第三話 誰そ彼
少し幼く可愛らしい顔立ちに、大きな瞳と透き通る肌。黒曜石のように滑らかな髪は光に当たると煌めいて輝きます。
中学校の卒業式が終わった直後。
「母親が倒れた」と聞き、担任だった教師と一緒にたちばな病院に駆けつけました。
入院病棟は、薬と微かな排泄物の臭いがします。部屋番号を見ながら廊下を進む教師を、夕は静かに追いました。リュックの肩紐を強く握る手は震えています。
「病室、ここか」
廊下の端の一室。教師は部屋番号を何度も確認していました。
「大丈夫か?」と夕は尋ねられますが、返事をできずにいました。教師は夕の肩をさすり、落ち着くように働きかけます。
「はい……」
精一杯絞り出した声はかすかに震え、カラカラに乾いています。夕が頷くと、担任は扉をノックしました。
「どうぞ」
中から母親の声が返ってくると、担任は扉を引きました。
「失礼します。紫泉中の田中です」
「あっすみませんわざわざ」
四床ある大部屋で、窓側のベッドに母親はいました。立ち上がって挨拶しようとしますが、ふらついて上手く立てません。
「ああ無理せんでください」
教師が駆け寄って支えます。夕は足が竦み、見ていることしかできない様子です。
「萩野、ここ座り」
担任が丸椅子をベッドの横に置いて、夕に座るように促しました。
「俺談話室居るけ、ゆっくり話し」
そう言って、担任は病室を出ていきました。
二人きりになり、しんと静まります。外を歩く人の話し声と、薬の匂いだけが病室を満たしてます。
「母さん……」
斜めに固定されたベッドの上、母親はげっそりやつれていました。昨晩、夜勤に行くのを見送ってから半日も経っていないのに随分小さく見えます。
夕は丸椅子にへたりと座ります。生唾を飲み込み、やっと目の前の状況を理解すると、たちまち顔が青くなりました。動悸が激しくなります。
「……倒れたって、なんで」
「過労だって。一泊入院せんといけんわ。無理とかしすぎちょったかもしれんね」
母親は弱く笑いました。笑って、それから優しく言いました。
「心配かけてごめんね。今日卒業式だったよね?」
夕は、膝の上で両手を強く握りしめています。
「うん……終わって学校残っとった、から……」
涙が溢れないように、下唇を噛んで必死に耐えていました。
「夕?」
ぽたり、と涙が一粒落ちました。
「……っ……うぁぁっぁー」
堰を切ったように声を上げて泣きました。その様子に母親は驚き、急いで夕を抱き締めます。
「大丈夫、大丈夫だけん」
夕も母親の背中に腕を回して、しっかり抱き返しました。
「母さんっ……よかった……俺っ……」
「うん」
「俺……母さんがいなくなったら……」
「うん」
「よかった……ほんとに……」
「……うん」
「うー……っ」
夕の手は冷たく震えています。母親は薄い入院着から伝わる体温に気付き、夕の両手を柔らかく包みました。優しく揉んで温めます。
両手から温もりがじわじわと染みていき、夕は体の強張りが解けていきます。すんっと鼻を啜って、はぁーと大きく息を吐きます。
「母さんが無理しとるの知ってたのに……もっとできることあったはずなのに……」
母親はううん、と首を振りました。
「夕はいつも頑張ってくれちょるよ。すーごい助かっとる!」
「でも……これから働いて、もっと頑張るから」
夕の通う紫泉中学校は中高一貫校です。本来なら卒業後も同じ敷地内にある紫泉高校に通います。しかし夕は進学せずに働く道を選びました。これまで女手一つで育ててくれた母親の姿は、夕自身がよく知っています。
「ありがとう……母さん嬉しいけど、頑張りすぎんようにね」
二人は手を握ったまま、どちらからともなく目を合わせ、微笑みました。
「うん。母さんも、今日はちゃんと休んで」
「分かっちょる……卒業式、出れんくてごめんね」
「ううん」
「卒業証書もらった?」
「うん」
夕はリュックから卒業証書の入った筒を出し、証書を広げました。
「夕も卒業かー……お祝いせんとね。欲しい物とかある?」
「ううん、いらない」
「そう?」
「うん」
穏やかな家族の時間が流れます。
「夕、心配なこととか不安なことない?」
「俺は……無いよ」
答えた夕ですが、そういえば、と首を傾げました。
「いつも誰かに見られてる感じ、がするかも?」
「あらまたストーカーかね? 警察とかに相談しちょく?」
母親が心配そうな顔をしていることに気付き、夕は慌てて答えました。
「ただの勘違いかもしれないし、いいよ」
これ以上心労を掛けないように、夕は努めて笑顔でいました。
「防犯ブザー持っとくんよ。なにがあるか分からんけんね」
「大丈夫。ちゃんと入れてるよ」
それでも不安な顔をする心配性な母親に、夕はリュックから防犯ブザーを取り出して見せました。
その時突然、ノックもなしに病室の扉が開けられました。母親と夕は同時に扉を見ます。
無言で入ってきたのはスーツベストを着た背の高い男です。真っ黒の髪は不気味に滑っています。
開け放たれた扉から自動販売機の駆動音が聞こえてきます。どこかの病室からピーピーと機械音が鳴ると、看護師が慌てる声がしました。
男は母親のベッドに近付いてきて、すれ違いざまに鋭い目つきで夕を睨みつけます。夕は咄嗟に防犯ブザーを握りしめました。
男は不機嫌そうに、刺すように母親を見下ろしました。母親は男の顔を見ずに言います。
「出ていって」
「見舞金を振り込みました」
男は母親の言葉など意に介さず言います。
道路を走る車が大きな長いクラクションを鳴らし、電線に留まったカラスが一斉に喚きました。
夕は一層手に力を込めます。
「いらないって言ってるでしょ! 出ていって!」
母親が声を荒げました。これまで聞いたこともない怯えた声です。
男の暗い目は、鬼のように吊り上がりました。
「クソが……」
男は奥歯をギリリと鳴らし、脅すようにさらに声を低くしました。
「他言無用でお願いします」
