008

8-1 想定外

 幽霊地区ゴーストタウンから結良ゆうらの自宅までは歩けば数時間という距離だが、ワンキックがあれば一瞬だった。

 全行程を一瞬で終えてしまうのは、つまらないので3分の2くらいの距離をワンキックで移動し、残りはストライドで軽く流すことにした。

 

 日が落ちても市の中心部は、明るい。

 

 この時間帯になると空魚は、街灯や窓から漏れる室内照明など、下からの光を帯びて輝く。日中とはまた違った、厳かな雰囲気。


 『昼も夜も、どちらも捨て難い』と結良ゆうらは思いながら5階のポーチ部分へ直接降りる。そこは自室の玄関の、目の前。


「はぁ……長かかった」


 本当に長い長い1日だった。それがやっと終わる――筈だった。


「……って、あれ? 階、間違えた?」

 

 まだ寝惚けているのかと、まず自分の感覚を疑った。

 階を間違えたのか、はたまたアパートごと間違えたのか……そんなことは有り得ないだろうけど、そのくらいに結良ゆうらは混乱した。

 

 自分の部屋の、そのドアの前に誰かがうずくまっている。

 ちょこんと小さく、膝を抱えて。深く長い吐息が聞こえる。


「だ、誰……え? 寝てる?」


 顔が見えないので判然としないが、髪型や服装に見覚えがある、ような気がする。

 軽やかなミディアムボブの黒髪。3段スカートのロングワンピースは、くすみピンクで裾や袖のフリルが印象的。全体的にガーリーな印象で、足元のウェッジソールサンダルにも大きなリボンがあしらわれている。

 確かに、今朝この服装を見た。しかし同じような服を着た別人ということもある。


「誰だか判別するなら……で一発なんだけど……まあまあ気持ち悪がられるから、あんまり積極的にしたくはないんだよね」


 さてどうしようか、と思いながら右足に乗っていた重心を左足に変えるような動きをした。

 その僅かな衣擦れの音にドアの前の誰かは反応した。


「……う、あ――あ! お、お、お帰りなさいませ。寝てしまっていました!」


 言いながら飛び起きて、飛び上がる。

 

 ――ガン!

 

 そして、ドアノブに右肩を強打した。


「いっ……たぁ! くぅー……痛たたたた」


 顔が見えて声が聞こえて、一応、予想通りの人物だったが、しかし結良ゆうらが知っている人物像からは大きく乖離していた。


「だ、大丈夫? というか、こんなところで何してるの?」

「いたたた、たた…………えっと、何……してるんでしょうね、ははは」


 あからさまに、しどろもどろ。


「キミはもっとロジカルな行動をするタイプだと思っていたんだけど」

「色々痛い……そうですよね。も……あ、いや……私もそう思います」


 前髪を無意味に何度も撫で下ろしながら、はにかむ。


「僕、でも別に気にしないけど、それより治療はどうしたのさ」

「いや、それが……脳とかにはあまりダメージ無かったみたいで。意外にも。あっさり、帰っていいよって言われました。ありがとうございます。むしろ今は、こっちのが痛いです」


 肩を擦りながら水上むながい心春こはるは顔を赤らめた。


 捻じ曲がった者クラーケンとやり合った黄金世代の1人で、入生田いりうだ小撫こなでが生きているのは、水上むながいの決死のファインプレーによるものだったと酒梨さなせが言っていた。


 結良ゆうらの認識では、氷雪系の算術アリスマを操り、絶対防御と呼ばれる防御系展開が特に有名。

 洞察力に優れ、俯瞰的視点や論理的思考に定評があると聞いていたし、朝見た時も、その佇まいから黄金世代のブレーン的なポジションになりそうだと感じた。


 だからこそ『ダメージ無いとか言いながら、算術アリスマの高負荷使用による後遺症なんじゃないか?』と心配してしまっている。


 どこか熱に浮かされているような。


 正常な思考が出来ていないとすれば、ここに居ることも何かの間違いかも知れない。かと言って、追い返す訳にもいかないだろう。


 時間も時間だ――ではこの場合どうすれば良いのか。


「ん〜……と、取り敢えず、上がってく?」

「え? あ、えーっと……はい、お願いします!」


 言ってすぐ、何か間違えたような気もしたが、結良ゆうらもよく分からなくなっていた。


『ヤバい……想定外の事態への対応方法を忘れているぞ、俺』


 この1年くらいの間、目の前で起こる事はだいたい想定内だったのだ。

 結良ゆうらにとって全てが都合よく進んでいた。

 結良ゆうらが混乱するような事態は起きなかった。

 

 それが今は違う。


「あ、じゃあ……ちょっとそこ、避けて貰っても良いかな」

「そうですよね。スミマセン!」


 ドアの前から数歩、パタパタと避ける水上むながい


 ドア前のポーチはそんなに広くなく、大人が2人すれ違おうとすれば、自ずと距離が縮まる。

 避けてくれた水上むながいの前を、半身になってすり抜けると否応なしに彼女が纏う香りを嗅いでしまった。


「……っ」


 背中越しにも、薄っすらと軽やかに漂うバニラの香り。

 その中に果物のようなフルーティーさもあって、くど過ぎず嫌味が無い――そんな上品で優しい甘さ。


 クールな印象の彼女からは、少しギャップのある可愛らしい香り。


 後輩女子の纏う香りを冷静に分析している自分に、冷静では居られなくなってきた結良ゆうら


 焦りと混乱を隠すように少し肩をすぼめながら、ドアノブの少し上にある黒い小さな筐体へ手を近づける。――生体認証型の鍵だ。


 ビーーー


 認証に失敗した。


 ここに住んでから初めて。どういう訳か、心拍数が想定より高いらしい。別人レベルに。


「う……嘘だろ、おい」


 平静を装えない。

 口から静かに大きく息を吐き出してからもう一度、認証してみる。


 ピピピ!――ガチャ


 鍵が開いた。『良かった。開いた』と安堵してすぐ、また間違ったような気がした。


『いやいやいや、開いて良いのか? 待て待て。待てよ、俺。今日、初めましての後輩女子を、この時間から部屋にあげる? 良いのかこれ。誰かに見られてないか? 何かの罠じゃないか? もみじとか真理まりとか……そもそもあいつらでさえこの部屋には入れていないのに……いや、入れるわけないだろ、あんな奴ら!』と思考は纏まらず、留まらない。


 それを何とか表に出さないように、過去の自分の動き方を脳内トレースしながら、靴を脱ぎ――それを揃えて、ジャケットを脱ぎ――それをフックに掛け……『ここに引っ越して来てから、1回もこんなことしてないよっ!』と頭を抱えた。


「……お、お邪魔しますっ……」


 俯き気味に水上むながいが敷居を跨ぐ。


「ど、どうぞ〜」


 無駄に美声だった。

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