結構。――でも、行かないと」
「どこに」
「決まってる」
少年が示したのは、街路の先、石壁のさらに向こう。
「すべての死はサンシャーラのものだ。だからきみだって、そうだ」
さし出された手。ユーリはためらって、強く握り返す。少年は顔をしかめる。
「私は奪ってやったけどな」
「力を手にした時から、きみもサンシャーラだよ」
「屁理屈」
夏の日射しが色濃い影を落とすタマラの街路を、二人の死者は連れだって歩いていく。
サンシャーラ 阿部登龍 @wolful
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