草を燃やしたような煙たい不快臭が病室に漂います。
母親が恐る恐る頷くのを確認すると男は病室を出ていきました。男が消え、夕はやっとまともな呼吸に戻ります。
振り返ると、母親は今にも泣き出しそうな表情をしています。母親は、縋り付くように夕をぎゅうっと力強く抱きしめました。
「母さん、痛いよ」
「夕、夕。母さんは夕が一番大事。何があっても絶対守るけんね」
「……うん」
改めて言葉にされた思いに、夕は弱く背中を抱き返しました。
「母さん……さっきの人、さ……」
夕は、珍しく言葉を詰まらせています。
「えっと、もしかして父さん……とか?」
母親は目を合わせないまま、苦々しそうに答えました。
「……ごめんね」
母親はそう言うしかありませんでした。
しばらくお互いに黙った後、母親は弱く優しく笑いました。
「これ渡しちょくわ」
誤魔化そうとしているのは明らかで、夕は「母さん?」とも言葉を返せません。母親は鞄から通帳を一冊取り出し、夕に渡しました。何かを決意したように声色が一段暗くなります。
「夕の好きにしていいけんね」
感情が虚ろで淀んだ声です。夕は渡された通帳を開きました。明細に書かれている文字は一つだけ。
『ヨウイクヒ』
毎月決まった日に振り込まれています。それも、二人が生活するのに充分すぎるほどの金額です。この通帳の存在も、意味不明のヨウイクヒも、母親から一度も聞いたことがありません。
「こんな大金……どういうお金?」
「今までの全部入っちょるけん」
母親の言葉に、夕は違和感を感じました。夕の分からないことがあると、いつも理解できるまで説明してくれます。
「どういうこと?」
夕は動揺しています。この感触は『父親のこと』を聞いた時以来です。
「説明もしてあげられんけんね……」
信頼されていない訳でもなく、子供扱いされている訳でもないようです。夕が戸惑っている間に、母親は鞄から『緊急用』と書かれた封筒を取り出して破りました。
「美夜に行く言っちょったよね?」
『美夜』は、たちばな商店街にある美容院です。
「商店街のお菓子屋さんで二千円ぐらいのお菓子とかあるけん、就職の挨拶に持っていくんよ」
母親は封筒から二千円を出し、三つ折りにして両手で夕に渡しました。
「はい、お菓子代ね」
「うん……ありがとう」
夕は戸惑いながらも両手で受け取り、すぐに財布に仕舞います。話したがらない母親に、夕は何も聞くことができずに時間が過ぎていきます。
そのうちに、扉がノックされ看護師が入ってきました。
「面会時間終了です。萩野さんお加減どうですか? ちょっと顔色悪いですね」
看護師に言われて、夕は、母親の顔色が青白くなっていることにやっと気付きました。今はなによりも母親の回復が最優先です。
夕は丸椅子から立ち上がり、リュックを背負いました。
夕は病室をあとにし、教師の車で家に送り届けられました。
たちばな市の中心にある住宅地。十四年前に建設された『木更城ビル』のせいで一日中影になり、多くの住民が退去し賃料が暴落したエリアです。入り組んだ生活道路の奥にひっそりと存在する古いアパートの十一畳に、夕と母親は住んでいます。
夕は玄関のドアを開ける前、何度もキョロキョロ見回していました。周りをしきりに気にしています。
『誰かに見られてる感じがする』
もしかしてさっきの男かもしれません。ずっと見張っていて、夕を付けていて、だから病院に来たのです。まったく嫌な男です。
家の中に入ると嫌な寒気がしました。食器がカタカタ鳴り、天井が軋み、家の前を通る足音が大きな地響きに聞こえます。
「なに……?」
夕は足の力が抜けたようで、畳の上にへたり込みます。
男が嫌がらせしているのです。電灯がチカチカ点滅し、冷蔵庫に貼ってある磁石がひとりでに落下します。棚の上の写真立てがガシャンと大きな音を立てて倒れました。
夕は両手を握りしめてうずくまりました。
「お願い……やめて」
ぎゅっと目を閉じています。すると、奇怪な現象はすぐに止みました。
夕はしばらく丸まったままでしたが、やがて「はーっ」と大きく息を吐きました。
手をついて立ち上がり、電灯から垂れ下がる紐を何度か引っ張ると正常に点きます。磁石を付け、写真立ても直します。この写真は、母親が「家族集合だね」と嬉しそうに飾っていた小学校の運動会の時のものです。
立て直すとガラスが割れていることに気付き、夕は裏の金具を外しました。裏板を抜き取ると、もう一枚写真が入っていました。
モノクロで扇型の、全体的に黒く怪しげな生命体のようです。
「これ、保健で見たやつだ……」
教科書で見たエコー画像です。裏面を返すと母親の字で『茜十六週』と書かれています。
通帳に入っていた多額のヨウイクヒは、日付を遡ると十七年前から振り込まれていました。
「あのお金、この子だ……」
残っているのがエコー画像だけなら、もうこの『茜』はいません。
あのお金を生活費に回せば、母親が身体を壊すほど働かなくても生活できます。家賃が高くても、今よりもっと良い家に住めます。
それなのに、あのお金を使わないのはなぜでしょう。
そもそもヨウイクヒはどこから、誰から振り込まれているのでしょうか。
母親が話そうとしない父親とヨウイクヒ。ふたつは繋がっているのかもしれません。
「俺、なんにも知らなかった……」
夕は、エコー画像を写真と一緒にちゃぶ台に置きました。やるべきことが明確になると、やっと指先の震えが止まりました。
夕は外に出ました。まずはたちばな商店街の贈答品店で箱入りのゼリーを買いました。落とさないように、大きな紙袋を両手で抱え直します。
店を出るとそのままアーケード内を進みます。白い花が描かれたガーランドが一定間隔で頭上に並んでいます。
アーケードのちょうど中央にある店に来ました。アンティークなドアの上に掲げられた看板には綺麗な文字で『ビューティーサロン美夜』と書かれています。ドアを中央にして左側はガラス、右側は黒い焼杉板が貼られています。板壁には、市長『木更城源五郎』のポスターが一枚貼られていました。
