第2話 さよなら、また今度ね

 ぼんやりとした意識のまま、母の葬式は終わっていた。起き抜けの、まだ頭がしっかりと働かない時間のようだ。僧侶の読経を聞いているときも、焼香台で抹香をつまみ、合掌したときも、確かに意識は働き自分の意思で行っているのだと理解しているが、それでも集中力は途切れ、今日は雨だなとか、もうすぐ夏は終わるなとか、どうでもいいことが浮かび、そんなこと母の葬儀で考えるなんておかしい、とも思い、ますます意識は乱れる。

 ただ、唯一はっきりと頭も心も覚醒し、記憶に刻まれてる場面がある。

 棺に納めた母との対面だ。

 ぼんやりしていた頭が急に覚醒する。無表情な父の横顔がぬっと浮かび心臓が飛び跳ねる。無論母の葬式だ、父がずっとそばにいるのは当たり前なのに、わたしのとなりにワープしてきたようで驚いてしまった。

 真っ白な棺。女性としては大柄な母だったが、それでもすっぽり余裕で収めるであろう大きさ。ほら、母さんにさよならしな、と父の声が耳にふれ、また心臓がどくんと跳ねる。

突然重力が増したかのように体が重い。父に背を押され、泥濘を歩くかのように土踏まずに力を込め、ゆっくり歩く。

 棺の蓋に備え付けられた小さな窓。恐る恐る、わたしは覗き込む。

 不意に、タバコのにおいが鼻先をかすめた。周囲を見回し、誰もタバコなど吸っていないことを確認する。

 当たり前だ。葬儀場で紫煙をくゆらす人間などいるはずがない。

 それでも、細いタバコを加え、けだるげに換気扇の下で煙を吐く母の姿が脳裏をよぎる。

 アンタさあ。何をやらせても本当、グズだよねえ。

 心底あきれ返った母の顔。目に鈍い光をたずさえ、いつもわたしを小馬鹿にするときに見せる、眉間に皺を寄せながら小鼻を膨らます表情のまま、棺に横たわっていた。 

 すぐにそうやって被害者ヅラするけどさ、注意するこっちもめんどくさいのよ。恥ずかしいしさ。もう少し、頭使ってよ。

 淡々と、しかし流れるようにわたしを責め立てる。

 なんでこんな簡単なことわからないの。

 どうして同じ失敗ばかり繰り返すんだよ。

 なんかさ、アンタと一緒に暮らすの、ほとほと嫌になったよ。

 胸に手を置き、深呼吸を繰り返す。騒めく神経をなだめるように深く息を吸い、目を閉じてゆっくりと吐き出す。

 はたから見たら、母の亡骸を見て動揺し、涙をこらえる娘に見えるのかもしれない。突然の肉親の死に衝撃を受け、途方に暮れ、悲観しながら棺に横たわる母と対面し、打ち震えているかわいそうな娘。

 冗談じゃない。痛いほど唇を噛む。娘のわたしから見ても綺麗で、外では笑顔を振りまき数々のボランティアに参加しては称賛を浴びて来た母だが、家ではどこかのスイッチが切り替わったかのように物憂げで、わたしの顔を見てはため息をつき、重箱の隅をつつくような言葉を吐き続けた。

 わたしがAと言えばBと、Bと言えばCと、Cと言えばAと答える人だった。

 もういいだろう、と父に背を押され我に返る。振り返ると父は細い目をますます細め、徹夜明けのように背中を丸め、母の死に顔とわたしの顔を交互に見比べていた。

 確かに、もういい。わたしは、もうこの人に関わることも、捕われることもない。

 さよなら、ママ。

 祈るように頭を下げ、こっそり舌を出し、踵を返す。母が死んで嬉しいわけじゃない。当たり前だ。確かにわたしのあらゆる粗を探し、言葉でわたしとちくちくと刺さずにはいられない人だった。

 でも決して虐待じゃない。毎日炊事掃除洗濯と家事をこなし、わたしの授業参観にも来てくれたし、はじめての生理のときはナプキンの使い方を丁寧に説明してくれた。

 アンタさ、生きてて楽しい? いつも黙ったままボサっとしててさ。彼氏どころか友達もろくにいないじゃいない。

 本当に、ワタシの子なのかねえ?

