10-2 ドアを隔てて

 タマゴサンドを食べて、牛乳を飲んで――水上むながいは帰る身支度をした。


「……これが朝帰りかぁ」


 玄関で靴を履きながら水上むながいが感慨深そうに呟く。


「言い方」

「へへ……すみません。では、帰ります」

「一応、怪我人なんだから、気を付けるんだよ」

「ありがとうございます、気を付けます――ほんと色々、ありがとうございました」

「こちらこそ、美味しいご飯を2食も」

「一宿一飯の恩義ですから」

水上むながい、その言葉好きなの? 座右の銘?」

「え……そんなに言ってました?」

「あ、いや……そんなことも〜ない、かな」


 踵をコンコンとして、シャンとして、結良ゆうらに向き直って――それからドアを開ける水上むながい


 眩しい光が雪崩込む。


結良ゆうら先輩 。これからも、宜しくお願いします! ――ねっ」


 ドアに手を掛けたまま半身に振り返って水上むながいは微笑む。

 その笑顔は朝日より眩しかった。


「――うん」

「じゃ、失礼します」


 閉まっていくドアの隙間から、覗き込むようにしながら手を振る。結良ゆうらも、それに応じた。


 バタン――ガチャ……ピー


 ドアが閉まって、オートロックでカギがかかる。部屋の中が少しだけ暗くなった。

 ドアの内側で結良ゆうらが、外側で水上むながいが――その後、数秒間、立ち尽くしていたことを、お互いに知らない。



 水上むながいは、ポーチから飛泳したりせず、階段を1つずつ降りていく。

 1フロアの半分の高さを降りると小さい踊り場がある、折り返し階段。足元を凝視して降りると案外、目が回る。


「……」


 コツコツコツコツ……ここは何階だろうか。あといくつ降りればいいのだろうか。頭がグルグルする。


「…………」


 踊り場と折り返しが無い。どうやら1階に着いたようだ。

 水上むながいはそのまま、その場に膝から崩れ落ちた。


「わ……わた、わたし、ぜぜぜぜぜ絶対なんか言ってる……! 酔った勢いで先輩に何か言ってるじゃん、確実に!」


 結良ゆうらは自然に会話をしたつもりだろう。いや、極めて自然だった。

 他の人には分からない。観察眼や洞察力のえげつない水上むながいでも、昨晩のやり取りを経ていなければ見過ごすようなレベルで自然だった。


 しかし水上むながいは、充分に結良ゆうらの癖を把握していた。把握してしまっていた。


「うわぁ……何を言ったんだろう、何を言ってしまったんだろう――先輩の反応的に、攻撃的なことを言ってなそうだから、そこは良かったけど」


 そもそも、結良ゆうらを攻撃するような感情は心のどこにも無い。


 しかし攻撃的ではないということは、逆に――


「……まさか、すす……好きですとか、言ってないわよね? 私! ……あぁぁ、ほんと、どうしよう。話し掛けていいですか話し掛けて下さいね、じゃないのよ。ほんとに」



 カチャ、カチャ……ザーー……キュッ

 バタンッ

 


 1階の住人の、生活音が漏れ聞こえてきて、水上むながいは冷静さを取り戻した。


 立ち上がって、膝を払う。

 背筋を伸ばして、数回深呼吸をする。


「帰ろう……先輩が、気を使って下さっているのだから、それを無碍むげにしてはダメ。私も普通にしなくちゃ」


 エントランスを出て『言いたいことは、ちゃんと自分の意思で言うんだ。お酒のチカラなんかに頼ったりしない』と思いながら、ピョンと飛んで飛泳する。


「――あれれ?」


 1回のキックで、普段よりだいぶ高い所に居た。

 そしてそこに到達するまでに要した時間も短かった。


 心なしか、いつもより体が軽かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る