夕がドアを開けると、木のドアベルがカロコロカロと気持ちよく鳴りました。
「深夜さん、こんにちは」
「おう、夕君」
夕に気付き、レジカウンターの男性が振り向きました。
男性はこの美容院の店長です。以前から親しくしており、進路の相談をしたところ、夕がこの店で働けるように取り計らってくれました。
「これ挨拶です」
夕は買ったばかりのゼリーを差し出しました。
「わっゼリーじゃん。わざわざよかったんにありがと!」
店長は紙袋から箱を出し、夕に返しました。
「冷蔵庫入れといて。みんなで食べような。袋借りるで」
店長はパソコンの横に置いてある綺麗に畳まれた服を紙袋に入れました。そのまま夕に渡します。
「ほい制服。四月からよろしくな」
「はい」
夕は紙袋を受け取ると、ゼリーの箱を持って店の奥、待合スペースに行きました。
待合スペースにはソファやテーブルの他、雑誌、テレビ、ゲーム、簡易冷蔵庫が置かれています。冷蔵庫を開けるとお菓子やジュースが乱雑に入っており、新顔のゼリーを入れる場所がありません。夕は仕方なく、中身を出して整理を始めました。
夕が作業していると、商店街側のドアではない、バックヤード側のドアから少年が入ってきました。ひょろりと背が高い少年は通帳を持っています。ハーフアップに束ねた黒髪と長い前髪は、弱気な顔を上手に隠します。待合スペースに居る夕をちらりと見た後、店長に話し掛けました。
「し深夜さん、聞いてもい、いい?」
「おう響夜君、ちゃんと入っとった?」
「ん、うん。ユビューティーサロンミああった。よヨウイクヒとミマイキンああった」
「養育費? ちょっと見てもいいか?」
ヨウイクヒ、ミマイキンという覚えのある単語に、夕は耳をそばだてました。
「ヨウイクヒは毎月入っとって使われとんな」
「ああの人?」
「そだろな。響夜君の母さん銀行にも行けれん状態だったじゃろ。ミマイキンは四年前に一回だけで下ろされとらんな。父さん逮捕されたけん下ろせんかったんか?」
「そういうももの?」
「んー、役所の子育て支援金はあるけど、ちゃんと『コソダテシエン』て書いてあるけん別もんかな」
「わ分からん」
「そうなー……でも俺が知らんだけで、そういう制度があるのかもしれんな。今は置いときない。調べてみるわ」
そこで、ドアベルがカロコロカロと鳴りました。
「こんにちはー」
「おうゆらちゃん、いらっしゃい。今日はカットだっけね」
「うんー。大会終わったけんー」
「了解。ごめんな響夜君、あとでな」
店長は客対応を始めました。夕は急いで冷蔵庫にゼリーを押し込め、バックヤードに戻りかけの響夜を引き止めました。
「あの、響夜さん。俺もそれ見たんです!」
響夜は肩を跳ねさせて、隈の目立つ目を大きく開きます。
「な、なに……」
「そのヨウイクヒとミマイキンっていうやつ、俺も知ってます」
「えあ、し知ってるの?」
夕はリュックから通帳を出し「これです」と見せました。
「俺ん家にも入っとったんです。こんな大金、普通じゃないですよ。それに、変な男の人も来たんです」
「お男の人?」
「そうです、響夜さんも会ったんですか? あの人誰か知っとるんですか?」
「わ分からん」
「そうですよね。絶対怪しいですよ。一緒に調べませんか?」
夕の真剣な表情に、響夜は少し後退りします。
「お置いとかんと……」
「母さん教えてくれんし、深夜さんも分からんのんですよね。だったら自分で調べんと」
夕は、真っ直ぐ響夜を見ました。
「し調べて……どどうするの?」
「家族の事は知っとく必要がありますよ。母さんが変な事に巻き込まれとったら嫌だし、ちゃんとせんと」
「し知ってもなにも……」
その言葉に、夕は口を閉じました。
「そうですけど。でも……」
夕は、はっとして何か思いついたようです。
「そうだ! 深夜さんパソコン使っていいですか?」
「いいよー」
施術中の店長が答えました。
夕は、壁際に備えてあるデスクトップパソコンを立ち上げてブラウザを開きました。『木更城源五郎』と入力してサイトにアクセスします。トップページの最下部に小さな文字で記載されている『その他のお困りごとはこちら』のバナーをクリックします。すると、簡素なメールフォームが表示されました。
『猫探し、迷子探し、買い物代行、子守り、留守番、調査、どんなことでも承ります』
短い文章と真っ白な入力欄のみの画面です。
「これ使ってみましょう」
「ななにこれ?」
「聞いたことありません? なんでも助けてくれるヒーロー」
「ひヒーロー?」
「はい。ヨウイクヒとかミマイキンのこと調べてもらうんです。『どんなことでも』って書いてあるんで、きっとやってくれますよ」
夕はフォームに依頼内容を入力して送信しました。
十七時のチャイムが鳴った頃です。また、ドアベルがカロコロカロと鳴りました。
店に入ってきたのは一人の青年です。二十代後半ぐらいで、ニットとジーンズをだらしなく着ています。
「あれ新都君じゃん、久しぶり。髪切りに来たん?」
真っ先に店長が声を掛けると、青年は答えます。
「いや依頼っすね。ああ、あの二人か」
気だるそうにあくびをしながら、パソコンを見る夕と響夜に近づいてきます。
「あー萩野夕さん?」
「……はい」
「どうも。ヒーローす」
「あっ! こんにちは萩野です」
夕はぺこりと頭を下げました。ヒーローは、またひとつ大きなあくびをして言いました。
「なんでしたっけ、怪しいお金とかなんとかって……振込詐欺すか?」
夕はリュックから通帳を出しました。開いて、ヒーローの目の前に掲げます。
「見てくださいここ、ヨウイクヒってあるじゃないですか。これとミマイキンっていうのを調べてほしいんです」
ヒーローは通帳をまじまじと見ました。
「振り込まれてるほうすか。あげるってんなら、もらっとけばいいじゃないすか」
