6-4 符号香(ラストノート)

 匂いがする。

 

 たくさんの算術アリスマが発動した匂い。

 巨大な空魚の匂い。

 血の匂い。

 涙の匂い。

 絶望の匂い。

 死が近付く匂い。

 

 その有様に『ああ、なんて駄目な先輩なんだ』と結良ゆうらは思った。


 後輩達がこんなに傷付いている。

 頑張ったんだろう。耐えたんだろう。堪えたんだろう。


 自分がグズグズしていたから、危うく可愛い後輩達を死なせてしまうところだった。

 天秤にかけるまでもない筈なのに。そんなこと、分かっていたのに。


「――遅れてごめん」


 戦場のど真ん中に、突然現れた結良ゆうらに全ての注目が集まり、そして時が止まる。

 

「と……塒ヶ森とやもり先輩……?」

「あ、あああ……」


 絞り出すように結良ゆうらの名前を呼ぶ入生田いりうだと、感情の全てが溢れて言葉にならない酒梨さなせ


 それを見て更に、彼らがどんな絶望的な状況に置かれていたのかを推し量った。


 「怖かっただろう……皆、よく頑張った」


 ――入生田いりうだ小撫こなで羽咋はくいは命に関わるような怪我は無いが、飛泳能力が麻痺しているように感じる。

 酒梨さなせは精神的ダメージが大きそうだ。ケアが必要かも知れない。

 水上むながいは……無茶な算術アリスマの使い方をしたな。脳にダメージを負っている可能性もあるから、早く治療させなくちゃ。

 厳木きゅうらぎ……厳木きゅうらぎが1番悪いな。でも杉田すぎたの『緋炎コンルル』でなんとか回復済み。

 それにしたって2人ともチカラを使い過ぎている。右腕を再生させるなんて、お互いに負荷が大きい――


 全員の状況を把握すると、余計に胸を締め付けられた。


 もう大丈夫だって、全員を抱き締めてやりたい気持ちが込み上げて来るが……今はそれより先にやるべきことがある。


 キイイイイイ……


 蠢く触手。鈍色の巨体。

 入生田いりうだの絶水で瀕死級のダメージを負いながらも、未だに圧倒的捕食者のプレッシャーを放つ捻じ曲がった者クラーケン


 今まで7つの標的に、ある程度分散して向けられていたそのプレッシャーが、今は1つに束ねられ、そして結良ゆうらに向けられている。


 ビリビリとそれを感じる。


 久しく感じていなかった、その感覚の中で結良ゆうらは薄らと笑みを浮かべた。


「……よしよし、それでいいぞ捻じ曲がった者クラーケン。これだけでも、皆かなり楽になる筈だ」


 捻じ曲がった者クラーケンのプレッシャーに曝されているということは、生命の危機を突き付けられている状態。

 それだけで相当に消耗する。


「ん? 後ろか――」


 言いながら結良ゆうらが一歩、右にズレる。

 その瞬間、元居た場所の真後ろから、触手が生え――ズドン、と音が後から聞こえた。


 宙に丸く空いた穴から生えてきた触手は、標的を捉えることなく、ただ虚空を貫き、そのまま正面の壁を穿った。


「……え……今の見え、て……?」


 まるで攻撃が来るのを予知していたかのような動きに、酒梨さなせは驚きを隠せなかった。


 入生田いりうだ達3人が一瞬で戦闘不能になったワープゲートと触手の組み合わせによる死角からの攻撃……それを躱した。


「匂いがしてから、触手が生えてくるまでのタイムラグが短いな。これは、の発生を目視してからじゃ躱すのは難しそうだな」


 匂い――

 

 酒梨さなせもみじとの電話を思い出す。


「匂いを操る算術アリスマ、『符号香ラストノート』……でも、それで……」


 相手の攻撃まで読めるのか。


「あ……もしかして――」


 浮かびかけた疑問符を自らの知識が打ち消す。

 それは、かつて発表した論文――匂いに対して非常に敏感な危険性空魚についての研究。


 その空魚は水媒子アープの匂いすらも同じように嗅ぎ分けているということを、酒梨さなせ自信が結論付けていた。

 

