ふろたき女と、鬼の姫

壱単位

プロローグ ふろたき女と、鬼の姫


 「シュンゴウ、もげる、腕、抜ける……!」


 リューリュの腕はほそい。なんとか脚をはしらせているが、シュンゴウが手を引くちからがあまりに強いのだ。痛くてたまらない。ちょっと待って、ということばのまえに、もげる、が口をついて出た。


 この屋敷は広大だから、リューリュの職場である裏方から奥座敷までは、ずいぶん距離があった。もう、百をかぞえるあいだくらいは、リューリュは全力疾走をしているのだ。


 もはや、廊下ですらない。部屋から部屋へ、襖をたたきつけるように開け放ち、あるいはじっさいにたたき伏せ、シュンゴウは、最短距離をゆく。


 部屋には、もちろん屋敷住まいの鬼族きぞくがいる。もう、夕餉がすんでずいぶん経つ時刻だ。のんびり茶をたてて寛いでいるものがおおい。いきなり自室の襖を蹴りとばされて、目をまるくする、屋敷の住人たち。


 シュンゴウはそれらを皆目気にせず、かるく、御免! と声をかけて突き進む。ついていくリューリュが、どういう顔をつくっていいかわからないまま、ぴょこんと頭をさげる。


 二十個ほどの部屋を過ぎて、やがてながい、たくさんの飾りがさげられた廊下のむこうに、黄金に設えられた扉がみえた。


 そこではじめて、シュンゴウが立ち止まる。リューリュは膝に手を当て、ようやく息をついた。


 「……ど、どういう、こと……なんで、わたしが」


 すこし赤みがかった黒髪を、無造作にうしろで結んでいる。この屋敷の主であるヨギリの象徴、蒼紫にそめられた作業衣は、屋敷の下働きのものが共有するものだから、小柄なリューリュにはすこし大き過ぎ、腹で結んでいる紐の上下がだぶついている。


 この地方ではめずらしい、真っ黒な、深い色の瞳。それをシュンゴウに責めるようにむけて、眉をよせ、ふう、と息を吐いた。


 「……ごめん、痛かったか?」


 「いたかった! それにここ、奥座敷だよね。わたし、お手打ちにされるようなこと、した?」


 リューリュがそういうのも無理はない。奥座敷は、ヨギリの家中、鬼族のなかでも上位のものだけが立ち入ることを許される、きわめて神聖な領域だった。ましてや、下賤のにんげんごときが、足を踏み入れてよい場所ではない。


 ここににんげんが連れて来られる時は、不始末で、手打ちにされるとき。常識に基づいて考えれば、そしてリューリュほどに思慮がまわるものならば、そうした結論にいたることは不自然ではない。


 が、この奥座敷に立ち入れる、数少ないにんげんのひとり、武者房づとめのさむらい、シュンゴウは、リューリュよりあたま二つ分も高い背をまるめ、率直に詫びた。


「すまん。ときがなかった。いまからこの奥に入る。説明の時間もない。いや……ほんとは、俺にもよくわからない」


 「……?」


 痛む腕をこすりながら、リューリュは、幼なじみの、見慣れた太い眉をみあげた。シュンゴウとリューリュがこの屋敷に召し上げられてから、もう二年ちかくなるが、こうして面とむかうことはほとんどなかった。


 「姫さまの……鬼鏡ききょう姫さまの、お具合が、わるいのだ」


 屋敷のものなら、当主ヨギリの娘、一族の次代をになう鬼鏡姫が、壮健なうまれでないことはもちろん知っている。日々、医師くすしがでいりするのを、だれもが見ている。


 が、じっさいにどんな様子であるのか、リューリュのような裏づとめのものにまでそのことが伝わることはなかったし、正直なところ、そう関心もたかくはなかった。


 なにより、そのことと自分との接点が、リューリュにはのみこめない。


 「それが、わたしと、なんの関係が……」


 「だからっ、俺にも、よくわからないんだって……!」


 シュンゴウは大きな声をあげかけ、慌てて口をおさえた。


 「ただ、姫さまの侍従と立ち話をしたときに、リューリュの話がでたんだ」


 「えっ、なんでそこで、わたしの……」


 「侍従たち、不思議なことを言ってたんだ。せっとうかの、つぼみが……なんだったかな、おちるころ、おちたら、ひめが何とか」


 それをきいて、リューリュの顔色がかわった。


 「え……それって……」


 「ああ。お前がむかしから口ずさんでいた、わらべ歌に似てるだろ。だから」


 「……おばあさまの歌。どうして、お屋敷のかたが」


 そのとき、奥の部屋、黄金の扉のむこうから、声がした。


 うめきごえ。あわせて、いく人かが早口でなにかを言い合う声。


 「いかん。ときがない、いくぞ!」


 シュンゴウは、細身ながらよく鍛えられた腕で、ふたたびリューリュの手首をつかんだ。


 「ちょ、まって……」


 いうまもなく、ばん、と音を立てて、扉をあける。見た目ほどには重くはなさそうな黄金のたてつけが、左右にたたきつけられる。


 広い室内。


 左右に、鬼族の重臣たちが、十人ほど。その奥には白い医服を身につけたものが数人。さらに奥、向かいの壁におおきく掲げられた、ヨギリの国の、国章のした。


 薄く開けられた障子から差し込む月明かりをうけて、鬼鏡姫が、横たえられている。


 いや、横たえられているという、なまなかの状況ではなかった。背を仰け反らせ、苦悶し、嗚咽している。がんらい抜けるほどにしろい鬼族の肌だが、いま彼女のそれは、病的にいろを失っている。


