8-2 突沸する氷

門番ヘイムダル』の効果は凄い!

 

 水上むながいをリビングのソファに座らせて、まず真っ先に結良ゆうらの頭を過った感想だ。


 取り敢えず何か飲み物でも、とリビングに立った。

 この時間から珈琲飲んだら寝れなくなるかな? とか思いながら、水上むながいを横目に見る。


 まだ逆上のぼせたままのようにボーッとしている。


『いや、何この状況! 何、冷静に珈琲なんか淹れちゃってんの俺! いやいや、逆に珈琲でも淹れてないと冷静で居られないわ! ……もしかして、この1年間、こういう青春っぽいことも回避していたのか?』


 それは危機なのか?

 だとすると、その期間中に知り合った白波しらなみは何だったのか?

 ……そうすると今のこの状況は、『門番ヘイムダル』の効果が切れたから、起きたというわけでもないのか?

 いや、白波しらなみは友人であって、別段になったりはしていないし……。


「む、水上むながいは珈琲、ブラックで飲める?」


 淹れた珈琲を、コップへ移してリビングへ戻って来た。


「……あ、はい。何でもブラックですっ」


 小さなサイドテーブルに置かれたコップを、両手で少し引き寄せる水上むながい


「何でも? 珈琲以外にブラックって表現する飲み物なんかあるっけ?」

「す、すみません。豆の銘柄とかブレンドの話でした!」

「マニアック! ははは。でも、もする――水上むながいも、珈琲好きなんだね」


 緩んだ頬のまま吹き出した息は太く、珈琲を冷ますには役者不足だったが、黒い水面に漂っていた湯気を少しだけ吹き飛ばした。


「好き、ですね。特に香りが」


 水上むながいは鼻を突き出すようにして、湯気とともに舞い上がった香りを積極的に吸い込む。


「――良い香り」


 ドアの前で飛び起きてから初めて、水上むながいの表情がちゃんとほころんだ。

 

「…………っ」

 

 自分が息を吹きかけて舞い上がった香りを吸い込んだ水上むながいを見て、結良ゆうらは何だか物凄く、をしているような気分になった。

 

 目を閉じて香りに浸るその表情は、まるで今日1日の頑張りを見ていた神様からの、労いのご褒美のような、そんな尊さを感じさせる。


 ソファに浅く腰掛けたまま、座面と同じくらいの高さのサイドテーブルに向かって顔と鼻を突き出している水上むながいは必然、大きく前屈まえかがみで――顎から首筋までのラインがなだらかに直線に近付いていた。