「こんな怪しいお金貰えません!」
咄嗟に大きな声を出してしまい、店内の視線が夕に集まりました。声を抑えて続けます。
「母さんも教えてくれないんで、ホントのことが知りたいんです」
真っすぐな目で、夕はヒーローに依頼します。
「誰からのお金とか、なんのためにとか、そういうこと全部知っておきたいんです」
ヒーローは「んー」と思案し答えました。
「調べ物ならネット見たらいいんじゃないすか」
そう言われ、夕はヒーローに言われるがまま『たちばな市』『事件』と検索してみましたが、検索結果に目星そうな内容はありません。
『強盗、恐喝、暴行。匿名通報で発覚』
『市原一色氏逝去。たちばな舞の歴史に終止符』
いくつかリンクを飛んでいき、たちばな市のゴシップをまとめたページに辿り着きました。
『木更城源五郎が事件関与か? 大量の金銭を寄与し示談交渉』
「大量の金銭……でも嘘っぽい内容ですね。事件の内容もちゃんと書かれてないし」
「じ事件……」
響夜が興味深そうにパソコンを覗き込みます。
「読みましょうか? 被害者は女子中学生五人、加害者は少年四人と男性一人。主犯の大学生は逮捕されて実刑判決ってだけ書いてあります」
「それそれ。その事件す」
ヒーローはいつの間にか、ソファに寝そべってくつろいでいました。
「知っとるんですか? 教えてください」
「僕から? えー乱暴というか襲ったというか……」
なんて言ったらいいかな、と言葉を濁しながら続けます。
「その事件の示談金が、萩野さんの言ってる『ヨウイクヒ』す」
夕は、よく理解できていない顔をしていました。
「母さんがこの事件の被害者ってことですか? それじゃ木更城源五郎が加害者の親とか?」
ヒーローは視線を右に上げ、天井の角を見ながら続けました。
「木更城源五郎は加害者じゃないす。いや、広い意味で加害者とも言えるか。そういう考えだから払っていたんだろうし。実際やったのは本人じゃなくて、姉さんだけど……」
「あの!」
ヒーローのよく分からない呟きを、夕はつい遮ってしまいました。
「はっきり言ってくれて構わないので、もっと詳しく教えてください」
ヒーローは「えー」とやる気なさそうにしていましたが、
「そういうのは弟が得意なんで場所変えましょうか」
と言って、店から出ていきました。
「あの人本当にヒーローなんですかね、まさか騙された?」
夕はヒーローの背中に不満そうな顔をしながら追いかけました。
アーケードは、買い物をする地元民や観光客で賑わっています。
中央ゲートにある大型テレビでは、ローカル局の『いちテレ』が映し出されています。若い男の子アイドルグループが、たちばな商店街の飲食店を紹介していました。響夜と同年代の男の子が、もんじゃ焼きの思い出を語っています。
ヒーローは男の子と夕を交互に見て言いました。
「萩野さん、やっぱ似てますね」
「そうですか? 偶然ですよ」
「必然じゃないすか?」
ヒーローは意味深にニヤリと笑ったあと、目の前のビジネスビルを見上げます。三人はアーケードの中にある『木更城事務所』の前に居ました。
「じゃあ解決編行きますか」
夕は訝しげにヒーローを見ます。
「ここで何が分かるんですか?」
「この年になると、探偵の一人ぐらい知り合いにいるんすよ」
新都がインターフォンを押すと、機械を通して男性の声が返ってきます。
「はい。木更城事務所でございます。お名前頂戴しても宜しいでしょうか」
「あーすんません、僕なんですけど、依頼で……」
「……しばらくお待ちください」
そう言われ待っていると、ビジネススーツと眼鏡の男性が出てきました。
「お待たせ致しました。どうぞ」
ヒーローが無遠慮に事務所に入っていくのを見て、夕と響夜も縮こまりながら足を踏み入れます。
中でヒーローは、固定電話で話していました。
「あー
受話器を渡され、夕は恐る恐る耳元に近づけます。電話口の向こうはイライラしているようです。
「あの人説明下手すぎ。どこまで理解してる?」
青年の低い声が聞こえてきました。夕は響夜の体を受話器に近づけて、一緒に聞こうと促します。
「木更城源五郎がお金払ってたっていうのは分かりました」
「事件のことは?」
「乱暴って言ってましたけど……暴力事件っていうことですか?」
「ちゃんと言葉選んだんだ」
青年は一瞬嘲笑いました。
「君達にとってショッキングかもしれないけど、知りたい?」
「知りたいです。なにがあったんですか?」
「レイプ」
夕は息を飲みました。
呼吸の仕方を忘れたように、体を巡る血液が停止したように、目の前の全てが色を無くしました。
その気配を知ってか知らずか、青年は続けて言いました。
「無かったことにされたんだ」
事件が起きたのは十八年前。半グレの大学生男子らが、下校途中の女子中学生を襲った。
事の発端は一人の中学生――木更城京乃に対するいじめ。彼女は良く言えばお節介、悪く言えば向こう見ずな性格で、家柄の事もあり目立つ存在だった。
まだ幼い女子中学生からすれば、彼女は格好の標的だ。皆で示し合わせて無視し、物を盗み隠し、悪評を吹聴した。まだ罪名が付いていないだけで、やっていることは犯罪だ。
「でもそんなことで潰されるタマじゃない。それが事件の要因のひとつ」
特に彼女を毛嫌いしていたのは四人の女子グループ。
「これは想像だけど、大学生がナンパでもしてたんじゃない」
女子中学生も、大学生に言い寄られて嫌ではなかったのだろう。はっきり断らずにいれば「あと一押し」と思うのも仕方ない。中学生四人に対して大学生五人。早とちりな彼女なら、無理矢理誘っているように見えたのかもしれない。彼女は不貞を見咎め、注意したが聞き入れられず、最後には手が出てしまった。リーダー格の男を殴った。
その報復として、レイプ事件が起こった。
五人の女子中学生は心身の傷から口を閉ざし、大学生達は責任転嫁し合った。犯罪があった事は明白にも関わらず、立証は困難を極めた。