 潜水士ダイバー算術アリスマなどの基礎的な物質である水媒子アープ

 それが、潜水士ダイバー達の飛泳の軌跡や算術アリスマを使用した空間に高濃度で残留することはよく知られている。


 この残留水媒子アープには潜水士ダイバー算術アリスマごとに構成が異なり、違った匂いがするらしい。

 

 先の、匂いに敏感な危険性空魚は、同族が算術アリスマで攻撃され死んだら、現場に残留する水媒子アープの匂いから算術アリスマ開発者を特定し、そこからの移動経路なども嗅ぎ分けて追跡する。


 そして、数百の大軍で報復にやって来る。


 酒梨さなせの論文によって、この空魚の存在が世に知らしめられ、姿形が一般的に認知されるようになった。

 それ以降、この空魚を誤って攻撃してしまい大群に襲われる事故は激減した。

 

 潜水士ダイバーにできることは空魚にも出来る。空魚に出来ることは潜水士ダイバーにも出来る。


 水媒子アープを嗅ぎ分ける空魚がいるなら、同じことが出来る潜水士ダイバーが居てもおかしくはない。

 結良ゆうらは、捻じ曲がった者クラーケンがワープゲートを発生させる際に生じた水媒子アープの匂いを嗅ぎ取って、攻撃を察知した。

 

 ギイイイ、ギギギイイイ

 

「う、うるさっ……」


 今までとは全く違う捻じ曲がったクラーケンの鳴き声。思わず酒梨さなせは体をすぼめる。


「ははは、だいぶ怖がってくれているようだね」


 スンスンと鼻を鳴らす結良ゆうらの周りに、無数の黒い穴が空いた。


「数を増やしたって、何も変わらない――よっ!」


 言いながら右足でキックをする。


 ドオン、という轟音だけ置き去りにして結良ゆうらは黒い穴に囲われた空間の内側から離脱した。


 そしてその直後、無数の触手がまたくうを貫いた。

 それぞれの触手が互い違いに立体的に、滅茶苦茶に交差し、隙間らしい隙間は無い。

 に居続けたら跡形も無かっただろう。


「……そうかそうか。カラダ動かすのしんどくて、そのゲートと触手の合わせ技を多用してんのね」


 結良ゆうらは触手の真上に浮遊して居た。


「――ってことは、入生田いりうだ達にかなり削られたってことだね。流石は、黄金世代」


 言いながら、離脱のワンキックに使ったのと逆の、左足をカカト落としのように振り下ろす。


 数キロメートルを1回のキックで移動するワンキックの、その要となるのは第二の水アナザーウォーターの圧縮爆発。


 移動に使用する時は、周囲を破壊しないように分散のさせ方にまで気を使っているが、そんなことを一切考えずただ暴力的に、――それは、それだけで兵器と化す。


 カカトを振り下ろすと同時に、膨大で莫大で甚大な量の第二の水アナザーウォーターを固めて纏めて、そして爆発させる。


 ズウン、という鈍い鳴動とともに、黒いワープゲートの中へ引き返そうとしていた触手が全て、叩き潰されて、引きちぎられて、爆散した。


 ぎ、ぎいいいいい……ぎぎぎぎいいい


「うっ……そ」


 何だかよく分からなかったが、今の攻撃が号付ブルベによるものではないということは酒梨さなせにも理解出来て、同時に次元の違い――格の違いを突き付けられた。


 桁違いにも程がある。


 黄金世代の中でもトップクラスの攻撃性能を誇る入生田いりうだ小撫こなで号付ブルベってしても、全身を少し痛め付けて、触手を1本自切に追い込むのがやっとだったというのに。


 結良ゆうらは一瞬で、十数本の触手を切り落とした。


「ごめんな、捻じ曲がった者クラーケン。これはほとんど八つ当たりだ」

 