 尊い表情に見蕩れていた筈の視線は、いつの間にか、その先へ向かって滑り出している。ロングスカートのワンピースは胸元から肩先まで大きく開いている。


 肌理細きめこまかさも相まって加速していく視線は、鎖骨と鎖骨の中心の窪みにぶつかってようやく止まって転げ落ち、そこで結良ゆうらはギリギリ正気を取り戻した。


『――な、なにをうっかり犯罪をおかそうとしている!』


 慌てて珈琲を口に流し込む。――淹れたて熱々の珈琲を。


「あああ熱っ――つく……ない?」

「あ、ごめんなさい! なんだか急に一気飲みされそうだったので……火傷しないように、ちょっと温度下げちゃいました。もし熱々のが飲みたかったのなら、すみませんっ」

「え? うそ。いや、全然……ありがとう、俺の口粘膜が助かった」


 とてつもない瞬発力と繊細な算術アリスマのコントロール。


「凄い精度だね。適温じゃん」


 感嘆しながら結良ゆうらはコップをサイドテーブルに戻して、空になった左手を見る――手のひらにジリジリとした熱さが残っている。

 取っ手のついたコップなのに、胴を鷲掴みにしたのだから当然だろうが……つまりコップを掴んだ時点ではまだ熱々の珈琲だった。

 それを口元まで運んで、流し込む――たったそれだけの刹那に水上むながいは、珈琲の温度を最適化していた。


 冷まされたといっても、アイスコーヒーになったわけではない。


「この珈琲はきっと、ホットで飲むように淹れて下さったのだろうと思いまして」

「そうだけど……」


 やはり黄金世代は、さらりととんでもない事をやってのける。


 テンパっていたとはいえ、自分の鼻が算術アリスマの発動に気付けないくらいの発動速度であったことも結良ゆうらとしては、かなりの驚きだった。


「あのっ……塒ヶ森とやもり先輩は、ぼ……私の認識だと防御系の算術アリスマの使い手だったと。しかも何だか、めちゃくちゃなレベルの」

「あ、あー……」

「だから、珈琲が思ったより熱いとか、飲んで火傷するとか、そういうのないのかと思っていましたがっ」

「流石にそこまでじゃない、とは思う……それに、今はもう違う」

「今は、もう、違う? とても面白そうな単語が並びましたねっ……あ、すみません、興味深い単語がっ」


 垣間見えた水上むながいの洞察力とツッコミ癖に『これかあ!』と少しだけ興奮した。


「いいよいいよ、そんなに畏まらなくても。僕呼びでも全然良いし、噂によるともっと語気に勢いがあるって」

「それは……敵か味方かを判定するために身に付いてしまった、ちょっとした――自衛です」

「自衛……」


 結良ゆうらも、水上むながいの過去についてはそれなりに知っている。だからその意味も何となく察した。


「『僕』と呼称したり、強めに発言したりすれば、相手の敵意を炙り出しやすいんです。敵意を持っている人ならそれだけで、すぐ喧嘩腰になってくれる……だから分かりやすくて、腹の探り合いみたいな、めんどくさい付き合いをしなくて済むんです。目をやたらと見開いているのも、そうです」


 目をカッと開いて、すぐ元に戻す。力を抜くとスラッとした切れ長の目だった。意外なほど印象が変わった。


「……なるほど。それは無神経なことを言ってしまった。悪かった」


 ペコッと首を折る結良ゆうら


「いや、良いんですっ。キャラを被ってるのは案外楽だったりしますし!」


 クシャッとした笑顔につられて、結良ゆうらは胸の真ん中に、不思議な温かさを感じた。

 飲み干した珈琲の、温度調節が解けてしまったのかも知れない。


「今みたいに話し方は、入生田いりうだ酒梨さなせちゃん達の前では……」

「してないですね! まだそこまで深い仲でもないですから」

「ははは、気持ちいいね……じゃあ、なんで今、俺の前では?」


 ボッと何かが沸騰するような音が聞こえた。よく見ると水上むながいの顔が赤い。


「そ……それはっ」

「あれ? この部屋、暑い?」

「え? あー……まあ、そうですね」


 盛大に肩透かしを食らったような水上むながいの目は、今度は丸くなった。

 その様子に気付かぬ結良ゆうらはエアコンに話しかけて設定温度を下げる。


「この部屋、カーテン無いんですね……」


 珈琲を飲んで少しだけ冷静になり、やっと周囲の状況を観察出来るようになってきた水上むながい


「う、ん。自分しか居ないし、ここ5階だし、向かいに背の高い建物無いし……いざとなったらボタンひとつで透過無しにできるし」

「――い、いざとなったら」


 水上むながいは聞こえないように呟いた。


「ん? 何か言った?」

「いえ、何も――それより塒ヶ森とやもり先輩。突然押し掛けてすみませんでした。まずはそこからでした」

「大丈夫、ちょっと驚いたけど。落ち着いてきた。まあ、でも……そもそも、ここどうやって知ったの?」

「それは、言問こととい先輩に聞きました!」

「なるほどもみじか……」


 つまりもみじは、結良ゆうらの置かれているこの状況をある程度は想像出来ているということだ。


「す、すみません! でもどうしても、塒ヶ森とやもり先輩に言いたいことや聞きたいことがあって」

「言いたいことに聞きたいこと? さっきの算術アリスマのこととか?」

「それもそうですが、聞きそびれたら嫌なので、要点をメモに纏めてみました」


 ピッと、トランプくらいの小さなメモがサイドテーブルに差し出された。

 それをおもむろに受け取る結良ゆうら


「ふーん。見させて貰うね」

 


 1・塒ヶ森とやもり先輩の算術アリスマはなんなのか!


 2・塒ヶ森とやもり先輩と厳木きゅうらぎクンの間に何かあるのか!


 3・あのイカは天然の空魚ではない気がしたのですが、塒ヶ森とやもりはいかがお考えか!



「メモの語気は強いままのね……しかし、イカにとか……ふふふふ」

「――え? ああああ、いや、それは狙ってません!」


 失笑する結良ゆうらの右手から恥ずかしそうにメモを奪い返す水上むながい


「狙ってないのが良いんだよ、ふふふふふ」

「そ、そんなに笑わなくても良くないですかっ」


 水上むながいは口先を尖らせた。


「ごめん、怒らないで。語気とのミスマッチが、なんか……可愛くて思わず」

「かっ……かわっ?」


 ボッと、また何かが突沸した。

 

「じゃあああ、じゃまず1つ目から行きますよ」

「オッケーオッケー。いいよ、何だったっけ」



塒ヶ森とやもり先輩は、今、好きな人いますか」

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