「全員、真っ白じゃない自覚はあったんでしょ。誰でも、自ら罪を告白するのは難しい」
問題はもうひとつ。当事者の中に大家の者がいた。一方は木更城家の娘、もう一方は東雲家の跡取り息子。家の名を汚すことは、会社の名を汚すことと同意。跡取りの非行が世間に露呈すれば、途端に信用は失墜する。
東雲家は当時、金融市場に進出しようとしていた市原家のコンサルタントも行っていた。そして、市原家当主――市原一色の妻の実家でもあった。たちばな市ナンバーワンの権力を持つ市原家でも、当時の状況では東雲家に忖度するしかなかった。
市原一色は苦渋の判断を迫られた。それが不幸を生み出した。
真っ当な捜査では、当事者全員に前科が付いてしまう可能性がある。
そのため、レイプ事件加害者のうちリーダー格の男一名を余罪で逮捕。たちばな市と関係の薄い一名を人身御供にすることで、関係者達の溜飲を下げた。
さらに『無理矢理でなかった』という事実を作るために、子供が出来た者から婚姻させた。
女子中学生五人は、恐怖を植え付けられた相手と暮らすことになった。黙秘権と引き換えに金を握らされて。
夕の唇は、わなわなと震えていました。
「そんなの、犯罪者を逮捕するほうが重要じゃないんですか」
「そう。『そんなの』で君達の親は人生を狂わされた」
青年の冷たい声のおかげで、夕はわずかな冷静さを保っていました。
「君達の親は貰った金使ってた?」
「俺の母さんは使ってなかったです。響夜さんのところは使ってたって……」
「そう。使ったら事件の隠蔽を受け入れたことになるから。加害者なら隠蔽したいし、被害者なら使いたくない」
夕は「そうだったんだ」と呟きましたが、受話器はその声を拾いませんでした。
「ちなみに振り込み手続きしてたのは
「あの人、やっぱり……」
青年は「あの人?」と夕の言葉を繰り返しました。
「あの人父さん……」
受話器から乾いた笑い声が聞こえてきました。
「ある意味『父さん』と呼べなくもない」
青年は笑い声を堪えるように「ふはっ」と漏らしました。
「戸籍上の夫婦なら振り込み報告なんて、その度に『いらない』なんて言う必要無い。けどそれが東雲信の復讐。自分の周り全部に対しての」
夕は首を捻りました。
「矛盾してませんか? 復讐ならお金を渡したくないと思います。横取りする、とか」
「東雲信にとっての、ささいな反抗とか? お金を渡せば木更城源五郎の思い通りに隠蔽できる、渡さなければ拒否している君達の望み通り。横取りすればどちらも望む結果になる。どう転んでもどちらかの希望が通るんなら『何もしない』っていう反抗をした」
青年は「道端で駄々こねる子供みたいなもん」と付け加えました。
夕が黙っていると、青年は「ふん」と不機嫌そうにしました。
「全員、自業自得。罰を受ければいい」
夕は必死に考えていました。
「その、木更城源五郎さんはなんでお金を……?」
「それは知らない。自分で聞けば」
「……そうですか」
夕は「ありがとうございました」と受話器を置きました。ふう、と息を吐くと、暖房の暖かい空気が肺に溜まります。
響夜は、自分の足元を見ながら何やらブツブツ言っていました。
「ああの、隠蔽ってなに?」
夕は言葉の意味がうまく汲み取れず、困ったように眉を下げました。
「えーっと……事件を隠したかったんですよね?」
「ききさらぎ……が隠してるの?」
ヒーローがにやりと笑いました。
「案外頭良いんすね。尊敬するところでしたよ」
「ななんで急にほ褒めたの」
「それ褒めてないですよ」
夕は「でも、確かに……」と思案しました。
木更城源五郎は加害者ではない。なぜ市原家に従い、娘を守らなかったのか。なぜ何年も、少なくない金額を払い続けているのか……
「母さんは、いらなかったんだ……」
夕は響夜に面と向かいました。
「あの男の人に言っても変わんないなら、ヨウイクヒもミマイキンも、もういらないって直接言いに行きましょうよ!」
夕はヒーローに言います。
「木更城源五郎さんと話したいです」
「マジで?」
追加依頼にたじろぐヒーローは、離れて様子を見ていた眼鏡の男性に目で助けを求めました。
「……先生はただいま外出中です」
「お願いします、少しの時間でいいんです。会わせてもらえませんか?」
グイと迫ってくる勢いの夕に、男性は困っているようです。
ヒーローが後ろで「依頼だから」と拝んでいます。男性はそれに気づき、眼鏡をくいと上げました。「うんん……」とわざとらしく咳払いをし独り言のように、しかしはっきり聞こえるように言いました。
「まあ、市原様と栄様と久々の会食だと仰っておりましたが……。お会いできるとしたら十七時頃、市原様のお屋敷でしょうね」
夕はハッと気づいたように顔を輝かせました。
「行きましょう!」
まだ理解していない様子の響夜の腕を少し揺らして促します。そのまま西の住宅街の方へ走り出しました。響夜は釣られて夕の背中を追います。
「巻き込んですんません」
ヒーローは男性に謝った後、走り去る二人を追いかけました。
十七時のチャイムが鳴りました。昼間は地表を暖めていた太陽が微睡む時間です。
三人は武家屋敷の高い漆喰塀を伝って歩きました。
「ここですよね」
「ん、うん」
市原グループの社長が代々この屋敷に住んでいることは、たちばな市では有名です。しかし、行けども行けども、玄関らしきものが一向に見えません。
先導する夕は、自信が無くなってきたのか歩みが遅くなってきました。響夜とヒーローは、そんな夕を見ながら後ろを付いていきます。
三人がとぼとぼ歩く路地の向こうに、真っ黒なスクーターがタンデムで走っています。緩いスピードで流すスクーターに乗る、背の低い二人組がまじまじと見てきました。
「なにしとんの?」
「壁フェチかも」
長い黒髪の女の子と、同じ髪色をした男の子です。