 こわれものに触れるように、その父、当主ヨギリが、姫のほほに手を当てている。その名をつげるだけで戦意を失わしめるという、鬼族の歴史の中でももっとも高い武名を誇るそのおとこは、いまはただ、娘のきえゆくいのちに怯える、ひとりの父でしかない。


 走り込んだシュンゴウとリューリュを、その場のすべてのものが、見据えた。


 「む、武者房の、シュンゴウでございます……! おめしにより、リューリュ、ふろたきのリューリュを、連れてまいりました!」


 ばん、と手をついてひざまづくシュンゴウ。リューリュは、流儀がわからないから、しばし迷い、シュンゴウの真似をした。


 鬼族の部屋、ましてやその最奥部である。過去に踏み入ったことのあるにんげんが、何人いたか。鼻のきく鬼族である。部屋のそとに立っただけでも、くさい、と追い払われるはずだった。


 だがリューリュは、その事実に気押されるより、この室内のあらゆるものに、目を奪われている。こんな場合であるのに、こころを、踊らせていた。


 豪奢な装飾、積まれた書物、読み取ることもできない呪の掛け軸、森林資源にめぐまれた彼女の里でもみかけない種類の壁材、床材。飾られた花、たきしめれた香。全てが、彼女の好奇心をつかみ、はなさなかった。


 だから、シュンゴウに肩を小突かれるまで、鬼族のひとりが自分に話しかけていることに気が付かなかった。あわてて、ふかく、頭を下げる。


 「……ふろたき、というたか」


 姫の足元にひかえていた、長い銀髪を引き結んだ長身の女性が、声をだした。年の頃は、にんげんでいえば、三十とすこしか。強くはないが、よく響く、知恵のふかさを感じさせる声だとリューリュは感じた。


 「はい、おととしよりお世話になってございます、ひと族の、リューリュと申します」


 「そこに侍る、にんげんの武者より、きいた。そなたが……」


 そういい、横の重臣たち、そしてヨギリの顔をみる。ヨギリは、頷いた。


 「……そなたが、雪灯花のうたを歌っていた、と」


 せっとうか、という言葉をきいて、リューリュはちいさく動いた。


 「……はい。わたくしの祖母から習った、わらべうたにて、ございます」


 「わらべ、うた、か……いま、歌えるのか」


 「は、はい、うろおぼえにて、たしかかは、わかりかねますが……」


 「かまわぬ。うとうてみよ……いや、少し待て。侍医らよ、すぐ用意はできるのか」


 横を向き、控えている白い医服の鬼族たちに声をかける。


 「は。お屋敷のすべてのくすりが、ここにあります、ジゼクさま」


 女性の名は、リューリュもしっていた。屋敷の奥向きのことを取り仕切る、側詰めの長、ジゼク。自身も有数の名家の出身だが、どんな故があってか、いまはこの家に忠義をちかっているときく。


 そのジゼクが、リューリュの目を、しかと見据えた。


 鬼族特有の、紅くひかる瞳が、リューリュをつらぬく。


 と、鬼鏡姫が、うめいた。身を捩り、背を浮かせ、目を見開く。


 「いかん。侍医、みずを当てよ……リューリュとやら。こちらへ」


 ジゼクが、リューリュのほうへ手を伸ばす。首をあげ、ためらい、リューリュは横のシュンゴウに助けを求めた。が、シュンゴウも、こんなときにふさわしい振る舞いのこたえを持ち合わせていない。


 「なにをしている、さあ、はよう」


 「は、はいっ!」


 跳ね上がるように立ち上がり、リューリュは、まえに歩みでる。


 姫をかこむようにしていた重臣、従医たちが、にじって道をあける。


 リューリュの目の前。


 汗に濡れた、もえるような色の髪。額に濡らした布を巻き、病人が身につける白の麻の服をまとい、高熱に耐えている、鬼の姫。


 鬼鏡は、薄目をあけ、枕元にたつリューリュをわずかにみあげたが、またすぐに、意識を失った。


 「リューリュ」


 ジゼクの声。つよい蠱惑のちからを持つ鬼鏡姫が、無意識に縛ったリューリュのこころが、その声で解放された。


 リューリュはひゅっと息を吸い、吐いた。ジゼクを見る。頷いたのを確認して、ためらいながら、声をだした。


 「……ふたつのつきの、あわさるよいの、はるののの、せっとうかさく、はるの、のの……」


 月明かりが、ふいに増したように、この部屋のすべてのものが感じた。


 

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