 

――いったい、誰が母を殺したのだろう――


 スマホのアラームがけたたましく鳴り響き、ぶるぶると振動する。もともと目覚めはいいほうだが、母が死んでから眠りが浅くなったのか、すぐに指先でアラームを解除できるし、すぐに頭がさえてくる。

 目じりに違和感を覚え、手の甲で拭うと涙が浮かんでいた。手の甲についた涙を舐めてみた。

 しょっぱい。

 ただ、それだけ。

 ため息をつき、枕元に転がっていた小説をカバンにしまう。浦賀和宏「記憶の果て」20年以上前の小説で、父の書棚に入っていた本だ。ときおり、気が向くと父の部屋に入っては適当に本を借りていく。文庫本なら数百冊は優に入るだろう大きな書棚に詰め込まれた推理小説は父の唯一の趣味で、入りきらない本は机や床に重ねられていた。

しかし埃がたまっているということはない。定期的に鼻歌でも歌いながらふきんでぬぐい、大切に扱っているのが伝わってくる。

「父さんなあ、名探偵になるのが夢だったんだよ」

 母が何かの用事でいないとき、父はよくカレーを作ってくれた。仕事で疲れているだろうに、帰ってくるとスーツを脱いでエプロンを付け、すぐに野菜を切る包丁の音やカレーに香りが台所を包んだ。

 ビールを飲みながら、父は上機嫌で語る。

「父さんの部屋に、いっぱい本があるだろう?ほとんどが推理小説でさ。密室で人が殺されたり、怪しい奴は全員アリバイがあったり、電車や館が一晩で消滅したり、もう絶対、なんらかの超自然的な力が働いているとしか思えない事件がたくさんでてくるんだ」 

  小さな娘に密室だのアリバイだの、物騒な話題だと思う。眉をひそめるわたしに、父はビールを一息に飲み干し破顔する。

「街から離れた山荘で、右往左往する登場人物たち。次は自分が殺されるのではないかと怯え、相手を疑い、自分が疑われる。電話線を切られ外部に助けを求めることは出来ず、嵐のせいでふもと降りることも出来ない。

あいつが犯人ではと思ったら、次の章では首を斬られて殺されている――

 どうやったら助かる? 

 なぜみんな殺される?

 犯人は一体誰なんだ?

 登場人物たちの不満と恐怖が膨れ上がり、渦を巻き、今にも爆発して何もかも木っ端みじんに砕け散りそうな、その瞬間――」

 父はコップの底にたまったビールを一息に飲み干し、戸惑うわたしに向かって不器用なウインクをする。

 小さな娘に密室だのアリバイだの、物騒な話題だと思う。眉をひそめるわたしに、父はビールを一息に飲み干し破顔する。

「街から離れた山荘で、右往左往する登場人物たち。次は自分が殺されるのではないかと怯え、相手を疑い、自分が疑われる。電話線を切られ外部に助けを求めることは出来ず、嵐のせいでふもと降りることも出来ない。

あいつが犯人ではと思ったら、次の章では首を斬られて殺されている――

 どうやったら助かる? 

 なぜみんな殺される?

 犯人は一体誰なんだ?

 登場人物たちの不満と恐怖が膨れ上がり、渦を巻き、今にも爆発して何もかも木っ端みじんに砕け散りそうな、その瞬間――」

 父はコップの底にたまったビールを一息に飲み干し、戸惑うわたしに向かって不器用なウインクをする。

「さっそうと、名探偵は現れる。突然の闖入者に困惑する登場人物たち。だけど名探偵は動じることなく事件のあらましを聞き、人間関係を把握し、勝手にコーヒーを入れて煙草をふかしながら事件について推理するんだ。誰も解決してくれなんて頼んでないのに!」

 あの頃は父もよく喋った。わたしにむかって笑顔を見せ、大好きな推理小説について語った。

 多分話の半分も理解できなかったと思うけど、父の笑顔を見ているのが何より楽しくて、わたしも密室ってなに? アリバイってなに? と無邪気に声を上げていた。

その父も、母の言葉の棘がどんどん鋭くなり、わたしたちにむかって小馬鹿にするような態度をとり、どんなに言葉を尽くしても冷笑するばかりになると段々と家に帰るのが遅くなり、家族と距離を置き始め、ましてや満面の笑みを浮かべ推理小説を語ることなどなくなってしまった。

 母の死について、父はどう思っているのだろうか――

 適当に箪笥に突っ込んでおいた下着を身に着け、ジーンズとシャツに着替える。母が死んで一か月、炊事洗濯掃除もだいぶこなれてきたとは思うが、後片づけが苦手だ。何度やっても洗濯物は綺麗に畳めないし、料理して食べ終わると満足してなかなか食器を洗って片づけるのを後回しにしてしまう。

 ついでに学校に行くのもサボってしまおうか。

 秋の涼し気な風が窓から吹きこみ、頬を冷やす。絵にかいたような秋晴れで、ベランダに出るとどこから金木犀の香りがただよってくる。

 とりあえず鞄を持ってドアを開ける。対面に父の部屋があり、ノックしてみるが返事はない。

 階段を下り、リビングを覗いたが父はいない。もう仕事に出かけたのだろう。

 テーブルの上に置いてあったバナナを食べ、歯を磨き、顔を洗って外に出る。どこまでも吸い込まれていきそうな晴天に、真っ白な鳥が群れを成して飛び交う。ワン、と小さな声が届き、振り返ると老人に連れられた小さな柴犬がわたし見上げ尻尾をふっていた。