女の子はヒーローを見つけると男の子に声を掛け、タンデムシートからピョンと跳ねて降り立ちました。そのままヒーローに近づいてきます。並ぶと、女の子の頭はヒーローの胸ほどです。手慣れたように上目遣いをしました。
「にー君見てーランドセル新しいの、可愛いくない? 似合うでしょ」
女の子は片脚でくるりと回り、背負った真っ赤なランドセルを見せつけます。
「……似合いますけど、もう十七歳っすよね」
「まだ十七歳だよ!」
「じゅうなな!? 響夜さんと同い年なんですか!」
夕は素っ頓狂な声を上げ、女の子の頭から爪先まで一通り見たあと「あ、ごめんなさい」と視線を上げました。まだ小学生のような体格の二人は「いいよ」「慣れとるし」と微笑み返します。
ヒーローは口をへの字にしながら二人を紹介しました。
「……親戚の、鮮美さんと勇馬君す」
鮮美と勇馬は新しい玩具を見つけたように、夕に近寄ります。
「で、なにしとるの?」
「壁が好きなの?」
「いえ、木更城源五郎さんがここに居るって聞いたんで会いたいんですけど、どこから入ったらいいか分からんくて……」
夕が塀を見上げながら言うと双子は目を合わせて、それから鮮美がにやっと笑いました。
「じゃあ、スパイごっこしよ!」
「うん」
「ここの家、塀は無理だよ。生垣から入るの」
「こっち」
男の子が西の方角を指差します。鮮美は先に歩き出していました。
塀沿いにしばらく歩き角を曲がると、一箇所だけ竹垣になっていました。
「竹になっとる!」
「直されとる」
太い竹が並んで目隠しされています。鮮美は「んー」と楽しそうに喉を鳴らし、竹を一本むんずと掴んで揺らしました。
「これいけそう」
竹は数ミリぐらつきますが、固く縛られた麻縄が侵入者を許しません。その後ろで夕は、鮮美の行動に不安になっていました。
「あの、こういうのって犯罪ですよ?」
双子は目を合わせました。
「いつもやっとるしね」
「うん」
「でも……」
夕が不安そうな顔をするのを見て、鮮美は唇を尖らせました。
「じゃあ正面から行くぅ?」
「やっぱこっち」
勇馬が北を指差します。またしばらく歩き角を曲がると、大きな門がありました。大きく綺麗な木の表札には「市原」と書かれています。鮮美は門の左角にある小さな通用口を示しました。
「あそこの扉ね、鍵開けれるよ」
「金属疲労してんの」
勇馬はスクーターを道路脇に停めると、シートの下からマイナスドライバーを取り出しました。扉板の隙間にマイナスドライバーを突っ込み、手に伝わる感覚のみで鍵を操作します。四人が見守る中、カチカチャガチンと金属の音がし、数秒で解錠しました。
「できた?」
「できた」
「待ってください。これもこれで犯罪ですよ」
「だだめなやつ?」
「はいはい、バレんうちに入ってください」
五人は小さな扉を順番にくぐり、敷地内に侵入します。
玄関脇の庭園はシンと静まり返っていました。
夕は立派な屋敷を物珍しそうに見渡しながらも、やはり悪いことをしている居心地の悪さを感じているようです。
突如として、ビービーと警告音が鳴り響きました。夕の肩がビクッと跳ねます。
警告音は、敷地内のみに聞こえる音量で鳴り続けます。続いて電話越しのような機械音声が流れました。
「訓練、訓練、敷地内に侵入者あり、繰り返します。訓練、訓練、敷地内に侵入者あり」
夕は口をパクパクさせながら、ヒーローを見たり鮮美を見たりと忙しそうです。
「これ、利用されましたね」
冷や汗をかくヒーローを横目に、鮮美はにやっと笑っています。
「どうする、中入る? 屋根上る?」
「それか隠れる?」
ヒーローは面倒くさそうに猫背になりました。
「隠れる一択すよ」
「でも、どこに……」
夕の声は慌てているように裏返っています。ヒーローが適当な方向を指差します。
「そこの池の裏とか?」
計画が決まると、五人は駆け足で池の裏の茂みに身を潜めました。小柄が三人いるとはいえ、やや窮屈です。
鮮美は髪を指に巻き付け不服そうにしました。
「いつも見つからんのに!」
「誰か見てたんかな」
屋敷の中では、使用人が慌ただしく行き来しています。庭園にも使用人が一人、近づいて来ました。五人分の足跡を辿りながら、何かを探すようにキョロキョロしています。
ヒーローは使用人の動向を見ようと、首を動かしました。
「ここ狭いすね」
「ごごめん」
「謝るほどじゃないすよ」
響夜が身じろぎすると、肘が鹿威しに当たりました。竹筒がぶれ、コ、カと不規則な音を打ちます。その音で、使用人が茂みに視線をやりました。すかさずインカムに向けて報告します。
「侵入者目視! 西庭園壁際! 武器確認できず!」
使用人の元に、すぐに複数人が集まってきました。池の裏を警戒しながら、ひそひそ話し合っています。
「これ、やばくないですか」
夕は震えた声で言いました。鮮美はその言葉を聞いて、つまらなそうに尖らせていた唇から一変、にやっと笑いました。
「先手必勝!」
「鶏口牛後」
鮮美と勇馬が茂みから飛び出し、二手に分かれて走って行きます。
「二名逃走!」
突発的な行動に、残された三人は一瞬固まりました。
夕は頭が回らないまま、反射的に鮮美を追いかけました。響夜も遅れて付いていきます。
ヒーローは「よっこらせ」と立ち上がり、勇馬の走ったほうへ行きました。
「五名逃走! 菜園方向及び裏手方向!」
報告の声を合図に、使用人たちも走り出します。
鮮美は小さな体を活かし、狭い通路を難なく通り抜けます。夕と響夜はもたもた引っ掛かっています。
勇馬はパルクールのように障害物をひょいひょい避けながら、スピードを落とさずに庭園を駆け抜けます。ヒーローは縁側近くを走っていました。振り返って追跡者を確認していると、沓石に足を引っ掛け不恰好に転びます。好機にすかさず使用人が馬乗りになりました。
「こういう時って普通、強い人から捕まえんすか?」
ヒーローが愚痴る間にも、夕と響夜は通路から引っ張り出され、両手を拘束されます。
「縄!」
「はい!」
