8-5 いきもの

 気が付けば水上むながいが泣いていた。ボロボロと大粒の涙を零して。


「そ……そんな、そんなことって――」

「あららら、ビックリした。何で水上むながいが泣いてんの――ほら、タオル」

「あり、ありがとうございます……すみません……でも、その時の、先輩の気持ちを、か……考えたら」


 水上むながいは、ハイパーループの事故のことをずっと後悔している。

 何もせずに救えなかった、あの時自分がちゃんと行動していれば、と。


 でも1年前のロイヤルゲートホテルで、結良ゆうらは、皆を救うため前面に立ってやるべき事をやった。結良ゆうらにしか出来ないことをやってのけた。


 それなのに――


「……優しいね」


 両手で顔を覆って泣く水上むながいの、その頭を、ポンポンと撫でた。


「ご……ごめん、なさい」


 小さな嗚咽を隠すように、エアコンの送風音がまた強くなった。


「――先輩の手、なんか落ち着きますね。ありがとうございます」


 そう言われて初めて、自分の右手が後輩の頭を撫でていることに気付いて結良ゆうらは息を呑んで、その息が喉に詰まって死にそうになった。


「…………あ、これは……その」

「大丈夫です。私は嫌じゃない、です」


 どこかで聞いたような言い回しだった。きっと分かって言っている。

 水上むながいは撫でられている側へ頭を傾け、体重を少しだけその手に預けた。

 そうして結良ゆうらは、右手の感覚を喪失した。


 強く唸っていたエアコンがやっと落ち着きを取り戻して静かになろうとしていたので、それに合わせて感覚の無い右手をそっと引き戻した。


 触れていた彼女の頭が、名残惜しむように僅かに着いてこようとしていたのは気のせいじゃない。


「タオル……洗ってお返ししますね」

「いや、別に、そんな」

「はぁ……すみません、私が取り乱しちゃって。先輩の話、続き聞いても良いですか?」

「あ。うん……」


門番ヘイムダル』の暴走空間から解き放たれた結良ゆうらの元には、笛吹うずしき真理まり言問ことといもみじらが駆け寄った。

 結良ゆうらが失敗した場合に備えて、という意味合いが強かっただろうが、真理まりもみじ以外の『八人の女王エイトクイーン』も全員居て、とにかく異常極まった現場であった。


「……他の皆がどうなったのか、誰も聞いては来なかった。アイツら、すぐに察したんだろう」

「先輩自身は……」

「俺はそのまま意識を失って、しばらく寝込んだみたい。起きた時にはロイヤルゲートホテルの事件は国家管轄とされていて、一切の情報が遮断されていた。だから、応援が到着するより前に雲母坂きららざかのチームに何が起きていたのかは、本当に分からなくなってしまった」

「でもニュースにはなってましたよね……」

「ざっくりとはね。ホテルから通報されたりしていたし、事件そのものを無かったことにするのは流石に無理があった」

「またそれで、マスメディアはあることないこと書いて……その結果、第二の水アナザーウォーターは陰謀論だみたいな、よく分からない世論を扇動して……」


 水上むながいは眉間に皺を寄せて、しかめっ面になった。


「皺、癖になると跡残るよ」


 結良ゆうらは自分の眉間をトントンと指差しながら言う。


「あ……しまった。ありがとうございます。マスメディアのこととなると……つい」

「置かれた状況は水上むながいの方がよっぽど重いとは思うけど――気持ちはわかる」


 他人の気持ちなんてわからない。

 本当は結良ゆうらもそれをよく分かっている。算術アリスマで感情の変化を読み解こうとする結良ゆうらだからこそ、逆に強くそう思っているのかも知れない。

 でもわかろうとすることは出来る。それが思い遣るってことなんだろう。


 その思い遣りに触れて水上むながいの心は、解ける。


「先輩こそ……優し過ぎます」


 珈琲の入ったコップを口に当てながらモゴモゴとした。


「……でも結局、俺は直接的に攻撃に晒されていないから……水上むながいの本当の辛さなんて、やっぱりわからないんだろうけど」

「直接的に? それも、まさか危機回避――」

「その通り。目覚めた時にはもう、『門番ヘイムダル』は俺を、世界の喧騒から程遠い――蚊帳の外に居させたんだ」


 そもそも数日で、目が覚めたこと自体も危機回避の効果によるものだったらしい。


 20人以上を同時に接続した無茶苦茶な共同演算の、その要を担った結良ゆうらの脳は普通に考えれば、二度と算術アリスマが使えなくなるどころか日常生活もままならないような障害が残ってもおかしくなかった。

