6-4 符号香(ラストノート)
匂いがする。
たくさんの
巨大な空魚の匂い。
血の匂い。
涙の匂い。
絶望の匂い。
死が近付く匂い。
その有様に『ああ、なんて駄目な先輩なんだ』と
後輩達がこんなに傷付いている。
頑張ったんだろう。耐えたんだろう。堪えたんだろう。
自分がグズグズしていたから、危うく可愛い後輩達を死なせてしまうところだった。
天秤にかけるまでもない筈なのに。そんなこと、分かっていたのに。
「――遅れてごめん」
戦場のど真ん中に、突然現れた
「と……
「あ、あああ……」
絞り出すように
それを見て更に、彼らがどんな絶望的な状況に置かれていたのかを推し量った。
「怖かっただろう……皆、よく頑張った」
――
それにしたって2人ともチカラを使い過ぎている。右腕をまるまる1本再生させるなんて、お互いに負荷が大きい――
全員の状況を把握すると、余計に胸を締め付けられた。
もう大丈夫だって、全員を抱き締めてやりたい気持ちが込み上げて来るが……今はそれより先にやるべきことがある。
キイイイイイ……
蠢く触手。鈍色の巨体。
今まで7つの標的に、ある程度分散して向けられていたそのプレッシャーが、今は1つに束ねられ、そして
ビリビリとそれを感じる。
久しく感じていなかった、その感覚の中で
「……よしよし、それでいいぞ
それだけで相当に消耗する。
「ん? 後ろか――」
言いながら
その瞬間、元居た場所の真後ろから、触手が生え――ズドン、と音が後から聞こえた。
宙に丸く空いた穴から生えてきた触手は、標的を捉えることなく、ただ虚空を貫き、そのまま正面の壁を穿った。
「……え……今の見え、て……?」
まるで攻撃が来るのを予知していたかのような動きに、
「匂いがしてから、触手が生えてくるまでのタイムラグが短いな。これは、穴の発生を目視してからじゃ躱すのは難しそうだな」
匂い――
「匂いを操る
相手の攻撃まで読めるのか。
「あ……もしかして――」
浮かびかけた疑問符を自らの知識が打ち消す。
それは、かつて発表した論文――匂いに対して非常に敏感な危険性空魚についての研究。
その空魚は
それが、
この残留
先の、匂いに敏感な危険性空魚は、同族が
そして、数百の大軍で報復にやって来る。
それ以降、この空魚を誤って攻撃してしまい大群に襲われる事故は激減した。
ギイイイ、ギギギイイイ
「う、うるさっ……」
今までとは全く違う捻じ曲がった
「ははは、だいぶ怖がってくれているようだね」
スンスンと鼻を鳴らす
「数を増やしたって、何も変わらない――よっ!」
言いながら右足でキックをする。
ドオン、という轟音だけ置き去りにして
そしてその直後、無数の触手がまた
それぞれの触手が互い違いに立体的に、滅茶苦茶に交差し、隙間らしい隙間は無い。
内側に居続けたら跡形も無かっただろう。
「……そうかそうか。カラダ動かすのしんどくて、そのゲートと触手の合わせ技を多用してんのね」
「――ってことは、
言いながら、離脱のワンキックに使ったのと逆の、左足をカカト落としのように振り下ろす。
数キロメートルを1回のキックで移動するワンキックの、その要となるのは
移動に使用する時は、周囲を破壊しないように分散のさせ方にまで気を使っているが、そんなことを一切考えずただ暴力的に、何かにぶつけたら――それは、それだけで兵器と化す。
カカトを振り下ろすと同時に、膨大で莫大で甚大な量の
ズウン、という鈍い鳴動とともに、黒いワープゲートの中へ引き返そうとしていた触手が全て、叩き潰されて、引きちぎられて、爆散した。
ぎ、ぎいいいいい……ぎぎぎぎいいい
「うっ……そ」
何だかよく分からなかったが、今の攻撃が
桁違いにも程がある。
黄金世代の中でもトップクラスの攻撃性能を誇る
「ごめんな、
「怖がっている……」
嫌なことを思い出したような。
忘れていたことを思い出してしまったような。
直視するのを避けていた、根源的な恐怖を思い出したような。
「
巨大なイカ型の空魚――コウテイイカと、クジラ型の空魚――イザヨイクジラ。
この2種は生息する海域や水深などが近く、お互いに縄張り意識も強いので出会うと必然、殺し合いになる。