すぐに麻縄が用意され、流れ作業のように三人の手首を後ろ手に縛りました。手首と麻縄の間には、気休め程度に薄いタオルが挟まれています。
「なにやってんのつまんなーい」
「もう終わり?」
立ち止まった鮮美と勇馬は、近くにいた使用人に自ら手を差し出し、体の前で縛られます。
「五人捕縛完了! 残敵警戒せよ!」
数人の使用人が、侵入者五人を取り囲むように並びました。五人は順番に長い麻縄で繋がれました。
「歩きなさい」
背中を押されて誘導されます。
五人が連行されたのは四畳半の和室です。
しばらく待つと、細身の男性が入ってきました。使用人が揃って頭を下げます。
「やあ、捕まえましたか」
「はい、滞りなく捕縛致しました」
「ご苦労様です。今日は早かったようで」
続いて、白髪の中年の男性が入ってきました。
「事務所から三人組だと聞いていたが、当然のように二人も混ざっているとは」
「市長のお孫さん、今日は調子悪かったみたいですね」
「ええ、これで懲りてほしいものです」
市長は鮮美と勇馬を見て溜息を吐きます。双子は目を合わせて、それから鮮美がにやっと笑いました。
「手ぇいたーい」
「前の手錠よりマシ」
元気に騒ぐ二人を、ヒーローが恨めしそうに見ました。
「双子が鍵開けたんすよ」
夕は唇を噛んで沈んだ表情をしています。
「……ごめんなさい、俺が言ったから」
「……」
市長は五人の顔を順番に見て大きく溜息を吐いた後、男性に言いました。
「英博さん申し訳ない。会食はリスケさせてください。あとは私のほうでやります」
「分かりました。では後ほど」
そう言うと、男性と使用人たちは和室から次々と出ていきました。
その間に、ヒーローと鮮美と勇馬は両手の拘束を解いていたようです。
「あーあ、今日もツいてないすね」
「まあまあ面白かったけどね」
「大人数もたまにはいい」
「ねーもう終わり?」
「まだカラス鳴いてない」
「まだお日様高い」
「まだ子供のアニメの時間だし」
「まだ夕方のチャイムも鳴ったばっかり」
「お前たちは帰っていなさい」
鮮美と勇馬のお喋りを市長が一喝します。鮮美は「はーい」と不満そうに返事をしました。
「まー君追って来てるかな?」
「スクーター持って帰ってもらおう」
鮮美と勇馬は軽口を叩きながら和室から出ていきました。ヒーローは
「本人おるんで今回の依頼はこれで完了すね」
と言って、のそのそ出ていきました。
和室に残ったのは、市長、夕、響夜の三人だけです。
床の間に飾られた一輪の白い花が、澄んだ香りを放っています。
市長は、部屋の中央にどかっと胡坐をかいて座りました。天井を見上げ、はあと溜息を吐きます。
「お前達、なにをしたか分かっとるだろうな?」
「……ごめんなさい」
「なにをしたか、と聞いているのだ」
「……」
「不法侵入だ」
市長は部屋の隅に立ち尽くす二人を見て、低く厳しい声で言いました。夕はバツが悪そうに顔を伏せ、響夜は居心地悪そうに身じろぎます。
「それで、私に用があるのだろう」
夕は顔を上げました。
「……はい! あの、ヨウイクヒとかミマイキンとか、お金いらないです!」
市長は、夕の思考を読み取るように鋭い目つきで見ました。
「ああ、息子か。どこまで聞いたのだ?」
夕はまっすぐ見返しました。
「知らないって言われました。なんで木更城さんが事件を隠してお金を? 完全に被害者、なんですよね……」
市長は落ち着いた声で話し始めました。
「完全に……だろうか。同意があったか無かったか、当事者でない私に知る術はない。しかし」
市長は響夜を見ました。
「君がここにいる事が、行為(それ)が事実だと証明している」
苦虫を噛み潰したように顔を歪ませます。
「どんな経緯があったにせよ、決して中学生にしていいことではない」
「……はい」
夕は話を理解し、胸がふつふつと熱くなるのを感じました。
「あれは、私の贖罪だ」
「しょくざい?」
市長は前屈みになり、体の前で手を組みました。
「私は力が欲しかった。徳が欲しかった。脳が欲しかった。手足が欲しかった」
過去を辿るような優しい声音で言いました。
「私が望んだから娘は力を持ったのだ。力を持ったから、傷つかなくていい子らが傷ついた。その金はせめてもの償いだ」
市長は「私の自己満足だ」と目を伏せました。
「それであの子らの傷が癒えるわけではない」
組んだ手はぐぐぐと力強くなり、赤くなっています。
プ、プププと音が鳴りました。市長は胸ポケットからスマートフォンを取り出して、耳に当てます。
「はい、どうした……それは急ぐのか?……あとでかけ直す」
スマートフォンを畳に置いて、夕に向き直りました。
「これで十分か?」
夕は「俺の父さんは」と聞こうとして、言い直しました。
「大学生の五人って今はどうしてるんですか?」
「主犯だった奴は今も獄中にいる。奴は隣街の出で、この街とは関係ない」
市長は安堵したように微笑しました。
「あくまで戸籍上の話になるがな。二人目は心を入れ替えて普通の家族として暮らしている。子供は、お前達も見たことがあるんじゃないか」
市長は置いたスマートフォンを持ち、目を遠ざけながらススッと操作します。「これだ」と見せたのは、商店街の大型テレビに映っていた男の子でした。
夕は息を呑みました。偶然だと思って深く考えていなかったものが『必然』だったのです。
胸のあたりに、得体の知らないものに対するどす黒い感情が渦巻きます。
市長はスマートフォンを畳に戻すと続けました。
「三人目は――」
夕は顔を向けられます。
「お前の父親は耐えきれず逃げ出した。四人目は――」
市長は響夜を見ました。
「処罰通りに暮らしていたが刑務所行きになった。四年前だったか」
その言葉に、響夜は小さく頷きました。
「五人目、東雲信は私が飼っている。お前達と一緒に居た双子が、戸籍上の子供だ」
夕は鮮美と勇馬の顔を思い出しました。そして、はたと気付きます。