 酒梨さなせにはその瞬間、捻じ曲がった者クラーケンが、鳴き声も上げずに、グッと身をすくめたように感じた。


「怖がっている……」


 入生田いりうだの拒絶に曝された時とはまた違う。


 嫌なことを思い出したような。

 忘れていたことを思い出してしまったような。

 直視するのを避けていた、根源的な恐怖を思い出したような。


捻じ曲がった者クラーケンは、コウテイイカ。そもそも大型の空魚だけど、天敵が居る」


 透明な壁ゲビートより遠い第二の水アナザーウォーターの海域で、ごく稀に目撃される大型空魚同士の戦い。


 巨大なイカ型の空魚――コウテイイカと、クジラ型の空魚――イザヨイクジラ。


 この2種は生息する海域や水深などが近く、お互いに縄張り意識も強いので出会うと必然、殺し合いになる。


 しかし実は、イザヨイクジラが一方的に捕食を目的として縄張りを侵し襲っていて、コウテイイカはそれに抵抗しているだけらしかった。


 イザヨイクジラはその凶暴性や獰猛性で危険性空魚に指定されているのも、それを裏付ける。

 逆にコウテイイカは、捻じ曲がった者クラーケンの素体とはいえそこまで凶暴ではない。どちらかといえば温厚な性格だ。


 つまりコウテイイカにとっての天敵が、イザヨイクジラということ。


「その蹂躙の記憶……思い出すといい」


 原始の記憶に刻まれた恐怖。

 捕食者が、捕食者に成る前の記憶。


 あらゆる生物は自分にとっての天敵を、が、それは遺伝子情報にその記憶が刻まれているからだと言われている。


 ――『符号香ラストノート』の匂いはね、様々な記憶を呼び起こすのさ――


 電話口でもみじが言っていたことを脳内で反芻する酒梨さなせ

 匂いを操る――と言っても、香りで良い気分にさせたり、ちょっと眠くさせるとか、そんな効果じゃない。

 危機回避の頂点的な『門番ヘイムダル』とは、まるで対局の残酷な攻撃性能を持っている。


 そのメイン効果は、匂いによって記憶を呼び起こさせること。

 

 ある花や草木の香りを嗅いで、その季節にまつわる記憶が蘇ったり、食べ物の匂いから幼少期の体験を思い出したり……


 嗅覚が脳に直結している感覚器ということもあり、人の感覚の中で最も記憶と結び付きが強く、過去の経験や記憶を思い起こさせるチカラがある。


 思い起こされる記憶は、良いものもあれば悪いものもある。


 ――匂いによる記憶や感情の想起と同時に、もう1つ着目すべきは、生き物自身が発する匂い。

 例えば、生き物は強い不快感を抱くと、分泌される皮膚ガスの性質が変わってストレス臭と呼ばれる匂いを発生する……のは知っているよね酒梨さなせ

 そんで、その匂いを嗅いだ相手も同様のストレスを感じることもあるって、アンタの空魚の研究でも言ってたか――


 もみじがまるでマシンガンのように耳元で話していた内容を思い出す。耳が痛かった。


 ――原因となるストレスによって発生する匂いもちょっとずつ変わるんだ。恐怖なら恐怖の匂い、憤りなら憤りの匂い、ってね。

 ……いや、ウチには分からないよ? 結良ゆうらが言ってただけ。アイツの鼻は異常だから――


 聞いてもいないことまで勝手に答える。


 ――それらの匂いを再現して、記憶や感情に直結する嗅覚に作用し、強制的に追体験させるのが『符号香ラストノート』という算術アリスマなんだが……――


 次の言葉を聞いて、酒梨さなせはゾッとしたのを覚えている。


 ――これだけ聞くと攻撃性なんて無いように思えるよな。ふふ……だが実はある。えげつない攻撃性が。結良ゆうらが思い出させるのは、の記憶さ――


 傷を負うことも外的ストレスの一種ならば、その時にもストレス臭が出る。

 その匂いを算術アリスマで高濃度に作り出し対象に嗅がせることで、傷を負った時の記憶――ではなくを逆算的に再現する。


 生き物は、ただ普通に生きているだけでもそれ相応に傷を負うものだ。当然、人も。


 人生は無傷では居られない。

 