 そうならなかったどころか、寧ろ事件前より調子が良いくらいになっていた。


「『門番ヘイムダル』は直接俺に所有権が移ったというよりも、俺の算術アリスマ――『符号香ラストノート』上で擬似再現されている状態だったんだ」

「じゃあ、先輩の『符号香ラストノート』の発動を止めれば……強制的に『門番ヘイムダル』も――」

「そう、止まる。でも、事情操作レベルに到達した『門番ヘイムダル』を止めた場合に、『門番ヘイムダル』によって改編された事象はどうなるのか、すぐには判断がつかなくて……俺はしばらくことを指示された」

「指示って、誰から……」

「算術省」

「うっわ、ですか。言っても学園の委員会からかと思いました」


 自分の腕で自分の身体を抱くような姿勢になった水上むながい。首もややすぼめている。

 一介の学生が政府の一省庁から指示を受けるなどそうあることではない。


 しかし、威力も規模も効果範囲も持続時間も、とにかく何もかもがハッキリしていない覚醒状態の算術アリスマの取り扱いとなれば、当然の対応なのかもしれなかった。


「なんとなくもう大丈夫だろって思っても、確証が無くて……結局、『解いても良い』と明言されるまで半年くらいかかったよね。まあ、それすらも『門番ヘイムダル』が『門番ヘイムダル』自身を延命させるための危機回避だったような気がしている」

「新しい所有者を選ぶとか、自分自身の延命とか……まるで、生き物みたいに言いますね」

「そう表現した方が、しっくりくるでしょ」

 

 結良ゆうらの視線が右上に向いたことを水上むながいは見逃さなかった。――しかし今回も水上むながいは心のうちに留めた。


『敢えて語らないことにはきっと何か意図がある。それを尊重すべきなんだ』と、今の水上むながいは思う。


 そして『語ってもらえる器じゃないというだけかも知れないし、それならば、私がこれから相応しい器になっていけば良い』とも思った。



門番ヘイムダル』を持続させ続けることを義務付けられていたその半年の間に結良ゆうらは、『門番ヘイムダル』を消失させないまま符号香ラストノート一時停止スリープする方法などを編み出し、徐々にコントロールできる範囲を増やしていた。

 この辺りで結良ゆうらは、常軌を逸した能力でも時間を掛ければコントロールが可能なのだと気付き、そうであるならばこのまま完全に手懐けてしまうのもありだと思った。



 ――そうすれば、あの計画を実行出来る。


 例えそれで、四回生になれなかったとしても。

 例えそれで、下らない通り名が付いたとしても。


 例えそれが、人類の禁忌を犯すような内容であったとしても。



「……ありがとうございました。この2つ、根っこは同じ……どころじゃ無かったですね」


 トランプのようなメモをまたサイドテーブルの上に出して、1と2のところにチェックを入れる。


「確かにそうだね。というか、自然に流してたけど……厳木きゅうらぎの名前が出てきたのは――」

「私達の前で先輩が、言問こととい先輩や入生田いりうだクンと話していて『1年半前の陰謀論』みたいな話題になった時、先輩はちょっと不自然に話題をすり替えて、同時に厳木きゅうらぎクンはピリッと反応したんです」

「うっそ……そんなところから……凄いね」

「あと、先輩、私達と向き合っている時、わりと満遍なく視線を振り分けてくれていたのに、それが厳木きゅうらぎクンには極端に少なく感じました」

「はぁ……マジですか。ははははは」


 推理小説の解決パートで探偵に、完璧に論破される犯人はこんな気分なんだろうかと結良ゆうらは笑った。

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