 うん、今日は学校をサボろう。どうせ、行ってもみんな遠巻きに、奇異の視線をわたしにむけるだけだ。


 記憶の果てを読みながら電車に揺られ、繁華街につく。わたしが通う学校の最寄駅についたときはそわそわしたけど、クラスメイトに会うこともなく、そのまま乗り過ごしていく。

 繁華街といっても東京のような大都会じゃない。駅前こそ大手全国チェーンのカフェやファミレス、カラオケボックス、洋服屋、携帯ショップが並び、十階を越えるデパートもあればライブハウス、社名が並んだ雑居ビルもそびえる。ただ、十分も歩けば住宅街となり、タバコの吸い殻が落ちる寂れた駐車場や、廃屋のような中華料理屋がぽつねんとたつ、うらびれた街並みが姿を現す。

 それでも、わたしが住む町よりは本も服もそろっている。というか、近所に本屋などあっただろうか? いつのまにか、本屋やレンタルビデオショップは潰れてしまった。

 思えば、母が死んでから初めてこの街へ来た。なんとなく、母を亡くしたわたしがすぐにウインドウショッピングをしたり、喫茶店に行くということははばかられた。別にわたしのことなんて誰も知らないし、どこかで遊んでいても後ろ指さされるなんてことはない。 

 母が死んだ悲しみで、遊ぶ気になんてならない、なんて気持ちは――ない。

 でも、本屋で好きな雑誌を立ち読みしてるとき、喫茶店で好きなショートケーキを食べてるとき、見知らぬ誰かが耳元で、

 母親が死んで一か月で、よくそんな平然と遊んでいられるよな。

 などと声をかけられるのではという妄想がまとわりつく。

 自分でもおかしいと思うが、悪夢めいた妄想は常に心のどこかにあって、わたしが街に出ようかと考えるとむくむくと膨れ上がり、学校が終わってもどこか寄り道する気にはならず、数少ない友人たちも放課後に遊びに誘うことはなかった。

 大丈夫、わたしを攻撃する人なんかいるはずがない。

 改札を抜け、ファストフード店やラーメン屋など飲食店が並ぶ通りをこえ、まずはぬいぐるみやキャラクターグッズが売っている雑貨屋を冷やかす。流行っているアニメのキャラをデフォルメしたキーホルダーや、わたが幼いころから変わらない、絵本に出てくるウサギをかたどったぬいぐるみを見る。平日の午前中だがちらほらと客がいて、ほとんど同世代の女子だ。

 見知った顔に出くわすとめんどくさい。ウサギのぬいぐるみにそっと手を振って、また繁華街を歩きだす。

 古本屋でマンガを立ち読みし、CDショップで試聴機に入ってる曲を聞いていく。ネットでいくらでも無料でマンガや音楽にふれることはできるけど、実際にページをめくったり、ジャケットにふれて眺めるのは全然違う。

 若者はなんでもネットで済ませる、なんてニュースサイトに載っているけど、わたしやまわりの友だちはお店に行くのが好きだ。なんでもディスプレイ越しではつまらない。

 気が付くとそろそろお昼だ。少しお腹が空いてきたが、ひとりファストフード店に行くのは気後れする。

 そうだ、せっかくこんないい天気なんだから、外で食べよう。

 いい香りが店先までただようパン屋でカレーパンとメロンパンを買い、そのまま図書館に隣接された公園まで歩く。柔らかな秋の日差しに、肌寒くも心地よい風が頬をくすぐる。

 ブランコと砂場ぐらいしかないこじんまりとした公園だが、けっこう人がいる。赤ちゃんを連れた母親と犬を連れた老人が多い。

 ちょうど時計台の下にあるベンチが空いている。そそくさと腰を下ろし、袋を開けると焼きたてのパンの芳香がただよう。

 心が弾み、ほっとひといきつく。

 いつまでも引きずっていてはダメだ。わたしの人生はこれからもずっと続く。

生前の母の振る舞い。母の死を悲しめない自分。しかし周囲は「母が死んで嘆き悲しんでいる女の子」としてわたしをあつかう。

 ずっと続いていた息苦しさを、秋の爽やかな空気とパンのおいしそうな香りが少しだけど調和してくれる。

 おなかが鳴った。われながら単純だと苦笑しながらもさっそくメロンパンを頬張る。パンの柔らかさと甘さが口いっぱいに広がり、行儀が悪いと思いつつしばらく口内で転がす――

「あんた、まおりだろ? 母親を、殺人鬼チャップマンに殺された、御子柴まおりだよな?」








 

 

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