 ドアに指を挟んだ。

 ナイフで指を切った。

 熱湯で火傷をした。

 殴られた。

 階段で足首を捻挫した。

 高いところから落ちて骨折した。

 交通事故にあった。

 

 年齢によるだろうが誰しも大小様々な傷を負って生きてきている。


 幸いにもそれらの傷で命を落とすことはなく、完治していたとして……もしそれをもう一度、体験させられたら……その痛みは想像を絶するだろう。


符号香ラストノート』の攻撃的効果は、コレだ。

 

 ――でも、一般的な危険性空魚や敵を相手にするならこのレベルでも十分やれんだけど、空想級の鱗ル・ファンタスク・スケールを相手にするなら話は別なんだな――


 算術アリスマの開発の段階で、空想級の鱗ル・ファンタスク・スケールを相手取ることを想定していたという事実に、意識の差を垣間見た酒梨さなせ


「確かに……この捻じ曲がった者クラーケンがこれまで負ってきたであろう傷を再現するだけでも十分な効果が見込める気はする。でももし万が一、本当に屈強な個体だった場合、ほとんど傷を負わずに今まで生きてきた可能性だってゼロじゃない、のか」

 

 このくらいでいける。これで十分。

 そんな想定が全くハマらないから『空想』と冠されるのだ。


 想像しうる想定外を全て5割り増しで想定しても、それでも足りないかも知れない。


 空想級の鱗ル・ファンタスク・スケールを相手取るつもりなら、それくらい想定しないと駄目だ。


『十分な効果が見込める』では全くもって不十分。十二分な効果を求めなくては足元をすくわれる。

 

 だから結良ゆうらは、


 ――遺伝子情報レベルの深い記憶を掘り起こす匂いなんて、普通に考えりゃ実現不可能だろう?

 ウチですらバカげてると思うよ。たがそれをやってのけるのが、走井うち塒ヶ森とやもり結良ゆうらだ――

 

 捻じ曲がった者クラーケンが発する微細な匂いのサンプリングは、結良ゆうらが『門番ヘイムダル』を解除したころから始まっていた。


 ――発動に条件は有るし、時間もかかる大技だが……今なら多分、いけるだろ。酒梨さなせ、アンタらが頑張ったお陰だよ――


 どういう行動を起こした時に、どんな匂いを出すのか。どんなストレスを受けた時、どんな匂いを出すのか。

 そこで得た情報から結良ゆうらは、それらの匂いを再現し、既に捻じ曲がった者クラーケンに少しずつ嗅がせていた。

 捻じ曲がった者クラーケンの不意打ちの初撃を躱した頃からずっと。


 結良ゆうらの生成した匂いを少しずつ嗅がされていた捻じ曲がった者クラーケンは、無自覚のうちに感情や思考を僅かに変化させられ、またそれに応じた匂いを発する。

 その前後の匂いの差を情報として蓄積しつつ、また新たな匂いを結良ゆうらは生成する。


 これを繰り返し、突き詰めて、煮詰めて……どんな匂いによってどんな変化を起こすのかを細かく分析して、感情や思考の奥深くまで入り込んでいく。

 

 そうして遺伝子情報に刻まれた太古の記憶――祖先達の記憶レベルに作用する匂いの構成を割り出していた。

 

六翼の蝶グレイターパピロン

 

 気付けば結良ゆうらの周りを青白い蝶が数頭飛んでいる。左右に3枚ずつの合わせて6枚の羽を持つ蝶。


「……さようならだ。捻じ曲がった者クラーケン


 青白い蝶が、滑らかに捻じ曲がった者クラーケンへ向かって飛んで行く。

 キラキラと鱗粉ようなものを撒き散らしながら。

 

 その鱗粉に触れると、捻じ曲がった者クラーケンは、最後に1つ『ギッ』という鳴き声だけ残して、砂のように崩れ去った。

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