しかし実は、イザヨイクジラが一方的に捕食を目的として縄張りを侵し襲っていて、コウテイイカはそれに抵抗しているだけらしかった。
イザヨイクジラはその凶暴性や獰猛性で危険性空魚に指定されているのも、それを裏付ける。
逆にコウテイイカは、
つまりコウテイイカにとっての天敵が、イザヨイクジラということ。
「その蹂躙の記憶……思い出すといい」
原始の記憶に刻まれた恐怖。
捕食者が、捕食者に成る前の記憶。
あらゆる生物は自分にとっての天敵を、生まれた時から認識しているが、それは遺伝子情報にその記憶が刻まれているからだと言われている。
――『
電話口で
匂いを操る――と言っても、香りで良い気分にさせたり、ちょっと眠くさせるとか、そんな甘ったるい効果じゃない。
危機回避の頂点的な『
そのメイン効果は、匂いによって記憶を呼び起こさせること。
ある花や草木の香りを嗅いで、その季節にまつわる記憶が蘇ったり、食べ物の匂いから幼少期の体験を思い出したり……
嗅覚が脳に直結している感覚器ということもあり、人の感覚の中で最も記憶と結び付きが強く、過去の経験や記憶を思い起こさせるチカラがある。
思い起こされる記憶は、良いものもあれば悪いものもある。
――匂いによる記憶や感情の想起と同時に、もう1つ着目すべきは、生き物自身が発する匂い。
例えば、生き物は強い不快感を抱くと、分泌される皮膚ガスの性質が変わってストレス臭と呼ばれる匂いを発生する……のは知っているよね
そんで、その匂いを嗅いだ相手も同様のストレスを感じることもあるって、アンタの空魚の研究でも言ってたか――
――原因となるストレスによって発生する匂いもちょっとずつ変わるんだ。恐怖なら恐怖の匂い、憤りなら憤りの匂い、ってね。
……いや、ウチには分からないよ?
聞いてもいないことまで勝手に答える。
――それらの匂いを再現して、記憶や感情に直結する嗅覚に作用し、強制的に追体験させるのが『
次の言葉を聞いて、
――これだけ聞くと攻撃性なんて無いように思えるよな。ふふ……だが実はある。えげつない攻撃性が。
傷を負うことも外的ストレスの一種ならば、その時にもストレス臭が出る。
その匂いを
生き物は、ただ普通に生きているだけでもそれ相応に傷を負うものだ。当然、人も。
人生は無傷では居られない。
ドアに指を挟んだ。
ナイフで指を切った。
熱湯で火傷をした。
殴られた。
階段で足首を捻挫した。
高いところから落ちて骨折した。
交通事故にあった。
年齢によるだろうが誰しも大小様々な傷を負って生きてきている。
幸いにもそれらの傷で命を落とすことはなく、完治していたとして……もしそれをもう一度、一気に体験させられたら……その痛みは想像を絶するだろう。
『
――でも、一般的な危険性空魚や敵を相手にするならこのレベルでも十分やれんだけど、
「確かに……この
このくらいでいける。これで十分。
そんな想定が全くハマらないから『空想』と冠されるのだ。
想像しうる想定外を全て5割り増しで想定しても、それでも足りないかも知れない。
『十分な効果が見込める』では全くもって不十分。十二分な効果を求めなくては足元をすくわれる。
だから
――遺伝子情報レベルの深い記憶を掘り起こす匂いなんて、普通に考えりゃ実現不可能だろう?
ウチですらバカげてると思うよ。たがそれをやってのけるのが、
――発動に条件は有るし、時間もかかる大技だが……今なら多分、いけるだろ。
どういう行動を起こした時に、どんな匂いを出すのか。どんなストレスを受けた時、どんな匂いを出すのか。
そこで得た情報から
その前後の匂いの差を情報として蓄積しつつ、また新たな匂いを
これを繰り返し、突き詰めて、煮詰めて……どんな匂いによってどんな変化を起こすのかを細かく分析して、感情や思考の奥深くまで入り込んでいく。
そうして遺伝子情報に刻まれた太古の記憶――祖先達の記憶レベルに作用する匂いの構成を割り出していた。
「
気付けば
「……さようならだ。
青白い蝶が、滑らかに
キラキラと鱗粉ようなものを撒き散らしながら。
その鱗粉に触れると、
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