「待ってください。俺、響夜さんとあの二人と歳が違いますよ」
「君はあの時の子じゃない。お前の父親が最後に犯した罪だ」
「罪……」
その言葉に、夕はすぐに結論を導き出しました。
「結婚させるって……そうなること、分かりますよね……」
夕の言葉に嗚咽が混ざります。病院で見た弱々しい母親の顔が浮かびます。助けを呼ぶ声が聞こえるようで、心臓が張り裂けるほど痛くなりました。
「なんで……っ」
市長は「しょうがないか」と呟きました。
「理由は教えてやるが誰にも言っちゃならん。これはお前たちに関係ない、余計なことなんだ」
市長は夕と響夜を交互に見ました。言葉はなくとも、覚悟が決まった眼をしています。
「桜祭り、天神祭、納涼、秋の豊祭、とんど、結納、葬式……。毎年毎月毎日、この街には数多くの催事があるだろう」
夕は言葉の真意を探るように、弱く頷きました。
「それらを取り仕切り、舞い、詠い、奏でる人がいた。自身を捧げることで目に見えぬ者と繋がり、いつしか人ではなく、神に近いものになるのだ。催事の回数を重ねるほど神に近づき、力が強くなる。存在も、価値も、口から出る言葉一つも」
障子から差す日が陰り、和室の空気は重く沈みます。
「神に抗えば厄災が起こる。当然だ。地震も、津波も、台風も、豪雪も、事故も、全て神の御心において下される審判なのだ。言葉一つも言霊となり、影響を及ぼす。誰も神に抗うことはできない」
おとぎ話を聞かせるように語りました。
「私たちは神の言葉に従い、敬ってきた。そのおかげでこの二百年、大きな災害が起きていないだろう。あの事件が起こるまでは、それで上手くいっていた」
目を閉じ、深く呼吸します。
「あの事件当時、意思決定は一色先生だった。市原も先生も、東雲に借りがある。先生は東雲の為に判断し、下々は厄災を恐れて従うしかなかった。酷い運命が重なってしまったのだ」
一息に言うと、今度はゆっくり吐き出しました。
「今は、私達が変わるがわる催事を行うことで、言霊の力は弱まり分散した」
言葉を深く溜めました。
「その代わりに、絶対的な支配者がいなくなってしまった。支配者の居ない箱庭は脆い」
「箱庭……?」
「人を育てる場所として、私達御三家が作り上げたのだ」
市長は床の間の花を見ました。
「真っ白な花はやがて土の色になり、風に染まり、雪に濡れる。何色に成っても、かつて白だったことは忘れない。私達が手塩にかけて育てた恩はその身に刻まれる」
触れるか触れないかの距離で、慈しむように花弁の縁を撫でました。
「この街で育った子らはいずれ外に出て世界を作っていく。私達は整え、指導し、助力してやる。さすれば、全てが私達の思うままとなる」
花瓶を少し持ち上げ、沈みかけた日に当たるように置き直しました。
「誰かのための善より、自分のための偽善。分かりやすいだろう」
薄笑い、二人が言葉を理解したと分かると、眉間に皺を作りました。
「余計なことまで喋ってしまったな」
心を落ち着けるように、畳を爪でトントンと弾きます。やがて夕をまっすぐ見て言いました。
「お前は外に出るべきだ。必要な金は私が工面してやる」
夕の目を見ながら、遥か遠くを羨望しているようです。
ふと気づくと、誰かが障子の前に立っていました。市長は「なんだ」と声を掛けます。
背の高い男が障子を引きました。西日に照らされ、顔はよく見えません。
「新都様、鮮美様、勇馬様をお送りして参りました」
「ああ、分かった。君ももう休みなさい」
市長は立ち上がり、強く言いました。
「話は終わりだ。帰りなさい」
その言葉に、夕と響夜の身体は勝手に従いました。男の前を通り過ぎる時、顔がよく見えました。病室で会った男です。
風も無いのに障子がガタガタ震え、土の匂いが濃くなり、床の間の花瓶がカタカタ回って倒れました。
その音に追い立てられるように、夕と響夜は和室を出ました。
市長は最後、夕に言いました。
「君は私の下で生きなさい。その命を私のために使いなさい」
夕と響夜は帰路につきました。
日が役目を終え微睡むように彩度が低くなり、辺りが見えづらくなってきました。
二人は、赤く跡が付いた手首を気にしながら歩きます。
「知ることって、余計なこと……ですか?」
「わ分からん」
「俺の知ってる母さんは、あんな、いじめとかする人じゃない」
消え入りそうな言葉を紡ぐ唇はわずかに震えています。
「いや、母さんがどんな人だったんでもいい。母さんは俺の知ってる母さんだから」
夕は自分を納得させるように、数回頷きます。宛て処のない感情を放つように、夕は空を見上げました。
「俺、あの人の言う通りになるんですかね?」
「ななりたいの?」
「他人に決められるなんて嫌ですよ。……俺は、どうしたらいいんですかね」
どす黒いものが再び体を埋め尽くし、夕は立っていられませんでした。
「いや、駄目だ。俺の人生なんだから、俺がちゃんと決めんと……」
しゃがみ込み、腕に顔を埋めます。ツンと冷えていた鼻が体温で暖まり、はぁと白い息を吐きます。
「うん、俺は自分で決められる」
瞼をゆっくり閉じ、就職を決めた時のように、これからの自分を考えました。
響夜は三歩離れた場所で見守っています。
夕は顔を上げました。
「決めた。俺はこの街におります。母さんと一緒に普通に生きる。それが俺にとっての復讐です」
夕は大粒の涙を流しました。静かに、静かに、心の中の黒いわだかまりが溶けていきます。
何かの視線を感じたのか、ふと振り向きました。大きな瞳には淡い影が揺らいでいます。日が眠りに落ち、もうすれ違う人の顔もよく見えません。
「あ、ごめんなさい」
夕は一歩下がりますが、その間に影は形を無くします。
「……今そこに、女の人いませんでしたか?」
夕は涙をぐいと拭いました。
私の弟は、とても美しい男の子です。
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