8-6 バックラッシ

「――で。3つめなんだけど、これに関しては野生の空想級の鱗ル・ファンタスク・スケールで間違いないだろうね」

「そうですか。あんな滅茶苦茶なんですね、空想級の鱗ル・ファンタスク・スケールって」

「滅茶苦茶だからこそ、とも言えるよ……まあ、俺が倒してしまったから空想級の鱗ル・ファンタスク・スケールだけどね」


 チラリと時計を見る結良ゆうら。また恐ろしい事態に陥っていることに気付いた。

 水上むながいも釣られて時計を確認する。


「ずあ……なんと。もう、21時過ぎてましたね」

「ずあ? どんな感情、それ」


 なんだかんだ、2時間くらい話していたようで、水上むながいの用件は、ほぼ済んだだろうが、玄関先で『追い返す訳にはいかない』と思った時より更に10倍くらい、抜き差しならない状況になっているようだった。


『まずい、まずすぎる!』と結良ゆうらは心の中で絶叫した。そんな饅頭は売っていない。


 こうなったら逆に、自宅まで送ってやるという選択肢が無くはないが……それはそれで、夜遅くに後輩女子の自宅へ行くことになる。


 幸い、結良ゆうらのアパートは複数の部屋がある(わりと整頓されて)。

『幸い? 何をもって幸い!』と結良ゆうらが頭を抱えそうになると水上むながいが立ち上がった。


「あの、私、恥ずかしながら……少しお腹減ってしまって……」

「そ、そうだよね! 何か――」


 今度は結良ゆうらが釣られて、立ち上がろうとした。


「もし先輩が嫌でなければ、私が何か作って差し上げても良いでしょうか」

「へ?」


 思ってもみない提案。サイドテーブルに片手を付いたまま、中腰で結良ゆうらは固まった。

 

 冷蔵庫やキッチンというのは、パーソナルスペース感が意外と強く、そこへは入る方も入られる方も、少なからず心理的抵抗があるものだ。

 そこへ水上むながいは意を決して飛び込む気だった。


「……そ、それはありがたい! 俺も何か食べたいかなと思っていたところだった。ちょ、ちょうど昨日、食材ボックス届いたところだから、好きに使ってもらって――良い」

 

結良ゆうらは、その覚悟的な気持ちを受け止めることにした。


「か、か、かかかしこまりました。い、一宿一飯の恩義です」

「い、一宿……?」

「先輩! あの……今晩……と、泊めていただけませんかっ」

「……っ!」

 

 受け止めることにしたが、その予想を遥かに超えて水上むながいは踏み込んで来た。


 彼女が何故、『家まで送るべきかどうか』でウダウダと悩む自分よりも先に、自らそんな決断に至ったのか――その表情を見て、やっと結良ゆうら

 

 泣きそうで、強がっていて。

 

 水上むながいはきっとまだ怖いのだ。

 自分の認知を超えた怪物を目の当たりにし、次々と仲間が倒れ、そして自身もあのままいたら死んでいただろう。


 初めて、しかし確実に感じた、死の足音。


 結良ゆうらの部屋を訪ねてまで、色々と聞いたのも、言い知れぬ不安を解消したい気持ちの現れだったのかも知れない。


 入生田いりうだ酒梨さなせも同じようにまだ怖さを抱いているかも知れない。

 だが水上むながいには家族が居ない。上京したからとか、疎遠だからとか、親が離婚しているからとか、そうじゃなくて本当に居ない。

 無条件に水上むながいの感情を受け止めてくれる存在が居ない。


 黄金世代と持て囃される天才とはいえ、まだ学生。気丈に振る舞っても、まだ子供。


『それは俺も変わらないのだけど……真理まりとかもみじとかの近くにいるとね……』とズレた自虐をしながら、結良ゆうらは微笑み返す。


「……うん。いいよ、勿論。なんなら朝まで飲んでも良い」

「お酒は嫌いじゃないですが、朝までは遠慮したいです――じゃあ、冷蔵庫、失礼させていただきますねっ」


 自分の横を小走りで通り抜けてキッチンへ向かう後輩を、誰にも見せたくない気がした。


 だから結良ゆうらは、カーテンの無い窓へ近付いて、手を翳して、下ろす。それに応じるようにガラスは、ゆっくりと白濁して光の透過を拒んだ。


「いざとなったら――か」


 結良ゆうらは、水上むながいの後ろ姿に向かって呟いた。



 結良ゆうらが会話の中に散りばめた細かい嘘や隠し事を、水上むながいは気付いているし見抜いている。

 分かっていても分かってないように、自然に、その流れに身を任せる上手さが、心地良かった。


 もみじなら三白眼で睨み返しながら、ニヤつくだろう。

 穂咲ほさきなら『何か隠してる?』とストレートに指摘して来ただろうう。

 白波しらなみは話を合わせつつも気付いてることを匂わせて来ただろう。


 別にどれが良いとか悪いとかじゃない。ただ、今の結良ゆうらには水上むながいのスタンスが新鮮で、心地良かったのだ。


「あの、塒ヶ森とやもり先輩!」

「はい?」

「あ、お米好きですか?」

「お米……? もし嫌いだとしたら、お米買ってないと思うよ」

「ですよね。間違えました」

「何と何を間違えたの」

「先輩! 下の名前で呼んでも良いですか」

「それとお米を間違えたんだとしたら、ある意味天才だね」

結良ゆうら――――先輩」

「ビックリした、呼び捨てかと思った」

「流石に呼び捨てする勇気は未だありません」

「未だ?」

「はい、未だ……です。それで『結良ゆうら先輩』で良いですか?」

「全然良いよ」

「やった。そしたらもう1つ――私のことも下の名前で呼んでくれませんか」

「うお……それは、なかなかハードル高いね」

「ちなみに心春こはるっていいます」

心春こはる

「え? ええ? 呼び捨ては、未だ心の準備が……!」

「こっちも未だ?」

「それは全然、未だです!」

心春こはるちゃん? 心春こはちゃん?」

「おおおお……自分で言っときながら、なかなかこそばゆいですね」

「ははは、なんだそれ。俺は水上むながいって響きも好きだけどね。綺麗で――」

「じゃ、じゃあ! やっぱり水上むながいって呼んでください」

「え、結局?」

「はい。先輩が好きと言ってくださったので」

「うん、好きだね。『水上むながい』」


 不意にエアコンが送風を止める。


「私も――好きです」

 

 たまに噛み合わないまま、それでも2人の会話は噛み合っていく。

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