第2話 十と七つの、その夜に
リューリュは釜炊き処のおんなたちに抜けることをわび、サヨに昼のまかないのことを少し相談してから、支度部屋に走った。急いで身なりを整える。
といってもよそゆきの服があるわけでもなく、灰で汚れた作業衣を取り換え、顔をぬぐった程度である。
ふろたきが浴室で仕事をするのは、珍しいことではない。この屋敷ではとくに専任の垢すりを置いていないから、必要に応じてふろたきなり、裏づとめのものがそれを担う。いちばん多いのは、仕事の怪我でうしろに腕がまわらないものの背中を流す、といった場合だ。
ただ、おとこ風呂だけでなく、おんな風呂にしても、年季のはいった上位の釜炊きのものが任にあたることが多い。なにかの間違いがあっては困るということだろう。
だから、リューリュはあまり風呂のなかで仕事をしたことがない。手順を知らないわけではないが、果たして上手にこなせるのかは自信がない。
まして、相手は、奥仕えの長、高位
そもそも、鬼族が、裏の方に立ちいることなどほとんどない。用事があれば、仲づとめのものに伝言させるのが通常だ。まして、裏づとめのものの風呂にはいろうとするなど、聞いたことがなかった。
やはり、昨日のことで、なにかあるのだろうか……なにか、不手際をしてしまったのか、あるいは……あるいは、口封じ、で……。
リューリュは想像力がゆたかだったから、いま彼女のあたまのなかにはありとあらゆる災厄が渦巻いている。もっと念入りに、サヨに別れをつげておくべきだったかと、泣きそうな思いになっている。
廊下を走り、風呂部屋へはいり、浴室の戸口のまえに立つ。奥からは供をつれてきていないらしく、脱衣処にはだれもいない。浴室に、声をかける。
「……リューリュでございます。おめしにより、まかりこしました」
「はいってくれ」
なかから、すぐにこたえが返ってきた。
扉を開け、蒸気を逃さぬようにすぐに閉める。
ひろい浴場の右側には、空間の半分ほどをしめる、おおきな浴槽。三十人がいちどに風呂浴びができるようになっている。左側には、流し場。
その流し場、濃い湯気のむこうに、細身のおんなの、後ろ姿があった。頭の上に無造作にまとめられた髪は、湯気のなかでもそれとわかるほど艶やかな白銀にかがやいている。
ジゼクは、浴室用のちいさな床几にすわり、自分で、うでなどを流していた。
「急にすまない。仕事中だったのだろう」
「いえ、これも大事なお役目です……失礼いたします」
リューリュは滑らぬよう気を遣いながら走り寄り、桶に湯を汲んで、ジゼクの背にまわり、ゆっくりと肩へかけまわす。結んだ髪をいちど解き、備えられている香油を、頭頂部にやわらかく注ぐ。
両手のゆびを左右の耳の上にいれ、いったん前に滑らせてから、頭頂部へはしらせる。そのまま指の間に髪をおさめ、長い髪のなかばまで、手櫛をする。緩急をつけてなんどかその動作を繰り返す。ときおり、頭皮を掻くように、刺激を加える。
ジゼクは気持ちよさそうに、されるに任せていた。
湯をとり、顔にかからぬように気をつけながら、頭頂から流す。左の指先をまるめて後頭部に当て、左右に細かく振るようにして、徐々に下ろしていく。これもなんどか繰り返し、香油がすっかりおちたころ、そのまま背中まで手のひらを滑らせ、
「……雪灯花。そなたは、見たことがあるのか」
やおら問われ、リューリュはいちど、手をとめた。
「いいえ、存じ上げません……ただ、祖母からおしえられた歌に、その花の名があったのみでございます」
「だろうな……学者たちにも聞いてみたが、そんな花は、いにしえにも存在しなかったらしい。つまり、架空の花の名だ」
「……」
「では、当家に伝わるうたを知っていたか」
「申し訳ございません、不勉強にて」
「いや、一部の重臣しか知らないはずなのだ。呪いのうた、と言われている」
呪い、ときいて、リューリュの手がふたたび止まった。
ジゼクはしばらくリューリュの反応をみるように黙っていたが、やがて、ゆっくりと声をつないだ。
「……
「……せっとうか……」
リューリュが思わず小さく呟くと、ジゼクは振り返り、鋭く紅い瞳を彼女にむけた。リューリュが怯えて身を引くと、はっとしてすぐに目を逸らし、前をむいた。
「そうだ。雪灯花。架空の花の名が、そなたのうたにも、呪いのうたにも、現れる。偶然とは思えない。だから昨日、侍従からそのことを聞いて、わたしがそなたを呼ばせたのだ」
「……」
「呪いのうたは、この家でうまれる、いちばんちからが強い姫に災いをもたらすと、昔から伝えられてきた。そして
鬼族のちからは、ものと心の両方に作用する、影響力である。ものが動く方向、慣性を、わずかにずらす。あるいは、心をつかみ、幻惑し、あらぬものを見せたりもできた。
ごく小さなちからだったが、訓練をつんだ鬼族がそれらをうまく積み重ねれば、いくさの先行きすら変更することができた。まつりごとを支配することも、難しくはなかった。
鬼鏡姫は、いにしえの鬼族、その発祥のころに等しいような、きわめて強いちからを秘めて生まれたと言われていた。もっとも、そのつよさ、威力はいまだ発現しておらず、博士たちにより見出されたものである。
ただし、その威力を発現させることは、許されない。
かつて、鬼とひとが争った世を、ふたたび招来することになるからだ。
「……姫は幼いころから、丈夫なお身体ではなかった。ことしに入って、なおのこと、体調をお悪くされた。そして昨日、十七の誕生日をお迎えになる朝から、おいのちすら危ぶまれる状況になった」
「……」
「呪いのうたがあったから、十七のとしに何かあると思っていた。だから事前にいろいろ備えたのだが、およばなかった。雪灯花、というのがなにかの鍵になるとみていたが、なんのことだかわからなかった。まさか、他のうたを呼ぶ鍵だったとは」
リューリュは、だまって聴きながら、ジゼクの背中をこすり続けている。こすりすぎ、少し赤くなったのをみつけて、あわてて手をとめた。
「さ、さいごに、お湯に入られてから、仕上げをさせていただきます」
「いや、もう十分よくしてもらったよ。ありがとう。気持ちよかった」
リューリュがあわてて湯を汲み、立ち上がったジゼクの背にかける。ふところに収めていた清潔な布で、背とまえをふく。ジゼクは背がたかい。リューリュの目は、ちょうど、ジゼクの首の下あたりにある。
目線に困りながら布をつかうリューリュに、ジゼクは声をかけた。紅い瞳が、笑っているように見えた。
「のちほど、わたしの部屋に来てほしい。夕餉のあとがいい。釜炊きの長にはそのむね言い含めておく」
「は、はい」
ジゼクが歩き出したので、リューリュはいそいで戸口にゆき、扉をあけた。頷きながらジゼクは浴室を出る。ついていこうとすると、ジゼクは手を振って断った。
「そなたも汗をかいたろう。流していけばいい。わたしの指示だと伝えておく」
リューリュは驚いたが、閉まる扉のまえで、ぴょこんと頭を下げた。
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