揺れる前兆

そうざ

Swaying Omen

 夕陽の眩しさに軽い眩暈を覚え、私は思わず眼前に手を翳した。高台の住宅街へと続く坂道の途中、西の空が禍々まがまがしくグラデーションしている。半月程、研究室に泊り込み、その間はほとんど外出しなかったから、久し振りの空だ。 

 全身が倦怠に沈んでいる。我ながら、根を詰めると際限がない。その癖、投じた熱意と成果とはまるで比例しない。質量は保存されるというのに、エントロピーは増大し続けるというのに、現実はままならない。好きでなければとても続かない仕事だ。

 若い研究者は何かと要領が良い。いつも定時に退勤し、プライベートを謳歌しているようだ。独り身であれば、何かと誘惑が多いだろう。

 院生同士で学生結婚をした当初から、私と妻とは付かず離れずの関係だった。妻があっさりと職を捨てて家庭に入ったのは意外だったが、そのお陰で私は心置きなく研究に没頭する好都合な日々を続けられている。

 眩暈を追いやり、ゆっくりと瞼を開ける。

 指の間から異様な視界が広がった。

 坂の向こうに、ほぼ真っ直ぐ伸び上がる一筋の雲。僅かにくねり、まるで昇天する竜のようだった。

 地震が発生する前に現れるという、そしてその科学的根拠には議論の余地がある地震雲だが、地震予知を研究テーマにする者としては、一笑に付して片付けられない。

 そもそも地震予知は不可能と断言する研究者も居る。が、古今東西、様々な前兆現象が報告されているのは事実で、その中から何かしらの根拠を見出せれば、未来の悲劇を防ぐ事が出来る。あらゆる現象には、必ず何かしらの前兆が存在する。問題は、それに逸早く気付けるかどうかなのだ。

 飼育している鯰に変調がないかどうかが気になる。妻に電話をする。コール音ばかりで出る気配はない。そう言えば、今日帰る事を伝えていなかった。趣味で習い事を始めたとか何とか、聞いたような気もする。

 西の空がその色合いを一層深め、何故か血を連想させた。不定形な予感が地震雲のように天を貫く。

 私は家路を急いだ。


 築年数を経た一軒家がシルエットに沈もうとしている。どの部屋にも明かりが灯っていない。玄関には鍵が掛かっている。矢張り留守なのか。

 居間に入ると、ダイニングテーブルに妻の携帯電話が無造作に置かれていた。着信履歴を確認しようとした時、水槽の底で鯰が腹を見せている事に気付いた。生臭い異臭が鼻を突く。

 カタ、カタカタ――キャビネットのガラス戸が小刻みに微動している。

 この家は現在の耐震基準を満たしていない。いざという時の為にリフォームをとは思いつつ、家庭の事は全て妻に任せてしまっている。

 また眩暈なのか、視界が揺れた。

 断続的に続くきしみの音に導かれ、ふらふらと階段を上った。薄い一枚扉の向こうは、久しく使っていない夫婦の寝室だ。

 聞き覚えのある二つの声が息を弾ませている。

 ――あの人は地震の事しか頭にないんだから――

 ――そのお陰でいつでも浮気が出来るんだから、むしろ感謝しなくちゃ――

 あらゆる現象には、必ず何かしらの前兆が存在する。問題は、それに逸早く気付けるかどうかなのだ。

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